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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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 11月30日に行われた、橿原市教育委員会の今井町環濠調査の現地説明会です。

 今井町には二重(一部分は三重)の環濠が巡っていた事が絵図などで分かっています。昭和初期までは実際に生活排水を流すなど、実用で使われていましたが、徐々に埋め立てられて市街地化し、全体像は分からなくなってゆきました。

 橿原市では発掘調査で判明した環濠の様子を復元し、周辺を公園化して往時の景観を再現しようと努めています。

 
 今回の調査地は 今井町の西側環濠の南半分に当たります。奥に畝傍山が見えているので、この画像は南側から見た状況です。
 中央の高く平らな場所は江戸時代の道路面です。その左側(東側)に環濠が掘られています。これ外環濠です。東側の肩は既に判明しているので、内環濠と共に復元されています。しかし今回検出するはずだった西肩は、昭和に入ってからの配管工事で既に壊され、一部分での検出に留まっています。

 今井町の環濠は、新旧の二時期が存在します。旧環濠は幅が30m近くある事が分かっています。これが一重のものか二重なのかは、今のところ不明です。これが埋め立てられたのは、16世紀後半です。

 元々は石山本願寺派、御坊の称念寺を中心とした一向宗の門徒だった今井町は、環濠土塁を巡らせた城塞として機能していました。しかし、1570年代に織田信長の軍勢と睨み合い、土塁を潰して環濠を埋める事で、そちらの軍門に降ります。記録では、実際に戦闘は起きていないようですが、埋土からは銃弾などの当時の遺物が出土しています。

 信長の庇護の元、今井町は商人の町としての繁栄を迎えます。『大和の金の七分は今井にあり』とされたのは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてで、新環濠もこの頃に掘られています。
 しかし、18世紀には全国的に天災などで経済力も落ち込み、今井町もその煽りを受けています。異常気象も多く、かなり大規模な水害が起きて環濠も埋まってしまいます。
 調査で見つかった江戸時代の道は、この洪水砂層の上に盛土をして造られています。幅は3.5m程で、外側は農耕地として利用されていたようです。


 環濠も掘り直されていますが、この時期には繁栄にも陰りが出て、八木近辺が中和の中心となってゆきます。経済の衰えは環濠の整備にも反映しているようで、その後は急速に生活雑器などが投棄されて埋まってゆきます。

 新環濠の埋土からは、江戸時代後期から近現代までの多彩な遺物が出土しています。説明会で並べられた遺物を見た限りですが、この時期によく見られる焼き継ぎなどの修復痕が見られません。衰えが見えるとは言え、まだ流通の中心でもあった地では、新たな製品が容易に手に入ったのでしょうか。修理するよりも手軽に、購入できたのかもしれません。
 中和地域の中心を成した一大環濠集落の興亡は、この後も続けられる調査で、より明らかになってゆくものと思われます。
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 この瓦窯は高市郡高取町大字市尾字天満にあるので、この度の調査では『市尾瓦窯跡』と呼ばれています。
 元より表採資料として、藤原京時代の瓦の存在が知られていたので、この辺りに窯がある事は確実視されていました。奈良文化財研究所では、近辺を高台・峰寺瓦窯として、今までにも調査がされて来ました。
 今回見つかった窯は一基だけですが、北側にもう一基あった事がすでに確認されています。
 この画像は、焚口の側から見たところです。奥壁のように見えているのは未発掘の部分で、この埋土を取り除いてしまうと、天井が崩れてしまうので残してあります。その上には、煙道の穴が丸く見えています。

 天井部分は落ちているのですが、高さとしては成人男性の胸のあたりまでですね。

 焚口の右側にやや白っぽい粘土が見えますが、山の斜面のこの部分までを掘り込んでいます。燃焼室や焼成室は日干し煉瓦状の粘土ブロックを持ち送りにして、ドーム天井を築いています。横穴式石室の石積みの代わりに、粘土ブロックを積んで造っている様な状態です。そして、裏込めに白っぽい粘土を充填しています。
 このような方法で窯を造る例は珍しいそうで、工法からも土地柄からも、渡来系の技術者が関わっていたものと考えられます。

 ドーム天井の上の部分は、何層にも粘土を貼り付け、棒で突き固めて仕上げています。窯の中に水が入らないようにと、念入りに仕上げたものと思われます。このような工法は、終末期古墳の石室を造る時にも見られます。



 こちらは焼成室、瓦を入れて焼く部屋を上から見ています。横の壁が途中から、持ち送りのアーチに作られているのが見て取れます。

 この窯はおそらく三度は使われたようで、今見えているのは最後の焼成後の状況です。手前は窯の造り方を調べるために掘っていますが、左側の壁を見ると、積まれた粘土と裏込め粘土との境界がよく分かります。
 焚口と焼成室の高さを比べると、それ程の差はないそうで、途中に段は設けず、床は約15度のスロープ状に作られていると思われます。
  かなり大きな丸瓦や平瓦が並んでいますが、特筆すべき遺物は馬の下顎の歯です。歯の下に、天井を崩したと思われる焼土のブロックが入っているので、窯が廃絶した後、御供えのように、馬の頭を置いたのではないかと考えられるそうです。
 古墳時代から馬は、水に関する祭祀には使われますが、窯のように火を使う場所での類例はないという事で、極めて珍しい例です。


 更に重要な遺物としては、藤原宮大極殿に葺かれた軒丸瓦です。奈文献の分類で6273型式と呼ばれる軒丸瓦だそうで、燃焼室から一点だけ見つかりました。この瓦のおかげでこの窯は、大極殿の瓦を焼くために造られた事が証明されたという貴重な成果です。
先日の報道で取り上げられていた、平城宮での幢旗跡発見かという発掘現場です。
場所はこのように、『第一次大極殿』の真正面ですが、こちらのメイン遺構は少し時代が下がって奈良時代後半になります。

第一次大極殿が藤原宮から移築された事は、文献でも遺構でも確認されています。
この後、この巨大な建物は、遷都と共に恭仁宮に移築され、再び都が平城に帰って来た後は、山背国分寺の金堂として喜捨されます。
かつての敷地には、『西宮』と続日本紀に書かれた宮殿が建てられ、称徳女帝の頃には内裏として使われた事が見えています。
更に後の平安遷都後、平城太上天皇が同母弟と大喧嘩の揚句、ここに宮殿を建てて暫らく済んでいた事も有名です。

このような訳で第一次大極殿院には、大まかに見ても三つの時期の遺構が重なっている事になります。
この図面の赤い線で示された遺構が『西宮』に関するもの、茶色が第一次大極殿に伴うもの、青が平城太上天皇の時代のものです。
そして、中央やや下、黒枠に囲まれた長方形が今回の調査区です。
太目の破線のように、7基2条に並んだ遺構が幢竿の跡だろうと考えられています。
今回の調査では西から5基分が検出されています。

こちらの画像の真ん中、二本のテープで示されているのが、大極殿に伴う南北通路西側溝ですが、今回はサブトレンチ内での断面でのみ確認されています。
そして右側手前の四角い石が敷かれた南北溝と、その奥で直角に折れ曲がった東西溝や、右上の建物の一角が、平城上皇時代の遺構になります。
上の図面とは、上下関係が逆になっているので、何となく分かりにくいです(-_-;)

 幢旗の列ですが、位置的にも大極殿の中軸と合うので、その時代のものとも思えるのですが、断面観察をしてみますと、西宮時代に整地した面から穴が掘りこまれている事が分かります。
この朝庭は大極殿造成に当たって礫交じりの土を敷き詰めて整地し、西宮を造るに当たっても粘土を敷き、更に礫交じりの土で地面を成らしています。
大極殿に伴う移行ならば、下の礫交じり層から掘られている事が、断面で観察できるはずです。
ところで、3×1.5mの楕円形の掘り方が7つ、二列に並んでいるのですが、列の新旧は遺構の切り合い等がないため不明です。

掘り方内には三つの柱の跡が見て取れます。
ここにどのような旗が立っていたかというと、引き合いに出されるのがこの図ですね。
文安というから室町時代の中頃、後花園天皇の時でしょうか?
延喜式にもこれらに関する記述があるので、奈良時代には既にこのような旗やモニュメントが立てられたものと考えられます。
今回と同様の遺構は、第二次大極殿院や、長岡宮大極殿院でも見つかっていて、基底の部分だけが現地で再現されています。
藤原宮内でも同じような遺構が見つかっているはずですが、確か、大極殿に伴っていなかったように記憶しています……うろ覚えσ(^◇^;)

これらの旗を1/3のスケールで復元して、大極殿内に展示してありました。
写真を撮ったのですが、逆光やら人垣で、惨敗な写りでした(^_^;)
後ほど、少しはマシなのをUPできたら致しますm(__)m
以前、飛鳥資料館でも展示していたし、今度の東博のキトラ古墳展でも展示するかもしれません。
ヒエ塚古墳はノムギ古墳と共に、大和(おおやまと)古墳群萱生(かよう)支群の北端に位置します。
主軸を東西に向けた、全長は130メートルの前方後円墳で、今までの周辺調査で、古墳時代の前期前半に作られたと考えられています。
この測量図で見ますと、周囲の田んぼや畦の状況から、大きな盾形の周濠を持つのではないかとも推測されていますが、決定的な事は今のところ分かりません。
現在では二つの古墳の間に県道が通っていて、その事前の調査を10年ほど前に行っています。
その時にノムギ古墳の周濠は確認されているのですが、ヒエ塚古墳の方は分からなかったようです。

 ヒエ塚は墳丘も含めて個々人の土地で、トレンチを開けるにも土地所有者の御理解と御協力を頂かなければなりません。
今回の調査では、後円部のややくびれ部よりの辺りに南北の調査区を設ける事ができ、周濠の規模や範囲の確認を行いました。
この写真の奥の丘が古墳の後円部で、調査区の南端から北を見ています。

こちらは調査区の北側(墳丘側)ですが、一番奥で葺石と基壇らしき高まり、更に手前で幅4mの落ち込みを検出しています。
落ち込みの深さは20cm程度しかなく、外側には後世に削られたらしい平坦部が見られます。
平坦部が外堤の名残と見ると、奥の浅い落ち込みが周濠の可能性が出てきます。
平坦部の外側には14、5mの谷状の落ち込み(二枚目の写真を参照)が見られ、これを外側の周濠と見る事も出来ますが、前期古墳では二重の周濠を持つ例はありません。

こちらが墳裾の部分です。
現代の配管を通すために撹乱を受けていますが、横長の基底石の上に人頭大の葺石が並んで残っています。
その手前の石の無い部分が基壇状の遺構で、その外側に周濠の残りらしき浅い溝が見られます。

このように調査範囲が極めて狭いために、遺構からははっきりした事が言えません。
溝から出土した土器は古墳前期から後期までと幅があり、あまり残りの良い物も見られません。
更には埴輪片が全く見られないので、墳丘テラス部などには埴輪がなかった可能性があります。
前期古墳では、墳頂部にだけ並べられる事もあるので、全くなかったとも言えないようです。

古墳は龍王山から西へと下る尾根の上に造られています。
こうして見ても、墳丘全体が傾斜地にあるように見えるのですが、前期古墳で後円部が高いので、そのように見えるだけでしょうか?
もしも傾斜地に墳丘があるとしたら、水を湛えるような盾形の周濠よりも、狭い空堀のような周濠の可能性もありそうな気がします。
いずれにしても今のところは調査範囲が狭いため、決定的な事は分からないのが現状です。
 久渡(くど)古墳群は北葛城郡上牧町(かんまきちょう)にあります。
南北に長めの独立した丘陵の上に造られています。
馬見丘陵の一角なので古墳の多い地域と思いきや、周囲は既に住宅地と化しています。
一番高いところにある前方後円墳の存在は以前から分かっていたのですが、3年前に画文帯神獣鏡が出土した3号墳と、重なるように造られた4号墳が見つかり、今回調査した2号墳の存在も分かって、全部で7つの古墳がある事が分かりました。

 2号墳は径16m、高さ3mの円墳です。
この画像では少し分かりにくいですが、背面カットによって掘り込まれた周濠が、かなり良く残っています。
出土した須恵器などから、7世紀中頃に造られたと考えられます。

 そろそろ終末期に入る時期ですが、まだ石郭ではなく石室が造られています。
丘陵の南端に南向きに開口した横穴式石室ですが、鎌倉時代くらいまでは石室に自由に出入りできたようで、石室内から出て来た遺物は元の位置を留めておらず、後から混入した物も多いようです。
これは奥壁側から入り口の方を見ています。
手前の大きな石は天井石の一つと考えられます。
左右にわずかな石材が残っていますが、かなり破壊されているのが分かります。

 羨道にも玄室にも、壁石も袖石も閉塞石も勿論ありませんが、掘り方や石を置いていた痕跡から両袖式の石室だと思われます。
玄室が長さ4m、幅1.9m、羨道は5mを測ります。

石室床面には厚さ20cm程度に、砕かれた凝灰岩が敷き詰められていました。
羨道部ではその下から、割られた須恵器の甕や高杯が多数出土しています。
白いブロック(凝灰岩片)の入った土が、甕の破片の上に乗っているのが分かるでしょうか。
これら須恵器は、遺体埋葬の前の儀礼に使われて壊された物だと思われます。

羨道の最南端では、このように石敷きの排水溝が見つかっています。
上が南側で、トレンチの端が墳丘の端になります。
ところで、石室に使用されている石材ですが、画像では色が飛んでしまってはっきりしませんが、赤茶色に白い筋の入る輝石安山岩という石だそうで、殆ど加工していないようです。
この石は4kmほど離れた王寺町の明神山で取れるのですが、古墳の石材としては硬すぎるので、まず使われません。
ちなみに隣の広陵町にある牧野古墳(ばくやこふん)は、花崗岩で石室が造られていますが、これが普通です。

出土遺物は撹乱の土の中から出て来た物ばかりだそうで、時代も古墳時代(円筒埴輪片)から中世(瓦器碗)までと幅があります。
2号墳の物と思われる遺物には、大刀、刀子(とうす)、琥珀製の棗球(なつめだま)、木棺に使われたらしき鉄釘、土師器、須恵器などがあります。
平瓦も十数点見つかっているのですが、使用法は不明だそうです。

文献資料などによれば、このあたりには皇室の所領があったようです。
石室の規模から見ても、かなりの地位の人が埋葬されたと考えてもおかしくありません。
発掘担当者も、被葬者が皇族である可能性を示唆しておられましたが、このあたりの事は割愛させて頂きますm(__)m
  昨日の十数センチの積雪にもめげず、奈良文化財研究所は朝から必至の雪掻きをして、無事に『薬師寺十字廊調査』の現地説明会を開いてくれました。
そのような訳で、結構、大勢の人達が見学に来ておられました。
まずは調査概要や経緯、遺跡の性格や歴史、実際に見つかった遺構などの説明は室内で行われました。
ここは修学旅行生などにお坊さんが講話をする場所です。
実は東側僧房の大房という建物が建っていた事が調査で判明していて、その場所に復元したのがこの建物です。

 この画像は、ある場所にあった復元ジオラマの一部です
北から南を見る方向で写しているので、左側が東になります。
画像ほぼ中央にある寄せ棟の建物が食堂(じきどう)で、その前(北側)にある長細い十字の建物が、今回の調査対象となった『十字廊』です。
『薬師寺縁起』には『食殿(じきでん)』という名称で見え、食堂に付随する建物だったと推測できます。
このジオラマ、説明会で頂いた資料に載っていた伽藍配置図と一部違う部分がありますが、位置関係は大体このようなものです。

現場はこのように、かなり遺構の残りは良くありません。
長年、境内として使われていたり、田畑も広がっていたりで、基壇はほぼ削平され、礎石も当然ながら運び出されています。
それでも礎石の据え付け位置ごとに壷地業(つぼじぎょう)を行っているので、その痕跡を見れば柱の位置は分かります。
そして基壇化粧の羽目石の列と、雨落ち溝の石敷きが所々に見つかっているので、基壇の規模をたどる事もできます。
現在判明している規模は、東西廊が44.4m(11間)×8.1m(1間)、南北廊が8.1m(1間)×21m(4~5間)以上というところです。

ここは西側の廊と北側の廊がクロスする位置です。
『壷地業』と書いたプレートの置かれた浅い穴が、礎石を置いて柱を立てていた位置です。
その奥に『羽目石』の列が東西に五つ分、南北に一つ、ちょうど直角に組み合わされて据えられています。
ここの基壇外装は地覆石(じふくいし)を置かず、溝を掘って羽目石を埋めて立てる方式をとっています。
伽藍の回廊でも、このような方法を用いているそうです。
ちなみにこれらの羽目石、本来はもっと高さが有ったようで、後世の開墾や整地でここまで削られてしまっているようです。

遺物は土器廃棄坑や瓦廃棄坑が複数あって、かなりの量にのぼるようです。
瓦は創建期の物から近現代までと幅があり、土器も奈良時代から中世までの物が多いようです。
こちらは須恵器の円面硯で、見えているのは台の部分ですが、装飾的にあけられた孔の周囲にヘラ書きで雲のようなラインをあしらったモダンな意匠を見せているのが、極めて珍しいそうです。
時代的には奈良時代の後半か平安時代の初期くらいでしょうか。

それにしても中世から近現代にかけての溝や廃棄土坑、井戸、木樋などであちらこちら遺構が壊されています。
東西廊の南側などは、江戸時代以降の溝が雨落ち溝の位置を踏襲するように走っています。
新しいところでは、現代の送電線や排水の土管などでも破壊されているようです。
このような状況でも、かなりの成果が上がっている事で、薬師寺という古代の国家寺院の偉大さ(?)に何とも敬服を致します。
それよりも何よりも、融けきれない大雪を押しても現地説明会を開いていただいた事に感謝いたしますm(__)m
先日のニュースで取り上げられた『纏向遺跡第180次調査』の現地説明会に行って参りました。
JRまほろば線の巻向駅のすぐ西側の地区では、昨年までの調査で、中軸線をそろえる建物が三棟並んでいるのが確認されています。
今回の調査では、線路を挟んで東側、36、5m離れた地点で四棟目の建物跡が見つかった事が主な成果でしょうか。

この黄色い柱が立っている柱穴が、四棟目とされる建物です。
上の画像に見える白い柱群も同じ時代の建物になると考えられますが、微妙に方向が合っていません。

二棟の建物以外にも、二条の東西溝、一条の南北溝、東西と南北の柱列が一条ずつ検出されています。
これらはいずれも、ほぼ正方位に乗っているので、二棟の建物よりも新しいと思われます。

東西溝の埋土からは、このような四世紀前半の土器が出土しています。
中軸線を合わせる建物群は、以前の調査で3世紀中頃から後半と考えられているので、今回出た建物よりも溝の方が新しい事は推測できます。
正方位に乗る遺構としては、以前の調査でも柱列や溝が幾つか見つかっているので、この地区では5世紀くらいまで人が住んで、何らかの営みを続けていたようです。

これら遺構の下層には自然河道らしき砂層が見られます。
ここからは、このような弥生後期(庄内期)の土器が出土しています。
遺構は川が埋没した後の層から切っていますので、この時代よりは新しいという事になります。


調査はこの先も続き、遺物の検討も殆ど済んでいないので、いずれは更なる発見があるのではと期待しております。
 12月21日は朝から雨、昼も雨、夕方まで雨……
それでも奈良文化財研究所の都城発掘調査部では、飛鳥藤原第179次調査の現地説明会を行ってくれました。
調査区の場所は、東第一殿の西側、藤原宮が機能していた時代には、セレモニーの場所として建物などは無い領域です。
そのような訳で、藤原宮時代の遺構を確かめた後は、一部を更に掘り下げて遺構確認をしています。
この周辺は今までも調査を行っているので、大まかな状況は予測できます。
宮の時代には礫を敷いた広場として存続され、その下層では造営の時の遺構が幾つか見つかっているので、今回もその続きが出るはずと、調査が行われました。

ここで写っているのは、宮の造営時の面です。
青いテープが並行して走っているのは、東西方向に検出された溝の輪郭を示しています。
この溝は礫で埋められ、朝庭の排水のための暗渠として機能していたようです。
調査員が指し示しているラインは、昨年の調査でも見つかった沼状遺構の岸です。
この遺構には多量の木片が埋められており、宮の造営時に製材した柱などの削りクズを捨てたのだろうと考えられています。
今回は、瓦溜りもこの遺構内で検出されました。
調査区全体では、少なくとも四つの大小の沼状遺構が見つかっていますが、部分的なトレンチ調査をした程度なので全貌は不明です。
それでも長年の間に、他の部分よりも地面が沈み気味になっているので、大まかなラインを推定する事が出来ます。

造営時の遺構として目立つものには、調査区北西部で見つかっている斜行溝です。
この溝はかなりの深さがあって、物資の運搬に使われたと考えられ、以前の調査で南西方向から延長部分が見つかっています。
本来は南北方向の溝だったのですが、延長部北側に大極殿院南門が造られる事になったので、東に外して掘り直をされた事も分かっています。

藤原宮の土地は、東から西、南から北へゆるく傾斜をしています。
かつては湿地だった場所も有るようで、宮の廃絶後に耕作地として利用されていた時期の野井戸が、あちらこちらで見つかります。
そのために排水にはかなり気を使ったものと思われます。

ところで藤原宮時代の遺構としては、新聞記事などで取り上げられた柱列があります。
この画像の中央部を斜めに走っているピンクのテープがそのラインですが、畦の向こう側という事もあって、かなり見難くてすみません。
柱穴の間隔は約3メートルで、今回は18間54メートルを検出し、更に東に伸びるものと予想されています。

この画像のラインより右側は、まだ礫敷きの面を残していますが、柱穴はこの面から見つかっているので、宮だった時代の遺構と考えられます。
柱穴の径は約30センチで、深さは35センチくらいなので、柱は太いものでもなく、列の部分が周囲の礫敷きよりも若干高くなっているので、塀のような施設にでもなるかと思われますが、まだ結論は出していないそうです。

まあ、場所が場所だけに、遺構はかなり地味です。
天気も悪く、午後からはかなり寒くなって来たのに、現地説明会への人出はそこそこありました。
相変わらずの下手のパノラマ合成画像は、橿原考古学研究所による『飛鳥京跡苑池第8時調査』の南池調査区です。
日本書紀に見える『白錦後苑(しらにしきのみその)』かといわれて久しい苑池(えんち)は、渡り堤を挟んで南北二つの池に別れます。
北池からは更に北へ向かって80mに及ぶ水路が伸び、それが西に折れ曲がって飛鳥川に注ぐという形を取っていた事が調査で分かっています。

  ニュースでは、南池の全容が判明したと言っていましたが、今回の調査対象は池の北半分です。
南半分の詳細は、昨年の第7次調査で判明しています。
これらの調査で分かった遺構から作成したのが、上の画像の平面図や模型です。

 更には中島全体を検出し、そこから渡り堤との間の池の中に、柱列も見つかりました。
これにより、中島から池に張り出したテラス状の施設があったと考えられています。
左の二本がその施設に当たりますが、更に並行して二本の柱があった跡が有るようです。
この画像では分かり難いのですが、柱は途中から色が変わっていまして、常に水面の高さが一定に保たれていた様子も窺えます。
ちなみに右側は、堤に埋められている木樋で、ここを開閉する事で北池との水位を調整していたようです。

更に新聞報道などで言われていたのが、池の東側の段丘上に見つかった建物跡です。
二棟の掘立柱式建物と、南北方向の柵の一部が検出されていますが、いずれも浄御原期の遺構らしく正方位に乗っています。

 この辺りの地形は南から北、東から西に傾斜しています。
池の水は豊富な湧水で確保されているようで、排水は北に向けて行なわれます。
その水路の一部を今回も検出し、構造が分かるようになりました。
上下二段構造で、上段の幅は13m、下段の幅は6mになりますが、上下を分けるテラス部の構造が、西側と東側では違っています。
画像の奥が東側ですが、石を並べて階段を造っています。
西側は砂利敷きですが、階段はありません。

水路の西側の高くなった土地でも、建物跡が見つかっています。
ここは土を盛って整地してあり、今現在も川の側から見ると高くなっているのが分かります。

宮地は南東の微高知に建設され、ここは川の段丘を利用して造られた池のある庭園です。
三年前に史跡・名勝地に指定され、いずれは指定地を全て公で買い上げて、苑池の様子を再現した公園を造る計画だそうです。
薬師寺東塔の解体修理現場の公開も三度目です。
私は10日の午後に行って参りました。
瓦は既に全て下ろされ、相輪部も外され、この度は三重目の解体もほぼ終わっています。
この画像は初層部分、瓦を下ろされた裳階(もこし)と主屋の壁や組み物が見えています。

これは三手先(みてさき)組物の先端の部分です。
(けた)を支えている、四角い斗(ます)が原形留めていません……
その下の肘木(ひじき)には笹繰(ささくり)や舌(ぜつ)という部分があるようなので、奈良時代の部品のようです。
1300年の経年が、ここまで檜財を劣化させているという事でしょうか。

こちらは三重目に使われていた三手先です。
斗が外側に木口を見せるように置いてあるのは、古い時代の証拠だそうです。
こちらの肘木も、先程に同様、形からも創建当時の物だと考えられるのだとか。

素屋根の最上階に上がりますと、このような様子。
下の足場に置かれているのが、三重目各所の部材です。
今までに何度も解体修理が行なわれ、破損した箇所を新たな部材で補って行ったのですが、それぞれの部材には、何所のどの部分で使用されていたのかが注記されています。
何でも全体で1200を越す部品があるそうで、これをしておかないと何所の部品なのかが分からなくなってしまうそうです。

  さて、外された相輪部はと申せば、いずれも御存知かと思いますが、境内のプレハブで年末まで特別展示されています。
修理が終われば、30m以上の上空に行ってしまう(かもしれない)、水煙(すいえん)を間近でマジマジと見る事が出来る、絶好の機会です。
やっぱり本物は迫力が違いますよ。

ところで、水煙や九輪の劣化状況はいささか厳しいようで、この後、念入りな劣化防止の科学的処置をして戻すか、いっそうの事、新たな物を上に上げるかの結論は、まだ出ていないのだそうです。
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うめぞー
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