選択したカテゴリーの記事一覧
- 2025.04.20 [PR]
- 2011.12.04 飛鳥京跡苑池第6次調査現地説明会
- 2011.12.02 平城京左京三条二坊十一~十四坪の調査
- 2011.11.28 飛鳥寺西方遺跡
- 2011.11.27 橿原市 今井町と発掘調査現地説明会
- 2011.11.12 中西遺跡第18次調査
- 2011.11.05 藤原宮朝堂院朝庭の調査
- 2011.09.17 興福寺北円堂院回廊の発掘調査現地見学会
- 2011.08.28 秋津遺跡第5次調査
- 2011.08.20 『脇本遺跡第17次調査』現地説明会
- 2011.07.21 多忙、一段落
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
推定、飛鳥浄見原宮の北西、飛鳥川の河岸段丘上で人工的に作られた池の跡が発見されてから既に12年もたち、調査も今回で6回目となっています。
『飛鳥京跡苑池』というのが遺跡としての正式名称ですが、一部の関係者は別の名前で呼ぶ事もあります……σ(^◇^;)何て?
今までの調査により、池は渡り堤を境にして南北に別れ、北池からは更に北へと水路が延びて、飛鳥川に流れ込んで行くと考えられています。
ただし、検出されたルートと現在の川の位置は離れすぎているので、1300年前には川の位置が今とは違っている可能性もあるようです。
これによって、今は橿原考古学研究所の博物館に展示されている二つの石造物を据えていた石なども確認されて、従来の位置からは動いていなかった事が確認され、その周囲に新たな柱の跡も見つかったので、何らかの施設があったと推定されています。
さて東側の岸はどうなっているかと申しますと、自然の断層崖の斜面にかなり大きな石を積んで、3メートルもの高さになっているとの事ですが、現在では飛鳥時代の層位は削られてしまい、古墳時代の堆積層が検出された事から、更に高かった事が確認されました。
この後の時代、池は徐々に埋まって行き、平安時代には東側では一メートルくらいの土が堆積して、その上に更に石敷きなどを設けて、なおも存続していた事が伺えます。
出土遺物としては、その時代の瓦器碗や土師皿が出土しておりました。
更には『馬養』もしくは『鳥養』と書かれた木簡が一点だけ確認され、池との関わりも色々と推測をされているようです。
そして今回の現説のサプライズは、博物館のマスコットキャラクターの『イワミン』の着ぐるみのお披露目??
何でもイワミンの中に入れる人の身長制限は160cm程度、男子禁制だとか??
若い女性職員が交代でがんばってくれたという話でした( ̄▽ ̄)。o0○
PR
既に一週間近くたってますが、この前の日曜日に奈良市で行われた現地説明会です。
この場所は県営プールがあった場所で、新しいプールは広陵町に出来るらしく、こちらは商業地として売却したい県の意向により、遺跡の発掘調査をしたと聞いています。
まだ、ホテルが出来るのかマンションが出来るのか、はたまた商業施設が出来るのかは未定……
現場に着いた時、何に驚いたかと申しますと、これぞとばかりにそびえた巨大な残土の山と、はがされたおびただしいアスファルト塊……(・_・;)
調査区を見て、だだっ広いだけじゃなくて深い……
それも現地表から2mは現代の埋土……こりゃ、アスファルト剥がしと重機掘削だけで結構かかっただろうなぁ(゜-゜)
ところが調査面は、奈良時代後期の一面だけ?
要するに当時の一等地なのですが、ここで検出されたのは、交わる条間小路と坊間小道と、小規模な掘っ立て小屋が10棟ばかりと井戸が7基、区画を分けると思しき柱の列くらいです。
この時代、五位以上の官人は、大路に囲まれた区画を16に区切った一坪を占有する屋敷にすむ事が出来ました。
それよりも低い身分の人は、1坪を2~16にまで区切って、さまざまな大きさの土地に家を構えていたとの事です。
ここで出てきたのは、そのような比較的低い身分の人たちの家のようです。
それも、土地利用がなされたのは奈良時代の後半だけ?
前半は住居区域として使われた痕跡はないようで、その下は古墳時代の層になってしまうという事です。
この場所は結構地下水位が高いようで、住宅地としては不適切だったのか、さもなければ何かの施設を作るために確保したまま、放って置かれた土地だったのか?
それにしても左京三条二坊に、下級役人と思しき人たちの住居があった理由ははっきりしません。
おまけに井戸が7つも出ているのですが、その内の6つまでが同じ区画に集中しているのも奇妙な有様です。
ちなみにこの坊の西隣、左京三条一坊には、確か2坪を占有すると推測される大規模な屋敷があり(私はここを勝手に藤原北家にしたがっていますが、氷高内親王や吉備内親王の宮だという研究者もいます)同じ三条二坊の長屋王の邸宅は4坪占有、四条二坊の田村第は6坪とも8坪とも言われています。
なんとも奇妙な土地利用のこの場所ですが、果たしてどこの会社が買い入れて、何を建ててくれるんでしょう?
すぐ近くがイトーヨーカドーですから、ショッピングモールは無理かな( ̄▽ ̄)。o0○
今回は明日香村教育委員会の調査で、飛鳥寺旧境内の西側、飛鳥川との間に広がっていたと推測される広場の範囲確認調査です。
『日本書紀』には『飛鳥寺の西』という記述が皇極天皇から持統天皇の時代にまで見えるそうで、それには槻の木という表現も伴い、セレモニーなども催した記録が記されているので、飛鳥寺の西側には広い饗宴のための空間が設けられ、そこには象徴的に槻の木が生えていた事になります。
今回の調査区は、そろそろ南の端か、という辺りに設けているのだろうと思うのですが、まだはっきりとした事は言えそうにありません。
最初の画像の真ん中を突っ切っている東西の石組みの溝は、幅90cm、深さは10cm、存在は初めて検出されてたのだと思います……ってのは、今回も今までに同様、現地説明会ではなくて現地見学会だったので、具体的な説明はなしで、質問のある方は関係職員にお気軽にお尋ね下さい状況でした。
ちなみに報告会は、前日に行われたそうです……知らなかったσ(^◇^;)
このど真ん中に伸びている畦の左側で部分的に、溝を埋めるように小ぶりの石が敷かれているのですが、この石と東西溝の北側に広がっている石敷きとが同時期か否かは、今のところ分からないようです。
東西溝と石敷きの間に石列が見えるのですが、こいつが南北溝を切っているようで、そうなると交差すると思われる二本の溝にも時代差がある事になるのかな……?
更には、ここに石が敷かれるより前に、整地した土地の排水のためと思われる暗渠の土管が、ここでも確認されているとの事。
ここでは南北溝の下を斜めに横切っていますが、ここの北側では真っ直ぐ正方位に乗って180メートルも確認されているとか。
やはり、かなり広いスペースを飛鳥寺の西側に設けている事は確かなのでしょう。
このような訳で、明日香村での調査はまだまだ続き、新たな発見が更にある事かと思われます。
来週は橿考研の苑池跡の現地説明会だったかな?
江戸時代には幕府の直轄地で、町の名前にもなっている今井氏は武士をやめて(身分を取り上げられて)町人となり、「大和の金の七割は今井にあり」と言われるほどの商業都市となりました、このイメージが強いでしょうか。
商業都市となるより以前の今井町は、室町時代くらいまでは興福寺の一条院の荘園だったそうで、戦国時代になると一向宗が乗り込んで来て、更には本願寺系の寺院である称念寺が建立されると、この寺を中心として寺内町が出来上がり、環濠集落へと発達して行きます。
ここには寺と共に中心となる豪族居館があり、地元の年配の方がお城と呼んでいるのも聞いた事があります。
確かに、お堀で囲まれた平城(ひらじろ)としても機能していたようです。
さて、戦国時代の今井町は石山本願寺や三好三人衆のサイドにつき、大和にも支配を伸ばそうとする織田信長に対抗する事となります。
この頃には、町の周りに土塁で囲み、三重の深い環濠をめぐらせて環濠城塞へと変貌して行きました。
画像の右側には、今井町の鎮守『春日神社』があり、そのすぐ西側を走る道の調査の時に、中濠、内濠が検出されています。
調査区内の手前の方に白線で引かれているのが環濠の西の肩の部分で、埋土の様子を見ると、人為的に埋められている事が良く分かります。
これは石山本願寺が信長と和睦したために、今井も信長傘下に下る事となり、武装解除をして土塁を壊し、堀を埋め立てたためだろうと考えられています。
この後にも今井町を巡る環濠は掘られるのですが、この新環濠がいつ出来たのかは文献に残されていないとの事です。
発掘調査では三重の部分と一重の部分が、両方確認されているそうですが、17世紀の後半の絵図にも同じように描かれています。
春日神社境内の南側に、この新環濠が一部復元されています。
新環濠が巡る頃には、今井町は自治都市として「海の堺、陸の今井」と賞賛されるほどの商業都市へと変貌していたはずです。
結構だだっ広い奈良町や、街道沿いにズラッと続く新町に比べますと、今井町は案外コンパクトで道も細く入り組み、三者三様個性的です。
町屋を再利用したお店なども少しずつ増えて来て、駅前まで戻らずとも、洒落た雰囲気を楽しみながら食事が出来る場所も出来ました。
それでも奈良町に比べると、まだまだ知名度は低いですねσ(^◇^;)
周囲に更に回れるような観光地がないのが、チョッとネックですかね。
飛鳥からも三輪からもかなり遠い、藤原宮跡や橿原神宮も歩いて行くのは結構大変……
橿原市も八木周辺は一大市街地となっていますが、大和三山なども近くに見え、時にはこのようにハヤブサなども市街地に現れます。
この子は今井町の八幡神社近所の庭木から、向かいの家のアンテナに飛び移り、更に春日神社の方へと飛んで行きました。
とにかくこの時代の水田としては、今現在でも日本で一番広い耕地面積を検出しているのがこの遺跡、南はかつての調査で判明した森林との境の川まで、北はもう少し延びて、現在調査中の範囲にまで及んでいます。
しかし東西の範囲はまだ未検出、いったいどれだけの広さとなるのでしょう。
現地説明会は、調査区の南側の土山の上に展望場所を作って、こちらで全容を見せてもらって、調査担当者の話を伺いました。
これがだいたい中央部の辺りかな?
とにかく下に降りてしまうと、遺構が田んぼだけに全部同じような調子、まさに何が何やらというところです。
調査区内にコンパネで道を作っていますが、そこを歩いている人達との比較で、とにかく広いという事は分かるでしょうか。
人が集まっている辺り、島状遺構と仮の名称をつけている高まりがありますが、これは広い水田遺構には時々見られるそうで、今のところ何のためにこの場所が置かれているのか、定説はないようです。
これだけ広く、起伏も多少ある土地に効率良く水を引くためにも、何本かの水路を通し、田一枚の面積も小さくして水を溜め易くしているのが、古代の水田の特徴です。
ここでのサイズは大体が3×4メートル、畦の高さは5cm程度です。
そしてこの土地は氾濫現のようで、160センチにも及ぶ砂とシルトの層で埋められています。
この土砂を運んで来た川の存在ははっきりしませんが、調査区内にも後の時代に方向を変えて流れ込んだ支流が、耕作面を壊して何本か流れています。
後の時代になっても、この場所は水が湧きやすかったと見えて、近世の野井戸の跡なども見る事が出来ます。
水田遺構では殆ど遺物が出ないというセオリー通り、弥生前期の土器片が少しと、半分に折れた石包丁が見つかったくらいだそうです。
現在、この場所の北でも弥生時代の面を調査していて、水田の続きや水路が検出されていますので、北限の検出はそちらの調査に譲る形になりそうです。
さて、この広大な水田を営んでいた人々は、何処に住んでいたのでしょう?
この先、西の方向にも調査が広がって行くそうなので、そちらで住居址や集落の跡が出てくれると良いのですけれどねぇ(゜.゜)
前回も朝堂院地区で、この場所のすぐ北側、おまけにその時の現説も雨でした……(-_-;)
本当に奈文研の現説は雨が多いです。
誰か神通力でも使ってるのか(・_・;)
朝堂院は大極殿院内の、臣下が集うスペースで、朝庭はそこの朝堂に囲まれた何もないスペースです。
何もないと言いましても、全面石敷きで儀式が行われる場ですから、場所としては大変重用なスペースです。
しかし、この場所は石敷きが殆ど残っていないようで、近世までの耕作土をはがすと、すぐに藤原宮造営以前の面が出て来るとの事です。
藤原京は宮域を定める前に坊条道を通している事は有名ですが、今回もこの様子を検出しているようです。
調査区の西側では、先行朱雀大路の東側側溝と考えられる南北溝が出ていました。
そしてその溝に平行して、かつての調査でも発見されている南北方向に伸びる運河が見つかっています。
これは藤原京の造営に際しての物資を運んだ水路と考えられ、既に分かった総延長は570メートルにもなるのだとか。
最終的には飛鳥川とつながるのだろうと推測されています。
この他にも五棟の掘立柱建物が、最低でも三期に亘って建て替えられた事が分かっているので、ある程度の期間、この場所に造営のための役所的な施設があった可能性も考えられます。
場所が場所だけに、やや地味な成果にも見えますが、これらの調査の積み重ねが新たな事実の判明になるので、気長に注目しております。
しかしだよ……この面積に半年以上かけているって、行政発掘じゃ考えられんぞ(--〆)
と、今日は愚痴で終わってみたりしてσ(^◇^;)
興福寺の北円堂と言えば、藤原朝臣不比等の一周忌に元明太上天皇が建立を命じたとされていまして、そのの後に二度ほど焼けています。
二度目が平重衡による南都焼討ちでして、現在の北円堂そのものは、承元四(1210)年の再建とされ、興福寺に現存する建物の内でも最も古い物です。
今回の調査対象の回廊は、最初の火事の後には再建されたと記録にあるのですが、二度目の時にはどうなのかが不明なのだそうで、範囲確認などと同時にこちらの確認も兼ねているとの事です。
しかし、如何せん残りがこのような状況、現時点ではまだ不明で、この後に遺物の取り上げ、遺構の状況などから検討する事になるのでしょう。
上の画像は南門の遺構なのですが、御覧のように基壇すら残っていない程、見事に削平されています。
それでもかろうじて、コーナー部分に地覆石(じふくいし)の抜取り跡が検出されたため、門の基壇の大きさは判明しました。
西面回廊も全体を検出していますが、かろうじて残る地覆石や抜取り穴、雨落溝(今現在は殆どが瓦溜りに埋もれています)で、長さや幅が確認できた状態です。
更には礎石の据付穴の跡もほぼ検出できたので、規模や構造(単式回廊です)も推測が出来ます。
こちらの画像は北門跡ですが、南門に比べればかなり残りが良い方でしょうか。
地覆石の列と羽目石も一段目が残っています。
ところが北側はと見れば、見事に後世に削られて残っていません。。
現地形は、そこから北は窪地になっていて、更に北にはホテルが建てられ、登り大路が走っています。
今まで、興福寺伽藍の置かれた立地を全く考えた事が無かったのに、今更ながら気づいたのですが、この北円堂は伽藍内の北西に建てられていますが、伽藍復元図の上で見ると、更に北側も伽藍の内部となっています。
現在の状況では、ここに別の建物があったかは既に分かりません。
本来、伽藍は東から突き出した舌状の尾根の上に乗っていて、その西の先端部に北円堂や南円堂が建てられています。
南円堂の南西に鎌倉時代に建てられた三重塔がありますが、ここに行くには三条通から登って来る階段の途中から左手に入って行く事になります。
つまり南円堂の南は急激に落ち込んだ崖で、その途中のテラス部に三重塔が建っている事になります。
北円堂もこれと同様、回廊の部分までは整地して高さを合わせていても、その北側は窪地として低い位置に建物が建っていた可能性もあるのでしょう。
しかし、今回の調査では、そのような痕跡は確認できていないようです。
ところで来月の三連休、鹿苑では恒例の鹿の角切りが行われるそうです。
そのような訳で、奈良公園内の牡鹿の中には、既に角を切られてサッパリ(?)しているものも何頭か見受けられました。
こちらの二頭の牡鹿は、東大寺境内の吉城川の橋のところにおりました。
川原に下りているヤツは、この後、大興奮しながら泥浴びをしておりました……こういうヤツから角を切られるんだろうなぁ(ーー;)
二度目が平重衡による南都焼討ちでして、現在の北円堂そのものは、承元四(1210)年の再建とされ、興福寺に現存する建物の内でも最も古い物です。
しかし、如何せん残りがこのような状況、現時点ではまだ不明で、この後に遺物の取り上げ、遺構の状況などから検討する事になるのでしょう。
上の画像は南門の遺構なのですが、御覧のように基壇すら残っていない程、見事に削平されています。
それでもかろうじて、コーナー部分に地覆石(じふくいし)の抜取り跡が検出されたため、門の基壇の大きさは判明しました。
西面回廊も全体を検出していますが、かろうじて残る地覆石や抜取り穴、雨落溝(今現在は殆どが瓦溜りに埋もれています)で、長さや幅が確認できた状態です。
更には礎石の据付穴の跡もほぼ検出できたので、規模や構造(単式回廊です)も推測が出来ます。
地覆石の列と羽目石も一段目が残っています。
ところが北側はと見れば、見事に後世に削られて残っていません。。
現地形は、そこから北は窪地になっていて、更に北にはホテルが建てられ、登り大路が走っています。
今まで、興福寺伽藍の置かれた立地を全く考えた事が無かったのに、今更ながら気づいたのですが、この北円堂は伽藍内の北西に建てられていますが、伽藍復元図の上で見ると、更に北側も伽藍の内部となっています。
現在の状況では、ここに別の建物があったかは既に分かりません。
本来、伽藍は東から突き出した舌状の尾根の上に乗っていて、その西の先端部に北円堂や南円堂が建てられています。
つまり南円堂の南は急激に落ち込んだ崖で、その途中のテラス部に三重塔が建っている事になります。
北円堂もこれと同様、回廊の部分までは整地して高さを合わせていても、その北側は窪地として低い位置に建物が建っていた可能性もあるのでしょう。
しかし、今回の調査では、そのような痕跡は確認できていないようです。
ところで来月の三連休、鹿苑では恒例の鹿の角切りが行われるそうです。
そのような訳で、奈良公園内の牡鹿の中には、既に角を切られてサッパリ(?)しているものも何頭か見受けられました。
こちらの二頭の牡鹿は、東大寺境内の吉城川の橋のところにおりました。
川原に下りているヤツは、この後、大興奮しながら泥浴びをしておりました……こういうヤツから角を切られるんだろうなぁ(ーー;)
これは京奈和自動車道の工事に伴う事前調査で、この場所はインターチェンジかジャンクションが出来るとの事で、かなり広い範囲を開けています。
今回は既に第5次調査となり、昨年の11月に行われた地区の南側を調査しています。
さらに南側も既に調査区として開けられていますが、こちらは中西遺跡、下層の弥生~縄文時代がメインとなるようです。
今更に申しますと、すぐ近くにJRの玉手駅がある事からも知られるように、ここはかつて葛城氏の有力な家の一つと考えられる玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の本拠地と考えられています。
この遺跡で最も重要視される柵に囲まれた大きな方形区画の年代は、出土した遺物から4世紀の前半だろうと考えられ、『日本書紀』に見えるこれら葛城氏の記録よりも若干古くなるようですが、大和盆地の西側を統率したであろう葛城の一族が史書に現れる以前より、大きな勢力を誇っていた事を示唆しているのかもしれません。
これら古墳時代の建物は、東北東から西南西へと緩く下って行く自然地形に沿うように作られている物が多いのですが、調査区の南端では正方位に乗った飛鳥時代の建物跡が幾つか出ていまして、その頃にも何らかの施設があった事が伺われます。
平安時代以降より最近まで、この周辺は農耕地として利用され続け、土地の上面もかなり削られているようで、住居跡の残りはあまり良くありませんが、最も大きな竪穴式住居は一辺が9メートルもあるそうで、これはこれでかなりグレードが高そうです。
何にしても、東の磯城に対して西の葛城、その中心地がこの秋津遺跡になるのでしょうか。
でも、展示してあった遺物はそれほど珍しい類も見られませんでしたが……σ(^◇^;)
上層の7世紀の遺構は正方位に乗っていまして、天武天皇の第二皇女の大来皇女が伊勢の斎宮として潔斎に入った『泊瀬斎宮』ではないのかと推測され、下層の5世紀の遺構は雄略天皇の『泊瀬朝倉宮』の遺構ではという意見も出された事が特に有名でしょうか。
これらの遺跡は三輪山の南側の舌状に張り出した微高地にありまして、その中心は現在の『春日神社』の境内だろうと考えられています。
ここで検出されたのは、実に一片が1.3~1.5mもあろうという四角い掘方を持つ柱穴です。
こいつが3間×5間以上確認されていまして、しっかり正方位に乗っています。
掘方の埋土からは7世紀の土器が出てるそうで、かつての調査で発見された柱列の延長線上に乗るとの事から、この調査で検出されたこれらの柱穴も『泊瀬斎宮』に関係するものだろうと考えられます。
それにしても狭い調査地ですが、東西に長い建物か、二重の柵かと考えられる構築物のコーナーが出ています。
掘立柱の抜き取り跡ですが、使用されていた柱の直径は35~40cmもあったといいますから、そんじょそこらの掘っ立て小屋では決してない事が分かります。
この後、西隣の田んぼの刈り取りが終わったら、そちらの調査も続くそうで、さて、この柱穴の列はどのように続きますことか……