- 2025.04.05 [PR]
- 2013.09.30 興福寺西室発掘調査現地説明会
- 2013.09.15 十六面・薬王寺第31次調査
- 2013.09.01 正倉院正倉整備工事第4回現場公開
- 2013.07.01 長岡京跡左京第557次調査現地説明会
- 2013.03.31 平城宮跡東院地区(503次調査)現地説明会
- 2013.03.24 正倉院正倉整備工事第3回現場公開
- 2013.02.24 菖蒲池古墳範囲確認調査現地説明会
- 2013.02.02 飛鳥寺西方遺跡
- 2013.01.26 薬師寺食堂の調査
- 2013.01.20 難波宮(NW12-6次)調査現地説明会
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相変わらず写真の合成が下手なので、奥の方が変にひずんでいますが、全体的に見て遺構面がかなり浅い事が分かるかと思います。
記録によればこの建物は、七度焼失して七度再建され、享保二(1717)年、八度目の火事の後は再建されなかったという事です。
調査前から礎石が地表に現れていて、周辺を掘り下げたところ、幾つかは創建時から動いた形跡が無い事が分かりました。
つまり、今まで行なわれた七度の建て直しも、同じ位置に同じ規模で行なわれた事が照明されました。
本来ならば、更に西側に『小子房』という建物も平行して建てられているはずなのですが、その礎石や抜き取り穴などは、平面での確認は出来ていないそうで、これから断ち割っての調査が続けられるとの事です。
整地層には大小の礫も多く、この地面を掘るとなると、かなり大変そうに見えます(-_-;)
記録には11間と記されていたので、復元図は従来そのように描かれていたのですが、今回、それが間違っていた事も分かったという訳です。
それにしても電気やガスや水道の配管が、遺構を破壊するように走っているのが、この画像でも分かるかと思います。
中近世の排水用の土管や暗渠も多くみられますが、新しいものでは昭和30年代くらいの配線などもあるそうです。
文化財保護法などない時代の工事なので仕方がありませんが、これはこれで見事なものです(^_^;)
その南東にある字が薬王寺、双方にまたがった広い範囲に『十六面・薬王寺遺跡』は広がっています。
今回の調査地は、遺跡の最北端にあたり、あまり大した遺構は無いだろうと予想していたのに反して、5基の方形周溝墓を始めとした、弥生後期から中世にかけての遺構、遺物を検出しています。
調査区北東にある溝から、緑色凝灰岩製の勾玉や管玉、滑石製の臼玉が未完成品や失敗作も交えて見つかりました。
他にも鏡を模った石製模造品(こちらは別の溝から)や、石を切るのに使ったと思われる石鋸、穴を開けるのに使った水晶の石錐、磨くのに使った砥石、更には材料の石のチップも多量に出ているようです。
溝の途中に水を溜めるような遺構を設けていて、何かの御祭りをしているようです。
この溝は自然の川を掘削して、耕作用の水路として使用していたようで、古墳時代末期には使われなくなって埋没したようです。
井戸や溝から多数見つかり、遺構の時期を判断する決め手となります。
方形周溝墓からは、山陰地方からもたらされた土器も見つかっています。
この場所は弥生時代には墓所、古墳時代には住居と耕作地になっていたようですが、律令期になるとかなり開けた土地の隣接地となっているようです。
ここより300mほどの東側で、奈良時代の多くの建物跡や遺物が見つかっていて、どうやら磯城郡の郡衙に関連する土地だと考えられるのだとか。
鎌倉時代以降は全面が耕作地となったようで、条里制に伴った東西南北の鋤溝が多数残っています。
遺構面全体が、現地表からかなり浅い位置から検出されており、土地が多少高かったために常に何らかの利用がなされていた事が窺えます。
調査の後は大型店舗が建設されるそうで、調査も来週には来週には終了すると聞いています。
既に四回目ですが、今回は新しい瓦も焼きあがって、瓦の葺き替えが始まった状況を見せて頂きました。
この画像は南東の隅から東面の屋根を見たところ。
手前の方が今回の修理で新しく焼き直した瓦で、奥の方は室町・慶長年間、江戸時代の物が並んでいます。
左端に少し見えている南面の物は、創建期と思われる天平時代の瓦だそうです。
こうして見ただけでも、暦年の風化によって色が変わっている様子が良く分かります。
屋根の南側や東側は日当たりが良く乾燥して、瓦の痛みも少ないのだそうで、古い瓦は主に南面に固めて再利用するのだそうです。
北面と西面はほぼ、新しく制作した瓦を使用するそうですが、軒瓦のデザインは創建期の東大寺式。
軒瓦は創建期の物が残っておらず、最も古くても鎌倉期の物になるとの事です。
そうなりますと復元瓦は、普段の正倉公開では見る事の出来ない面に集中してしまいます。
個人的には、このデザインが一番好みなので、何となく勿体無いなぁ……と、感じる次第ですσ(^◇^;)
鬼瓦も慶長年間から明治時代の物までが使われていますが、北東隅の明治時代の物は割れが大きくて保存に回すそうで、今回新たに焼き直したという事でした。
それがこの画像、ペアになる慶長年間の物にデザインを合わせています。
ところで格隅に一対ずつ置かれる鬼瓦ですが、これが阿吽になっているとは今回初めて知りました(-_-)
予定では、今回の修復工事は来年の秋まで続くそうで、正倉の外観公開は来年の正倉院展を目処にしているようです。
次の一般公開は来年の春を予定しているそうで、その頃には全て瓦を葺き終わった屋根を見る事が出来るとか。
その頃にも忘れずに、宮内庁のHPをチェックしておかなければ( ̄▽ ̄)。o0○
新聞やニュースでも報道されていた、長岡京市の現地説明会に土曜日、行って来ました。
場所としては長岡京左京の六条東一坊の南東隅とでも申しますか、六条大路と東一坊大路の交差点の一部が検出されています。
この画像は調査区の南東隅から写したもので、一番目立っている河道は、長岡京時代よりも前のものです。
こちらの遺構図画が長岡京時代の遺構で、トーンがかかっている所が溝になっています。
左側の空白地帯が、実は東一坊大路の路面でして、ここを一面掘り下げたところ、上の画像のような古墳時代の川が出て来ました。
同じ時期の遺構として、土器棺墓と木棺墓が一基ずつ、掘っ立て柱建物が二件見つかっています。
真ん中より左寄りを南北に貫いているのは東一坊大路の西側溝で、下の方で直角に接している溝は、六条大路の北側溝ですが、この部分では東一坊大路を貫いていません。
こちらが西側溝の様子。
手前の方で出土しているのは、牛の骨と木材です。
この手前の方には、礎石らしき石が数点転がっていまして、この場所に橋がかかっていた事が想像できます。
牛の骨の他には、木簡や銅銭も見つかっていて、何かの祭祀が行われた可能性も考えられます。
この時代以前も以降も、辻や水際での祭りは続いていますので、平安時代を目の前にしたこの頃にも、このような場所での何らかの祭りが行われたとしても、ほぼ不思議はありません。
ところで左京六条一坊十三坪の一部の調査もされている事になりますが、ここでは溝以外に、明確な遺構はほとんど分かっていません。
東と南が大路に面しているので、この部分に築地屏があっても良さそうなのですが、それらしき痕跡も土塀の土くれや瓦などの遺物も見つかっていないようです。
溝に沿った柵列なども見られないので、住宅地としては未完成だったのか、何か特別の施設だったのかと思われます。
ニュースで取り上げられていた四点の漆紗冠は、宅地部内の溝から見つかっています。
この場所からは漆皮箱や石帯の部品なども出土しているので、何れも上級者の持ち物として、上級官人の住まいかとも考えられるのですが、場所が六条という場所なので疑問も残ります。
そこで考えられるのが、このような漆を使う製品を作っていた工房の存在です。
その証拠のように、漆の付着した須恵器や紙などが多数出土しています。
右京のこの近くでは西市の跡が見つかっているそうなので、ここも東市のすぐ近くだったと考えられ、工房としては材料調達に便利だったのかもしれません。
東院地区は『続日本紀』によると『東宮』『東院』『楊梅宮』と呼ばれた施設があったと考えられています。
そして今までの調査によると、六期間にわたっての建て替えが行われていた事が分かっています。
そのような訳で、ここで出て来る遺構はひたすらに切り合った柱穴となります。
毎度思うのですが、切り合いや穴の大きさや深さを比較して、どれがどれと対応し、時期の順はどうなっているのかを調べるだけで目が回ってきます……(@_@;)
この何年かで継続的に調査をして判明したそうですが、この辺りはまだ東院地区の中心部からは少し外れているとの事です。
この図でも分かるように、中心部は現在の『宇奈多理神社』の境内にかかっているようです。
今回の調査区で着目されたのは第6期の遺構で、南側で直角に折れ曲がる二条の柱列です。
第6期は光仁天皇の楊梅宮が作られた時期で、その中心部の回廊の北西端を検出したと考えられています。
単式回廊のようですが、幅は6メートルを測り、以前の調査で南側に更に伸びて54mに達する事が分かっています。
最初に幅の広い浅い溝を掘って区画をつくり、その内側に低く盛り土をして、周囲を平瓦で囲うような形を取っています。
今までに知られている瓦積み基壇とは構造も違い、低い上に基壇上に柱の跡も無いようなので、実のところ建物が建っていたかも不明です。
第3期は天平勝宝年間、孝謙天皇の頃と考えられています。
今回の調査区では、この時期の遺構はかなり希薄で、この遺構の性格は分からないようです。
この地区の北側と東側はまだ調査されていないので、来年度以降も東院地区の調査は継続するそうです。
東院地区でもっとも有名な施設は、もっとも南端にある、復元されている庭園ですが、ここの池に通じる水の流れなども分かっていないそうで、これからも少しずつ色々な事が判明する事を個人的にも期待している次第です。
さてこちらは既に一週間前の三月十六日の事、正倉院の整備工事の一般公開に行って来ました。
第二回には行っていないのですが、今回で何が変わったかと申しますと、内部は明治時代に置かれたガラス入りのケースが完全に取り払われていた事です。
木材の色が新しいので、良く分かるかと思います。
ちなみに手前の柱の、少し古い色の添え木は大正時代の物だそうです。
1/10の模型が展示されていたので、そちらと見比べて感心しておりました。
やはり瓦を外し補強も済ませたためか、第1回に見た時のように軒のラインの湾曲は解消しているように見えます。
この画像の物は天平時代の丸瓦です。
平瓦にもこの時代の物が残っていて、四枚程度を一気に作る桶巻き作りの物と、一枚ずつ型に押し付けてる来る物とが見られるそうです。
軒丸瓦も軒平瓦も一番古くて鎌倉時代なので、創建期の天平時代の物は残っていません。
どの瓦でも一番多いのは、やはり大正時代のようです。
このデザイン、軒丸は良いのですが、軒平は何となく違う時期の瓦のような……
今回は奈良時代の東大寺式の軒丸、軒平瓦を参考にして補足するそうです。
しかし史跡指定されているのは、石室と羨道部に当たる辺りだけで、つい最近まで古墳の範囲どころか墳丘の形すら不明でした。
橿原市教育委員会が周辺の調査を始めたのは、平成21年からだそうで、これまでの調査によって東西長が約30mの二段に構築された方墳だという事が分かりました。
古墳の南側は、後世の地滑りや開発で破壊されていて残りは悪いようですが、東西と北側のラインでは基底部に並んだ石や、その外側に広がる石敷きが確認されています。
今年度は墳丘の東の外側と、北東角と考えられる位置に調査区を儲け、正確な墳丘の大きさを確認する調査となっていました。
菖蒲池古墳もこの時代の横穴式石室の常、南向きの斜面に南を向いて開口しています。
斜面を切り出す形で墳丘の東西のラインを決めて掘割を作ります。
この掘割が、開口部の南側では4m近い幅を持って石も敷かれていたそうですが、一番奥(北東)の角ではそこの幅が30センチ程度にまで狭まっています。
しかしこの部分はとても保存状況が良く、綺麗に直角に据えられた基底石が残っているのが確認されています。
断面写真の右側が墳丘なのですが、斜面がカラフルなモザイク上に見えるのは、色の違う土をわざわざ貼り付けているためだそうです。
掘割も後の時代に人為的に埋められているようで、断面を確認してみると埋土の単位までが分かる箇所もあって、かなり奇妙の様相を呈しています。
こちらの画像が東側の調査区で、調査員の背後に見えるのが、新聞などでも報道されていた新たに見つかった石敷きです。
本来ならば外提で古墳の範囲は終了という形になるのですが、その外に石を敷いたテラスを造っているので、更に外側も意識している事になります。
ところで調査員の足元には、掘方が1m近い柱穴が並んでいます。
これは石敷きや掘割が埋められた跡に掘られていて、東西に三つ、南北に三つがT字状に並んでいるので、掘立柱の建物が建てられていたと考えられます。
同じ建物のものと思われる柱穴は掘割の脇でも検出されていて、東西四間以上はあり、柱の芯々間は3mもあるので、相当な規模の建物のようですが、伴う土器などの出土がないようなので具体的な事は不明です。
今年度の調査は、あと二週間程度で終了との事ですが、行く行くは墳丘周辺も市有地(県かな)として公園整備する予定だそうです。
ここ最近、明日香村教育委員会は現地では見学会に留め、後日に報告会の形で詳しい説明をしてくれるという念入りな方法で、調査結果を紹介してくれています。
今回も九日に中央公民館で調査報告会をするそうですが、私は生憎と用事がありまして遠出をしなければなりません(/_;)
さて、現場はこのように石ばかりです。
よく見ますと大きめの石を敷いた所と、ごく細かい砂利を敷き詰めた所に分かれています。
発掘場所は飛鳥寺の西門跡の西側40メートル地点、蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔の目の前にあります。
ところがこの穴の深さは0.4メートルと、大きさの割には浅いとの事です。
ここが饗宴の場に使われていたとしたら、穴の部分に何らか石造物などが置かれていたのではと、推測はあるようですが、今のところはこれという決定的な事を言える状況ではないようです。
その東側(画像では左側)の首塚の近くでは、半分以上が調査区の外にはなりますが、更に大きな3メートルはある穴が見つかりました。
こちらは深さにして1.7メートルはあるようですが、いつ掘られた物かの特定はできていないそうです。
いずれにしても今回は現地見学会で大まかな状況説明をして頂いただけなので、遺物展示などもしていない状況ですし、来週の報告会での発表を待った方が良いのかもしれません、と言っても私は行けないのですがσ(^◇^;)
調査はこの後も周辺で続くという事なので、更に大きな発見がある事を期待しましょう。
食堂と書いて『じきどう』と読みます。
文字通り、僧侶が食事をする場所ですが、御本尊も安置された修行の場でもあるそうです。
寺院で最も重要な金堂や講堂、僧侶の住まいとなる僧房、そしてこの食堂は主要建物としてあげる事が出来ます。
東僧房の発掘時に見つかった木簡に霊亀二(716)年の年号が書かれているそうで、この頃には薬師寺の創建が始まったようです。
しかし薬師寺の食堂は造営年代は不明で、唯一、東塔のみが天平二(730)年の建立と分かっているようです。
上の画像では調査区の端に、真っ直ぐ雨落溝が走り、三箇所で階段の基底部が見つかり、そこに続く地覆石(じふくいし)の列も見つかっています。
基壇はこの画像の辺りが残りが最も良く、高さにして50cmほど残っています。
僧房や食堂は、金堂や講堂にもまして建築が急がれるので、このような省略的な方法が取られたのでしょうか。
ちなみに金堂、講堂は掘込地業などは行わず、基壇をひたすらに丁寧に版築して作られているそうです。
記録によれば食堂は天禄四(973)年の大火災で焼失し、寛弘二(1005)年に再建されましたが、こちらの堂がいつ失われたのかは不明です。
しかし、今回の調査で見つかった食堂廃絶後に掘られたゴミ穴らしき土壙から、13世紀末くらいの瓦器碗が出ているので、この頃よりも以前に無くなった事は分かりました。
土壙で面白いのは、壷地業を行った場所の土が固かったためか、礎石がまだ残されていたためなのか、島状に掘られずに残されています。
こちらの赤いコーンの立っている位置が、本来礎石が据えられて柱が立っていた所です。
残りの悪いところでも、壷地業の底の部分が残っているので柱の位置は分かります。
今回の調査では礎石は全く残されておらず、抜き取り穴は多数検出されました。
薬師寺さんでは食堂の再建も予定しているそうで、調査の日取りもそろそろ迫って来て追い込み状態のようです。
この後は、壷地業の跡を半裁するなどの調査が続くそうです。
今回の調査地は、難波宮公園に復元された後期の大極殿の東100メートルという、かなり重要な建物が予想される場所です。
こちらの写真は、大阪歴史博物館の10階から見た様子ですが、左手前にある大きな建物の屋上棟に少し隠された、アルミフェンスで囲まれた地区に調査区が設けられています。
手前の方の大きな穴は、下層の遺構だったり、上層からの撹乱だったりですが、前面に散らばっているのは瓦片です。
後期難波宮の大極殿院や官衙は瓦葺だったようですが、延暦四年以前より長岡宮への移築が始まっているので、まともな瓦はまず出て来ません。
新聞などの記事でも回廊の基壇の検出を報じていましたが、それが奥の白いテープで示された位置になります。
幅は7.2m、高さは30cm残っていますが、過去の調査を参考にすると、更に東へ40mは続いているそうで、この幅からして複式回廊だと考えられます。
ちなみに、調査員の足元手前の埋もれた石が奈良時代の礎石ですので、この基壇に本来据えられていた物です。
その奥のトレンチに宙ぶらりんに見える礎石は、太閤秀吉の時代の物だそうです。
このサブトレンチ、半世紀前の調査で開けられたそうですが、整地層の様子が良く分かります。
真ん中の短い矢印の幅が前期難波宮を造る際の整地層、上の少し明るい色の長い矢印幅が後期の整地層です。
大きな方の蓮華文の軒瓦は大極殿院の北寄りで見つかる事が多いそうですが、難波宮と言えば右の半賭けのような重圏文瓦です。
完形だとしてもかなり小さいので、回廊の築地に葺かれていた物かもしれません。
ところで、今回確認された回廊に囲まれた施設が何かという事が問題となりますが、『続日本紀』の天平勝宝八歳二月の行幸の折、孝謙天皇が『難波宮に至り、東南新宮に御します』と見えます。
内裏から見て南東の方向にあるここが、『東南新宮』である可能性は充分に考えられそうです。