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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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南西から見た調査区の北側久々の難波京内での現地説明会です。
今回は、京内と推定される域の最南端もしくは、更に南側で見つかった五棟以上の大型建物です。

前日の夜から朝方まで降り続いた雨のお陰で、あちらこちらに水溜りが見え、足元もぬかるんだ中での説明会ですが、天王寺駅から歩いて数分という街中、結構、人出はあったように見受けられます。

新聞の記事では、何となく後期難波宮時期の高官の屋敷と思いたい様子が伺えましたが、如何せん、遺物らしい遺物が出ていないので、時代すらも判然としないところがありますし、高位者の屋敷なのか役所関係なのかも分かっていません。

1メートル越えの掘方の柱穴とにかく上町台地の遺跡に驚くのは、近現代の層(調査員によっては包含層扱いらしい?)を取っ払うと、いきなり奈良時代だの飛鳥時代だの、場合によっては古墳時代、弥生時代の遺構検出面になってくれる事です。
要するにメインとなる時代の包含層が殆どない・゚・(ノД`;)・゚・
奈良辺りじゃ滅多に見られない様相です。
この様な理由で遺物が殆ど出ません。

遺構は6×3間の四面にを回した建物を取り囲むように、柱列や中軸線をそろえた四棟の掘立柱建物が並んでいる事が確認されました。
何れも正方位に乗っているので、難波宮関連の時代の物と考えて間違いではないのですが、それが前期難波宮期なのか後期難波宮期なのかが分からない訳です。
それにしてもメインとなる建物の柱穴は巨大で、一辺が1mを超える規模もざらだし、柱根の径も30cmを計るので、かなりの格式の物だと推測されます。

大型の四面廂建物ところでこの遺跡の位置ですが、現在推定されている京の南辺の条路が、北側で検出されている建物の上を通ってしまうという奇妙な事が起きているそうです。
可能性としては、道がもう少し北か南にずれる、もしくは更に南に道があって、ここは2町占有以上のエリアになるかというところでしょう。
難波宮に条坊を伴う京域がある可能性が高まったのは、この何年かの事ですし、現在の復元も他の都城を参考に行っているので、まだまだ確かな事は言えないようです。

今はすっかり市街に覆われてしまった上町台地に、都の有った7~8世紀の様子を偲ばせるものは、殆ど無いと言っても過言ではありません。
北の四天王寺ですらも、度々の火災に姿を変え、伽藍配置と地下遺構だけが往時を語っているというところでしょうか。
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東石室全景 北から排水溝の暗渠と閉塞部の様子相変わらず、15日に行われた植山古墳の現地説明会の写真です。
こちらは東石室ですが、西石室と変わり映えのあるようなないような画像で申し訳ありませんm(__)m

東石室は6世紀の後半に造られたとされ、古墳の中軸線(ほぼ南北方向に向いています)に平行しています。
それに比べて西石室は、開口部がやや南東の方向に振れています。
この事からも、東石室が墳丘に伴って造られた事が分かるかと思われます。
双方を見比べてみて、如実に違うのは石棺の有無ですね。

東石室に残された刳り貫き式の家形石棺は、熊本県の宇土半島から産出する阿蘇溶結凝灰岩(通称、阿蘇のピンク石)でできています。
ピンク石は西石室で使用されている竜山石と並ぶ、凝灰岩のブランド品とされていて、これをわざわざ遠方から運んで来ているというだけでも、古墳の主がただ者ではない事が分かります。
そして刳り貫き式は、石棺の内でも最高のランクに位置しています。
2000年の調査の時、石棺内にはギッシリと土が詰まり、既にずらされていた蓋石は割れた状態で見つかりましたが、石棺の中に遺物は全く残されていなかったという事です。

東石室開口部土層および閉塞土の残存状況東石室もやはり土で閉塞されていましたが、こちらの残りはかなり良いそうで、高さは4m、東西幅10m、奥行きも4mほどもあったそうです。
上の方でU字型に開いている部分は、盗掘時に掘られたようです。
断面に排水溝の石が二列に見えていますが、右側の物は新たに作り直されているとの事です。

ところで西石室の閉塞土は二段階に分かれていて、古い方は東石室(こちらの方が西石室より古い)の閉塞土よりも先に盛られている事が、断面の様子で分かります。
そのような訳で、東石室が土で塞がれたのは、西石室が造られた後という事になります。
そして今現在も閉塞土が残っているという事は、もしもこの二つの石室の主が改葬されているのなら、墓室から主が去った後も、この墓所は留守のままで大切に保持されたという事になります。
何故このような事がされたのか、明確な答えは当然ながらありません……

この後、墳丘の上にはまた覆い屋が建てられ、公園として保存整備の作業が続けられます。
予定としては平成28年に公開される予定だそうです。
植山古墳遠望ここ十年程度で橿原市五条野町の辺りは、かなり住宅造成が進み、風景が一変しております。
この植山古墳も、周囲の造成に伴って調査された後期古墳で、2000年に発表された二つ並んだ大規模な横穴式石室で一躍有名になり、2002年には史跡に指定されました。

この写真は西側にある見瀬丸山古墳から眺めた姿ですが、墳丘自体は右の方、ブルーシートがかかり、一際濃い茶色に見えている辺りです。
尾根の南向きの斜面を削りこんで平坦部を造って、更に墳丘を四角く盛っています。

西石室全景 北から四角い墳丘の東、北、西側にカタカナのコの字型に周濠が巡っていて、南側が開口している事になります。
今回の調査は、その開口部で行っているのですが、新聞などのニュースで発表されたとおり、本来あるべき閉塞石が見つからず、かなりの厚さの盛り土で塞がれていた事が判明しました。

こちらは西側の石室を墳丘の上から見たところです。
東西の石室とも、既に天井部の石は失われていて、このように上から眺める事が出来る状況です。
奥の方に見学者が写っていますが、この辺りは以前には民家が建っていたため削平されてしまっていて、古墳の南側の様子と、南北の長さは分かりません。
そういう訳で墳丘の大きさは、東西が40メートル南北が27メートル以上という事になるようです。
石室の構造や出土した須恵器から、この西石室は7世紀の始めくらいに造られたと考えられています。

西石室 排水の暗渠と閉塞土の状況西石室で一番注目されたのは、手前に小判型に見えている閾石(しきみいし)です。
石室の平面プランはほぼ無袖の形(石室の構造は両袖です)で、羨道(写真では奥の方)と玄室の境の位置に、石で扉を設けていたようです。
閾石は兵庫県の揖保山で取れる竜山石という凝灰岩で出来ていて、上には観音開きになる二枚の扉石があったはずですが、既に運び出されていて、周辺にある神社の敷石に転用されている事が確認されています。

この画像は、石室側から入り口側を見た様子。
床面のはり土は除去されて、石で作られた排水溝が見えています。
その奥に残されている土の上の方が、今回確認された閉塞土です。

西石室 閉塞土残存状況南側に回って石室の前から見ると、こんな感じ。
左下に見えている二つの石が排水溝で、そこよりもかなり上、羨道部の西壁の下で水平面が見えている所の右側に残っている、やや明るめに見える土が閉塞土です。
どうもこの写真では、色の違いも良く分からないのですが、あまり西石室では残りが良くない状況です。

真ん中辺りに玄室の奥石が見えていますが、本来ならばこの前に置かれていてしかるべき石棺はありません。
今までの調査で、阿蘇産のピンク石(凝灰岩)の破片が出ているので、置かれていた可能性はあるそうです。

今回の説明会で調査担当者は、被葬者について一切云々はしておられませんでしたが、世間的な認識では推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓だろうと言われています。
日本書紀』や『古事記』には、女帝が先に亡くなった皇子の大野岡の墓所に追葬されたとあり、後に科長に造られた新たな御陵に移されたとありますので、ここは最初の大野岡の御陵と考えられている訳です。
東石室に比べて西石室の方が四半世紀程度新しいようなので、これらの推測によれば、西石室に推古女帝が葬られたと考えて良いようです。

では東石室の様子は、また記事を改めましてm(__)m

南池全景(チョイト歪みあり……)初っ端から下手な画像のつなぎあわせですみませんm(__)m
三枚の画像を繋ぎ合わせているのですが、変な角度が着いていて、かなり歪んでいます。
それはともかく、飛鳥苑池も最初の調査から既に十三年、既に第7次調査になりました。
当初は調査担当者の卜部氏の名前を冠して、一部では卜部池などと呼んでもいましたが、今もその通称で通っているのかな?( ・◇・)?(・◇・ )?

東側護岸と池底の段、柱の抜取り跡遺構としては、南北の二つの池が渡堤(わたりつつみ)を挟んで並び、更に水路が北に延びて川に排水していると考えられています。
南池は、ややいびつな五角形で、ここに見えている東側の岸から奥の南の岸に向かっては、鈍角というよりはゆるいカーブを見せています。
そのカーブの辺りは、護岸の石積みが高さ3メートル近く残っていますが、池全体の水位は、中央に作られた集石の中島が水面に出る程度と考えると、50センチくらいだったと思われます。
この岸沿いには画像に見るように、低い段差が設けられ、更には丸く石の無い部分が真っ直ぐに並んでいます。

柱の根が検出された部分この石の無い丸い部分は、柱の抜取り穴だと考えられ、延長部にはこのように柱の根元部分が検出されています。
上部は切り取られているようで、どのような施設に付随する物かは分かりませんが、抜取り穴の列は東岸と、北側の中島の岸に沿うように真っ直ぐ並んでいるので、双方に何らかの建物か何かが建てられていた可能性が考えられます。
柱の残る位置は、東岸の一番南側、カーブする少し手前くらいになります。

石造物の抜取り跡と石組暗渠今回の調査で新たに発見されたのは、最初の調査で見つかった噴水状の石造物や、今は京都の私邸の庭石になっている二つの石造物に水をひいていたと思われる石組暗渠と、石造物の乗っていた護岸の部分です。
南側護岸の少し低くなった部分に、大正時代に掘り出された平らで溝のある石(第三石)が置かれ、その手前の池の中に段になった石(第二石)が置かれ、更に少し先に一次調査で見つかった立ち石の石造物(第一石)が置かれていた事になります。
しかし、第一石の穴の高さよりも、第二石の溝の高さは低くなるそうで、二つの石の離れた部分に水を上げるための別の構造があった可能性もあるようです。

それにしても今回見つかった石組暗渠は、石造物に対しても少し高い位置にあるので、水を流す施設だった事は一目瞭然なのですが、この水がどこから来ていたかが現状では分かりません。
現在の飛鳥川はこの池の乗る段丘よりも更に下を流れているので、川の流れる位置が変わっている可能性もあります。
遺構の南側には川が溢れて小石や砂が堆積している様子が見られるので、川底がもっと浅かったのかもしれませんし、暗渠にひいていた水は、川とは別ルートから供給されていたとも考えられます。

苑池は2010年から保存整備活用事業が始まっていて、それに伴う調査はこれからも続けられ、何れは公園のように整備されるようで、更に広い範囲を見て行く事になると思われます。
さて、次にはどのような発見があるものでしょう、期待して見守りたいと思っております。
墳丘全景さても、既に一週間前の現地見学会です。
ちなみに本日は、明日香村にて橿原考古学研究所の現地説明会がございましたが、これはまた記事を改めまして。

この島状の墳丘が何処かと申しますと、堺市の百舌鳥古墳群に所属する『土師ニサンザイ古墳』です。

北側の造出しで検出した埴輪列つい、『上石津ミサンザイ古墳(宮内庁指定履中天皇陵・百舌鳥陵山古墳)』と間違えてしまいますが、こちらは宮内庁が『東百舌鳥陵墓参考地』として管理している前方後円墳です。
江戸時代には反正天皇陵と言われていたようですが、現在は三国ヶ丘にある『田出井山古墳』にその座を奪われまして、陵墓参考地になっています。

前方部側から見ての第一印象、後円部が見えないくらい前方部が広い、つまり大型前方後円墳としてはかなり新しい訳で、五世紀の末くらいになるのかも知れません。
そして横に回ってみると、前方部と後円部の高さが殆ど変わらないので、やはり新しい部類に入る事が良く分かります。

造出し裾部に開けたトレンチさて、中期古墳の調査というと、出て来る遺物は埴輪と拭き石……という訳で、こちらも例に漏れません。
上の画像は北側に設けられた造出しで見つかった埴輪列の基底部分と、須恵器の大甕の破片です。
宮内庁の書陵部の調査によると、この調査区では小型丸底壷(普通のサイズよりかなり小さいです)やミニチュアの鏡形らしき土製品も出土しているそうです。
そしてこの画像は造出しの裾の様子、滑り落ちた拭き石や埴輪片が見られます。

後円部の一段目テラスところでこの古墳、現在南側には造出しが殆ど見えませんが、航空測量図によりますと、小さな三角形の出っ張りがあるので、恐らくは左右対称に有ってしかるべきなのだと思われます。

こちらの画像は後円部の北側、一段目のテラス(平坦部)から二段目の斜面裾にかけて開けた調査区です。
手前には五本分の埴輪列、奥の斜面には拭き石が出ています。
この間隔で埴輪が並ぶとしたら、一段目のテラスだけで2800本は並ぶのだそうで、二段目や三段目、造出しにも並べられているとしたら、6000本は越えるだろうとの事でした。
参考までに申しますと、こちらは300メートル近い大型古墳ですので、前方部も後円部も三段に造られています。

これらの埴輪は既に窯で焼かれていて、中には須恵器化している物も見られますので、そこの面から見ても比較的新しい古墳である事が分かります。

埴輪列と一段目の斜面ここは後円部の東側、墳丘の中軸線上に設けた調査区で、一段目のテラスから墳丘の裾部までを調査しています。
写っているのは埴輪列と斜面の上部のみですが、濠内に開けたトレンチでは裾を検出しまして、従来推測されていた位置よりも5メートルは裾の位置が外になる事が分かりました。
前方部でも同様だとすると、290メートルとされた全長が10メートル程度伸びる事になりますので、300メートルを越える可能性も出てきます。
そして見るからに広い周濠が現在も見られますが、この外側にも堤を挟んでもう一重の周濠が調査で見つかっているので、東西は485メートル、南北は490メートルにもなるようです。
何せこの古墳、前方部がおっそろしく広い……昔の測量図では224メートルもあるそうですから。

この時代に古市古墳群ではなく百舌鳥古墳群に、これだけ大きな墳墓を築いたのは果たして誰なのか、基礎知識を忘れているのでイマイチ予測がつかないのが、何とも情けない状況ですが、久々に見る大王墓級の古墳にはやはり圧倒されるだけの物がありました。
木屑の溜まった土坑久々に奈良文化財研究所の藤原宮での調査です。
いつもながらに、こちらの現地説明会は雨天気味の事が多いですが、この度も例には漏れておりませんσ(^◇^;)
それでも説明が始まる頃には、何とか雨が上がり、天気予報通り、寒いの何のと……

今回の調査の場所としては朝堂院(ちょうどういん)の東第一~第二朝堂の前辺りなので、宮が機能している時には、朝庭(ちょうてい)の一部となっているので、礫敷きが検出されてしかるべき、という訳で今回も上層の遺構面にはコブシ大の石が敷き詰められていました。
礫敷きの上には、古い瓦を敷いた平安時代くらいの道もありましたが、一部に小判状にへこんだ場所がありまして、これを半裁したところ、新聞記事などでも取り上げられた、おびただしい木屑の発見と相成りました。

下層から見つかった掘建て小屋掘り下げた部分だけでコンテナー180杯分の木屑が出土したというので、こりゃ半端じゃありません。
分厚いところで10cm程度の堆積が有ったそうです。
何れもチョウナやヤリガンナなどで削った物なのだそうで、整地土に掘られた穴に捨てられているので、明らかに造営時の産物です。

宮の造営時といえば、昨年に西側で見つかった建物群の続きが、やはり下層で三棟分見つかっています。
一つは正方位に乗っていないので、更に古い物と考えられますが、いずれにせよ整地層を重ねて行く途中で建てられた掘建て小屋です。

ゲンゴロウのキチン質が残っていました。建物群の西側には、同じ時期と思われる柱の列が五条ほど見つかっていますが、これの性格は良く分かっていないようです。
そして同じエリアに直径3メートルにもなる土坑がありまして、壊れた瓦などが出土したので、物を廃棄していたのかもしれません。
この埋土の中からは、ゲンゴロウ(動物遺体)なども見つかっていて、水が溜まっていた可能性も指摘されています。

今回の調査区の北端では、以前の調査でも確認されていた大きな窪地の南端が部分的に確認されていて、朝堂院の北東隅にはかつて沼状の地形があり、そこを埋め立てて造成をした事も判明しています。
この類の自然地形を埋め立てるというのも、かなりの労力と土量を有する物ですから、生半可な造営事業ではなかった事が良く分かります。
これを十六年で放棄してしまうという、当時の国家権力の大きさにも魂消させて頂けました( ̄▽ ̄)。o0○

東塔の素屋根第二回の見学会の募集という事で、随分以前に葉書を出した記憶があるのですが、当選の返信が来たのは忘れた頃、さて、いつが見学日だったかなと……

二日間の内の日付は指定できるけれど、確か時間は開催側が割り振ってくれるそうで、届いた返事には11月11日13時となっておりました。
週間予報が発表された時から11日は雨……その予想を違わずに、この日は朝8時過ぎから雨(;_;)
それでも土砂降りでも雷雨でもなかった事は幸い、昼前くらいに家を出て西ノ京に向かいました。

初層の屋根の様子一度に見学できる人数が限られているので、見学時間はざっと一時間程度です。
初層の前で説明を受けて、素屋根内部の七階部分まで一斉に上がり、そこでの説明が数分、自由に見学できる時間は十数分というところです。
ちなみに薬師寺の塔は三重塔ですが、それぞれの層に裳階(もこし)が着くため屋根は六層、更に巨大な相輪が乗るので、素屋根は七階建てとなります。

ここに見えている軒の組手は初層屋根の物ですが、かなりの痛みが見て取れます。
軒などに限らず、塔の要たる芯楚の破損も大きく、内部に大きな空洞ができている状況だそうで、この度の修理は塔の全部を解体して行うと聞いています。

三層目の屋根と九輪降ろされた鬼瓦勢ぞろいここで見る事の出来るのは、三層目の屋根と、既に水煙と宝珠を外した相輪部分です。

下ろした瓦は奈良時代のものから、先の昭和の解体修理時の物までありまして、四方を護る鬼瓦も鎌倉時代から昭和の物まで並んでおりました。
これらの瓦、梁や柱、垂木などの木材も可能な限り再利用し、損傷箇所は補強を行い、破損の大きな部分は新たな素材に取り替える事になります。
解体に伴ってそれらの調査も進められ、予定としては平成三十年に完了となっています。

見学する人たち今回の二日間の見学者は1000人だそうで、応募者は2500人程度だったと聞いたので倍率は2.5倍。
初回は4倍以上だったというので、少しは当選しやすくなっているようです。
この類は回を重ねると次第に倍率も下がるようで、高松塚古墳の壁画修復の見学など、ここ最近は定員に多少の余裕があるくらいだそうです。
そういう訳で、次の見学会に向けて、県の文化財保存課のインフォメーションをチェックしておく事と致しましょう(^^ゞ
ところで、正倉院の屋根の方はどうなってるのかな~?
こっちは宮内庁の管轄だけどね。
春日大社の酒殿の檜皮葺き替えは、先週に見学して来たし、他にも橿原市や大和高田市などでも、指定建造物の修復中だし、県の文化財保存課も忙しそうです。

 
先日の記者発表では、斜面に設けられた石組みを居館の堀の一部かと推定して、それなりに話題になっていた調査です。

今回のメイン調査区…北から桜井市脇本の一帯で調査が始まったのは、昭和59年からだそうで、今までに主な時代として、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の三期にわたる、大型の建物跡の存在が確認されています。
一番有名なのは1次調査で見つかった、7世紀後半の正方位に乗った柱列と、その下層から出て来た5世紀後半の大型の建物跡でしょうか。
日本書紀などの記述によれば、ここには雄略天皇の泊瀬朝倉宮を始めとした大王の宮、天武天皇の皇女の大伯皇女の斎宮などがあったとされ、これらに関わりのある遺構ではないかと話題になって、調査は更に続いているそうです。
現在の成果では、春日神社の南側一帯で検出された建物群や、東西方向の回廊かもしれない柱列などから、春日神社の辺りが遺跡の中心と見られているようです。

今回は相変わらずの道路拡幅に伴う調査だそうですが、いつもよりも北方向に広く開けたお陰で、件の石積み遺構も発見されました。
これが東西方向に30メートルも真っ直ぐに続いていて、すぐ近くに「池田」という字名もあるので、大きな池の護岸かと思われたのですが、池と思しき落ち込み内の埋土からは、水が溜まっていた形跡(有機堆積やら珪藻などの植物プランクトンの検出)は見られず、遺構の底面も60メートル近くに渡ってフラットな状態で掘削されているのだとか……人工的な地形なのは分かりますが、何の目的で成らされたのでしょう(・・?

このように計画的に石は積まれています。石積み遺構は、池の護岸にしても、古墳の拭き石にしてもおなじみですが、まずは裾の部分に大き目の基底石を真っ直ぐに並べまして、縦横に目安となるような目地石をやはり直線に並べて、升目の単位を造って並べて行くという方法を取っています。

池状遺構(水は溜まっていなかったようですが)の上層からは6世紀後半の須恵器が、最下層からは5世紀後半の土器が出ているので、機能していたのは、この一世紀くらいの間のようです。
しかしこの石積み、今のところは北側でも東西の側でも確認されておらず、具体的な機能はまだ何とも言えないようです。

なお、この石積みの南側には、弥生後期の竪穴住居や溝が出ていまして、そこを壊すような形で地面が掘り込まれて、石積みが作られています。
更に南には初瀬川が流れ、遺跡自体はこの河岸段丘の上に乗っているので、水に近い場所として、案外早い内から人が住み着いていた様子は分かります。


それにしても外は相変わらずの暴風雨……ピークは夜だそうで(--〆)
紀伊半島への上陸はなかったようですが、今頃、ここの現場の池状遺構、本当の池になっているのでは(゜_゜)

朱雀門前の一等地この調査の現地説明会が行われたのは、実に十日前……9月15日の土曜日の事ですσ(^◇^;)
『平城京左京三条一坊一坪』は、二条大路沿いの朱雀門からわずか数十メートル、正真正銘、間違いなく一等地です。

何でもここには、『平城宮跡展示館(仮称)』という施設の建設を国土交通省が予定しているのだそうで、奈良文化財研究所が2010年から継続的に調査を行っています。
その結果、やや変わった構造の大型井戸や、かなり広い範囲い広がると思われる鍛冶工房、巨大倉庫かと思われる総柱の建物跡、そして予定通りに一坪の内を南北に区切る坪内道路も見つかりました。

今回も23基の鍛冶炉が検出されました。今回の調査では、先に検出された鍛冶工房の範囲を確認するために一坪内の北端に、二坪との間を通る『三条条間北小路』の検出をするために南端に調査区を設けました。

この画像が北側の調査区です。
先の調査で見つかった炉群の北西側に、新たな炉が23基見つかったそうで、それを覆う建物にもなりそうな柱列や、排水のためのも検出されています。
炉の北側の柱列(東西方向)は、二条大路の南側溝から2メートル程度しか離れていないので、建物になる可能性は大きそうです。
ところで、炉は直接に火を焚くので焼けて変色した土で埋まっているのですが、その傍らにはフイゴを置くための穴と、金床(石の場合が多いようです)を置く穴もあって、そのセット関係を考えて検出をする必要があるそうです。
しかし、図面で見ても、かなり分かりにくいです……何れの炉も小規模なため、釘や金具のような小物の製造を行い、時期的には宮の造成段階に稼動していたと考えられそうです。

三条条間北小路の45メートル分、見事に出ました。

こちらは南の調査区です。
一目瞭然、南北に側溝を持った東西方向の道が出て来ました。
路の幅は大体5メートル、側溝は1.5メートル幅で30センチ程度の深さが残っていました。
この画像の手前の方で、北側溝内に畦ではない四角い堀残しがあって、そこに柱穴が検出されています。
これは後の時代の建物跡の柱です。
この事からも分かるように、この溝は後に埋められて、一坪と二坪にまたがる、別のプランでの利用がなされた可能性も出てきます。

本来ならば南側溝に沿って、二坪を囲む築地塀が検出されても良いのですが、ここでは全く基壇の痕跡は確認されず、わずかに建設時の足場になる可能性の小穴列が見つかった程度でしたので、取り壊されたとも考えられます。
しかし南側溝の西端の埋土の上に瓦溜りがあったので、それが築地に関する物の可能性も否定できないとの事です。

築地に関して分かった事は、この一坪には築地がめぐらされておらず、恐らくは右京側にも広がる、朱雀門前のオープンスペースとして、後々まで活用されたようです。
例えば朱雀門まで天皇が出御して儀式を行ったり、行幸などに際してのセレモニーも行われたのかなぁ~……などと考えておりました( ̄▽ ̄)。o0○
この日は台風の影響か風が強く、朱雀門の軒に下げられた風鐸が、騒がしいほどに鳴り続けていました。

……多分、次の土曜日、橿考研の現説だと思うので、さっさと上げておかにゃと、ようやく重い腰を上げての報告の次第でしたε-( ̄ヘ ̄)┌
このような距離で見学できました。 この何日か個人的に相当凹む事がありまして、様々に低迷状況です……
 それは今のところ置いて起きまして、土曜日に行きました見学会の報告でも。

 今年の初め頃から、東大寺の正倉院の解体修理が始まりまして、ただ今は完全に素屋根の内です。

 その画像は以前にどこかで上げましたか?

屋根もこの通り 私が参加したのは17日土曜日の午前10時からの回、多少早く着いたのですが、既に受付は始まっていまして、その後は自由見学で特に終了に制限はないという状況でしたので、一時間半くらい見ておりました。
 正倉自体は平安時代以来、何度も修理を受けているそうで、やはり東大寺を始めとした南都の鎌倉復興時、江戸復興時にも例に漏れず、ここも大規模な修理が行われているとの事です。

正面(東面)の痛みはかなり目立ちます。 内部は明治期にガラスケースを入れるなど、相当の改修も行われ、戦後には新しい収蔵庫ができたために宝物は全て移されていて、一見したところ新しい部材が嫌でも目立ちますが、創建期の部材も良い状態で残っているそうです。
 しかし外側は吹きさらし状態で、暦年風化はありありと見て取れます。
 それ以上に目に付くのは、三階部分から間近に見た屋根瓦の風化状況でしょうか。

古い部類に入る軒丸瓦 古い瓦葺建物の修理のセオリー通り、この正倉も建物正面に再利用可能な古い瓦を集めています。
 そのため正面の東側の痛みが特に痛々しく目に映ります。
三枚目の画像を見て頂けば分かりますが、軒先のカーブがやや波打っています。
これは、部分的に軒が落ちかけているという事になります。
逆に裏になる西側は、瓦こそ明治大正期の物が多いようでしっかりして見えますが、やはり軒のラインは微妙に曲がっている箇所が目に着きます。
どうやら、屋根を支えているトラス構造に歪みが来ているようで、こうなると瓦の重さに耐えられなくなって軒がひずんで来るという訳です。

軒丸瓦の種類も違うけど、高さも揃わないのは…… それにしても、軒丸瓦も軒平瓦も鎌倉時代から大正時代まで、かなりバラエティにとんでおりまして、それはそれで面白いものです。
……が、いくら探しても創建期の物が一枚もない?

 正倉院がいつ建てられたかは、記録に現れないので正確には分からないのですが、納められたのは聖武太上天皇の遺愛の品なので、太上天皇が崩御し、光明皇太后が七七忌(四十九日)に宝物を喜捨した前後と推察されているようです。
要するに天平勝宝八歳前後でしょう。

鬼瓦は四方とも江戸時代の物それならば金堂(大仏殿)や回廊の創建期瓦と同じ物が使われていても、何ら不思議はないのですが、あの見慣れた軒平瓦のカニのような唐草紋は、どこを探してもありません……(゜.゜)

 丸瓦も様子からして、創建期の物はほぼ残っていないかもしれませんが、平瓦にはそれらしき色の物が見受けられましたが確証はありません。
一見しても全体的に風化が著しく、瓦がここまで朽ちるものかと、妙な関心をしてしまいました。
平瓦の重ねもかなり大きく、半分以上が重なっているとしたら、総枚数はどれだけになるのやら……

なかなか分かりやすい面構えです。 ところで、気のせいが平瓦が薄く思えるんですよね(・・?
東大寺の境内、至る所に平瓦の欠片が落ちていて、それこそ奈良時代の創建瓦から、最近の台風ででも落ちたのかという新しいやつまで見られます。
こいつらが結構、分厚く見えるんですが、散乱した欠片と屋根に葺かれた状態の物では、目が錯覚を起こしているだけかな??

 この後、瓦を全て下ろして、屋根の小屋組みも補強するのだそうで、どうやら唐招提寺の金堂のように全体を解体修理する訳ではなさそうです。
 しかし、素人目で見ても、新たに焼き直す瓦の数は半端ではないように思えました。
新しく作る瓦は天平時代のデザインを採用するそうで、鎌倉時代の巴紋、室町時代以降の文字瓦と、新旧がかなり分かりやすい状況になりそうです(^_^)

 さて、これから後も数度にわたって一般公開が行われる予定だそうで、宮内庁のHPも時々、覗いて置くようにしなければ。
 
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