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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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 本日は終日雨天ですが、橿原考古学研究所の飛鳥京跡苑池第10次現地説明会が行われました。
 この画像は、推定飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)の内郭、推定内裏の井戸の辺りから、苑池の方向を見た様子です。
 現在の飛鳥川は、明日香村の内では案外小さな川ですが、しっかりとした河岸段丘を見せています。件の苑池は宮地よりも一段下がった段丘上に造られているので、この状況では見えていません。ちなみに奥に見えている丘陵は、左が川原寺の後ろの山で、右の少しけぶっている方が甘樫丘です。


 こちら、以前の現説でも登場しましたジオラマです。今までの調査で、このように塀で囲まれている事が分かっていました。今回は右側の塀の白いマーキングがされている位置に、門と思しき遺構が見つかったので、説明会が行われたという次第です。


 あれ、画像が横倒し??( ・◇・)?(・◇・ )?

 
 こっちも横倒し??何故だ??(゚_。)?(。_゚)??

 この図の赤いラインで囲まれているのが、『飛鳥京跡苑池』として、史跡・名勝指定されている範囲です。池は間に渡堤(わたりつつみ)を設けて南北に分かれ、北に向けて排水路が伸び、最終的には飛鳥川に水が注ぐと考えられています。
 この辺りの小字は出水というようで、池の水のほとんどは湧水だと考えられています。
 今回の調査は、トーンで示されている範囲ですが、西側の川沿いのトレンチでは、中世以降の河川体積が見られ、洪水で遺構は残っていない事が分かりました。遺構が検出された東側のトレンチは、苑池よりも一段高い段丘の上に設けられました。
 この図の南端に塀のコーナーが見えます。そして中央辺りに見える東西方向の柱列(SA00017)の位置が、塀の北端と思われます。この間に150mの南北方向の塀があるとかんがえられ、門の遺構はその中央部で見つかっています。
 塀から続く柱列は、後世の農地整備などで削平されて残っていないようです。


 
  これは池の位置の現在の様子です。残土の上に見学用のテラスを作ってくれていて、そこから見ています。白い看板の位置が、南池、渡堤、北池を示しています。


 さて、今回の目玉となる門の遺構ですが……第一印象、何で4間??(。_。).。o0O?
 東側(奥側)の柱列は一部壁にかかって分かり難いですが、梁行2間、桁行4間の総柱の掘立柱建物です。総柱の建物として、倉庫、楼閣、門が考えられます。現在分かっている塀の上に位置しますので、門と考えるのが妥当でしょうか。しかし、4間となると、門の中央に柱が来てしまい、おかしな構造になってしまいます。
 それぞれの柱間の数値を聞いていないのですが、現地を見た様子では、北から2番目と3番目の柱間が少し広いように見え、南側2本の間が狭いように見えます。門として使われたのは1間ぶんのみで、門に付随して別施設があった可能性も考えられるそうです。



 報道では大きく取り上げられましたが、現地の残りはそれ程、良い方ではありません。
 柱は全て解体時に抜き取られ、柱の掘方の形も乱れているようです。そして深さとしては、30cmも無いように見えます。柱の根石もなさそうです。
 上の画像を見ても包含層が殆どなく、遺物らしい遺物も今回は見つかっていないという事です。

 しかし、今回の門の発見で、苑池施設の全体像の理解が、また一つ進んだ事は間違いありません。今回の調査地の南側、先の調査で2棟の建物跡が見つかった位置は、既に整地が進み、ここに苑池の説明施設を造る予定になっているそうです。
 今年もいずれ行われるバーチャル飛鳥京でも、そろそろ、苑池の様子を復元するのではないかと、東大のプロジェクトチームにも期待しているところです(-ω-)/
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 かつて興福寺の境内には多くの木が茂り、南円堂北円堂のある地区と東金堂五重塔のある地区が、別々の寺のように見えていたと聞いた事があります。そのため、南門の延長線となる伽藍の中軸に、中心となる金堂を建立する事が、長い間の悲願だったそうです。


 こうして目下建設中の中金堂は、大屋根の瓦も葺き終わり、4月6日から19日まで一般公開が行われました。私が見学に行ったのは12日ですから、これもひと月近く前の事です(´∀`)
 屋根の天辺両サイドには、金色の鴟尾(しび)が据え付けられていますが、まだカバーがかけられていて、はっきりと見る事はできませんでした。



 軒丸瓦軒平瓦も、発掘によって確認された創建期のデザインで再現されました。軒丸は線鋸歯文縁複弁蓮華文、軒平は均整唐草文という模様です。


 何故(?_?)なのか、またも画像が横倒しです……(ノω;)
 鬼瓦はこんな顔をしています。南都七大寺式とは顔が違いますね。



 裳階部分は、まだ杮葺きのまま、これから葺かれる瓦が下に並べられています。


 本当にどうして縦長画像は、横倒しになるんでしょう((+_+))
 軒下の組物は『三手先組物』といいます。軒の出が5m弱あるそうで、これを支えるために特殊な形のパーツを複雑に組み合わせていますが、実に整然として綺麗です。


 足場にはビュースポットも設けられていました。このように境内を俯瞰し、遠方をも見渡せます。
 このように外観はかなり完成に近づいています。この後は壁の塗装や、内装を行ってゆくそうで、すべての完成にはまだ3年を有するとの事、落慶は平成30年を予定しています。

 

5月2日、天理市で道路の事前調査で巨大な石を積み上げた石室が発見され、現地説明会が行われました。


既に盗掘され、天井石や羨道部の石の一部も失われていますが、巨大さは充分に伝わる発見です。


何度かあげ直しても、画像が横倒しになってしまいますね(゜.゜)
チョイと見苦しいですが、玄室部の石は二段積みで2.6mを計ります。
奥壁の幅は2m、下部にはベンガラが残っています。
側壁も二段に積まれ、長さは4.9mあります。


羨道部の残りは壁面で4.5mありますので、石室の残長は9.4m、かろうじて両袖式です。
床には長径30cm程の石が敷かれています。


またも横倒しです||(-_-;)||||||
羨道部床面の一部にもベンガラが見られます。
釘も多数出土しているので、木棺による追葬が行われたと考えられます。
また玄室部からは、多くの凝灰岩の破片が出土しているので、石棺が置かれていたはずです。


石室内からは13~14世紀の瓦器碗が見つかっているので、この頃に大規模な盗掘を受けて、石材も運び出されたのかもしれません。
その後、この場所は山城が築かれたそうで、この大きな溝は薬研堀のようです。
運び出し損ねた石材が、底に幾つも転がっていました。
楔の後が残った石も見られます。


上って来る途中には、山城の土塁が残っています。
所々に廓状の平坦面も見られました。


玄室部に残っていた石棺片の一番大きな物です。
平坦に削られた面には、ノミ跡も見えます。
組み合わせ式の石棺でしょうか?


石室の床面に置かれていた須恵器です。
7世紀前半から半ば位の物でしょうか。


更には大刀の部品や鉄鏃も見つかっています。
釘は羨道部の木棺の物です。
上に見える瓦器碗の破片が、盗掘のあった時期を示しています。

全体を発掘した訳ではないので、墳丘の全貌は分かりませんが、直径30m程度の円墳の可能性があるそうです。
布留遺跡や石上神宮を見下ろす位置に、石上・豊田古墳群の最末期に単独で造られた墓だという事です。
眼下の遺跡に大きな影響力を持つ、有力者が埋葬されている可能性が大きいと考えられます。

 北葛城郡王寺町の西安寺跡調査の現地説明会に行って来ました。
 西安寺という名前は、小字名と古代・中世の文献に見えるそうです。そこに当たる場所には、現在は舟戸神社があります。
 神社の境内や周辺では、飛鳥時代から中世の瓦が採集されると、昭和初期から報告があります。記録では明治14~5年くらいまで、御社に向かって左手前辺りに、塔の心礎をはじめとした礎石と思われる巨石が残っていたようです。しかし、その後に大和川に架けられる橋の基礎工事に使うために運び出されてしまったという事です。


 鳥居を入って御社前に進むと、左手側に調査区が開けています。御社はほぼ北向きに建っているので、調査区は東西に開けています。
 あまり広くはない境内で、木を切らずに調査するという事で、拡張も最小限に留めています。これは西から見た様子です。

 
 上の画像の手前の部分に近寄ってみますと、このような穴になっています。これは北から見ているので方向が違いますが……
 ここにかつては、心礎四天柱があったはずです。真ん中部分、周囲よりも更に浅く一段下がっている所に心礎がありました。そして心礎の跡を取り囲むのが、四天柱の抜取穴です。裏込めの根石なども運び出したのか、あまり大きくない割られたような石が散乱しています。


 礎石は抜取穴より東側に二つ見つかっています。右側の礎石1は、円形の柱座(はしらざ)から左右に地覆座(じふくざ)が作り出されているので側柱だと考えられます。どちらも花崗岩です。
 周囲の土も、礎石自体にも火を受けた痕があります。しかし火事が起きたというよりも、寺院が廃された後に倒壊した材などを、この場所で燃やしたようで、基壇上面には12~3㎝の厚みで炭化層が検出されています。この層から焼けた壁土凝灰岩破片が少し出土したそうです。
 礎石周辺や更に奥で白土も出土しています。炭の下になっていたので、ここでは黒いシミのように見えています。壁に塗られていた物とも思えますし、塔の内部の床が白土仕上げになっていた可能性もあります。


 更に奥で、基壇の端を検出しています。花崗岩の平らな面を外に向けて並べているので、乱石積基壇だと思われますが、凝灰岩の破片も多く見つかっているので、基壇外装に使われていた可能性もあります。


 これ、本来縦の画像なのですが、どうしても横になってしまいます(゜_゜>)
 ともあれ、東から見るとこういう具合です。礎石が二つ出ている事で側柱の柱間が2.15m、基壇の端が検出された事で、側柱からの出も3.27mと分かります。これによって一辺が12.99mの基壇が復元できます。これは法隆寺の五重塔とほぼ同サイズだという事です。
 基壇自体が造られた年代を決定するような遺物の出土は見られないのですが、礎石が露出していた時期があるという事からも、飛鳥時代の終わり以降の建造かと推測ができます。


 また画像が横ですσ(^◇^;)
 時代を示す遺物としては瓦があります。古い物は法隆寺若草伽藍と同じタイプ、飛鳥時代の物が見られるので、寺院はこの頃に創建されたと考えて良いのでしょう。


 そして新しい方では、鎌倉時代の巴文軒丸瓦が出土しています。この画像の右側の瓦ですが、横に走っている線は版の傷です。版型が割れても使用しているのが、何とも見事です(^^;)
 寺院としてはこの頃に廃絶したものと思われます。

 文献には現れるのですが、今まで遺構が確かめられなかった西安寺が、今回の調査で塔の位置や大きさが判明しました。
 塔の南側にも調査区を開けたそうですが、こちらでは遺構は全く見られなかったという事です。現地形などから見ると、寺院の正面は西になるようです。北側に金堂を置く程の平らなスペースもあるように見えます。これらから伽藍配置は、向かって右に塔、左に金堂を置く法起寺式になるものと考えられます。
 調査は今後も続けられ、更に西安寺の具体的な姿が分かって行くものと期待されます。

 解体前の塔では、西側にしか階段がありませんでした。しかし、今回の発掘調査によって、各面から階段を作り出す盛土地覆石が見つかり、四面に有った事が分かりました。
 
 
 各礎石ですが、心礎四天柱側柱共に創建当時の位置から動いていない事も判明しています。裳階柱だけは、明治の修理で置き直したようで、古い据付け穴を新しい据付け穴が切っている様子が見られます。
 西塔の心礎には舎利穴が見られたのですが、こちらにはありません。二つの塔がある場合は、どちらかの一方に舎利を収めたようです。東塔心礎の上面は、このように浅く削られています。これは江戸時代の修理で、破損していた芯柱の根元を切って、根継石を入れたため、その底の形に合わせて削ってしまったからだという事です。


 こちらがその根継石です。楔の跡も生々しい花崗岩の塊で、綺麗に仕上げているとは、御世辞にも言い難い物ですσ(^◇^;)


 そしてこれが、西塔の心礎の原寸大レプリカになります。このように芯柱を収める穴の中心に、舎利穴が開けられています。


 全て版築で仕上げた基壇ですが、礎石を置くためには据付け穴を掘らなければなりません。この土が恐ろしく固いそうで、発掘の時にも通常の道具では歯が立たず、石工用の鑿まで使ったのだとか。
 そして礎石を置いた後に土を入れて固定します。この土の表面も3㎝程度の径の棒で、これでもかという程に突き固めている様子が、至る所の穴で見えます。

 今回の発掘により、東塔の基壇はかなり残りの良い状況で、創建時から何度かの修復が加えられて行った事が分かりました。そして基壇外装に使われた石などが、西塔とは異なる事も判明しています。これがどうしてなのかは、これからの研究材料となるのですが、まずは解体、発掘の成果より、今後の修復の方針を明確にして行くのが先決です。


 そして再び、このように二つの塔が並び立つ姿が現れるのは、数年先の事になるという事でした。
 国宝薬師寺東塔の解体修理に伴い、橿原考古学研究所と奈良文化財研究所による基壇の合同発掘が行われています。 2月28日(土)、その成果の現地説明会が行われました。

 東塔は730年に造られた事が記録で分かっています。
 これは2010年の12月に写した写真です。昭和27年の解体修理で、基壇外装の石なども取り替えられてこのような姿になっていました。
 今回の解体修理では塔全体を解体した後、基壇化粧も外して、不同沈下を起こしている礎石の状況を調べる必要も兼ねて発掘を行い、今後の修理方針を検討する参考にするのだそうです。

 
    明治や昭和の修理では、基壇の本格的調査は行われておらず、今回が初めてだという事です。
この調査により基壇の外装は、創建当時が切石積(きりいしづみ)基壇、15世紀後半以降は乱石積(らんせきづみ)基壇、江戸時代には西面にだけ切石積基壇を施し(明治5年に写された写真に見える)、明治にはこれを取り払って、現在のような壇正積(だんじょうづみ)基壇にした事が判明しました。


 これらの外装は江戸期以外は壊される事なく、石敷きの犬走(いぬばしり)の部分を食いつぶして、外へと重ねられています。そのため、時代を追うごとに基壇のサイズは大きくなって行きます。
 東面の一部にはこのような、中世の石積の基壇外装が残っていました。
 基壇その物の残りも極めて良く、25層にも及ぶ入念な版築(はんちく)によって築かれている事も分かりました。版築の下の部分は粘土を突き固め、上の方は砂と粘土を交互に固めるという方法で作られています。上下で色の違いが見えるのはそのためです。
 薬師寺の建つ場所は、かつて龍神池だったという伝承があり、現在でも湧水量が多いそうです。その地下水対策として、粘土を多用したのではないかと考えられます。このようにすべて版築で基壇を築くのは、西塔、金堂、講堂も同様です。


 思いのほか残りの良いのが、創建時基壇の地覆石(じふくいし)です。石材は花崗岩(かこうがん)が多いのですが、閃緑岩(せんりょくがん)や斑レイ岩、安山岩なども交じっていて、ややカラフルです。ところが西塔では、すべて花崗岩だったそうです。花崗岩の使用は平城では珍しく、飛鳥の寺院に多く見られます。
 この画像は北西の方向から写しています。こちらのコーナーには、凝灰岩(ぎょうかいがん)の羽目石(はめいし)が残っていました。面白いのは、コーナーに来る石をわざわざ直角に削り出している事です。もう少し新しい寺院の基壇では、束石(つかいし)を置いて羽目石を支えていたと思うのですが、あまり見た記憶のない形です。更には地覆石の下にはもう一段、延石(のべいし)を廻らせる例も多いのですが、ここでは見られません。

眠くなったので、続きは明日(-_-)゜zzz…

飛鳥寺の西側には何があったのでしょう?
『日本書紀』によると、『槻樹(つきのき)の広場』があったのだそうです。
以前の調査でも、石敷や溝が見つかっています。
2011年調査
2013年調査

 
 そして今回も、石敷は検出されていますが、余り残りが良くありません。

ところがここに予想外の、建物の跡が二棟分出て来ました。
明日香村教育委員会の発掘調査技師によると、槻の根っこや切株は期待しているけれど、建物の存在は想定していなかったという事です。
こちらが西側の建物跡です。

 
この画像の奥、右側に見えている三角の瓦屋根が飛鳥寺の御堂です。
飛鳥寺寄りになる東側の建物は、この調査区では東西2間分しか検出していません。
しかし、更に東側(説明を聞いている人たちの更に後方です)に開けたトレンチで東端の柱跡を見つけています。

そして、以前に調査した地区で南側の柱列を既に検出しています。

こちらが調査区の図面です 。
左側の少し薄く印刷されている部分が以前に調査した地区で、右側の濃い線で表されている地区が、今回の調査地区になります。
赤い丸が建物の柱跡です。
二棟とも桁行(東西)7間、梁行(南北)2間の長細い建物です。
柱間がやや不揃いで、2.4~2.7mで並んでいます。
柱が抜き取られているためか、検出した穴の形や大きさも33~116cmと様々です。
西側建物でいくつかの柱穴を半裁したところ、深さは30cm程度になります。


西側(先の図面では上)建物の北側(右側)柱列の途中に、三連で並んだ柱穴があります。
この真ん中の穴は柱列には載っていますが、柱間に合わず、対応すると見られる穴もないようで、建物に付随するか否かは不明だという事です。


こちらも半裁した柱穴です。
埋土が赤く見えるのは、焼け土が混じっているためだそうです。
穴の横や手前に見える石も、火を受けているようです。
今回見つかっている石敷きは、これらの柱穴を埋めた後に敷かれたという事です。

このようにやや雑な作りで、撤去された後は再び石敷きの広場に戻された事からも、短期間だけ使われたような、仮設の建物だった可能性を指摘されています。
いずれにしても、この遺跡で建物跡が出て来たのは今回が初めてで、年代を特定できるような遺物の出土も少ないそうなので、飛鳥時代に建てられたものとしか、確実な事は言えそうにありません。

 報道で大々的に取り上げられた、明日香村教育委員会による『都塚古墳』の墳丘調査の現地説明会が行なわれたのは、8月16日ですから、既に四ヶ月半ほど前になりますσ(^◇^;)

  この都塚古墳ですが、1967年に石室内の調査が行われています。墳丘の造られた場所は南東から降りて来る尾根筋の上で、横穴式石室は南西に開口しています。両袖式の石室は飛鳥石、くり抜き式石棺は二上山の凝灰岩と、地産池消(?)の石材を駆使して作られています。
 飛鳥における蘇我氏の本拠に立地するので、当然ながら一族の有力者の墓所と考えられています。そして墳形も蘇我氏の例にもれず方墳です。

 

 長々と並ぶのも邪魔くさいと、現説終了時刻の30分前を目安に、14時半過ぎに到着したところ……考えが甘かった"(-""-)"

 今回の調査成果で注目されたひとつが、墳丘階段状に造られていると判明した事です。

 この調査区は墳丘の北側コーナーを含む北東面に当たりますが、開口部(正面)から見ると反対側なので、造りはやや雑です。画像の上の方に見える溝が周濠ですが、幅は1m程度、深さも40cmほどの空堀です。その奥に石を置いて護岸を築いています。
 手前が墳丘の初段になりますが、写真が悪いのや貼り石の残りが悪いのを差し引いても、石の大きさバラバラ、並べ方も乱雑……


 こちらは北西側(正面から見て左側)に開けた調査区です。
 墳丘の初段は、礫混じりの地山を削りだして、河原石を貼りつけています。ここで見る限り、石の大きさを揃え、墳丘裾のラインも良く残っています。しかし、裾に特に大きな石を並べた訳でもなく、法面にも目地らしい目地も通っていないような印象を受けます。

 画像の向きが180°逆になってしまい分かり難いですが、先程と同じ側の二段目裾を検出した地区です。この段も地山を削りだして成形しています。
 こちらは向きが合ってますね、先の程の調査区のアップです。この画像の右側で、二枚上の画像の裾が出ています。その間に見学通路を作っている事(上の画像参照)からも分かるように、初段はかなり幅広いテラスを持っています。
 二段目には、多少大きな石を使っているようですが、あまり残りは良くありません。全体に散らばって見える細かい石は、元々の地面(地山)に含まれている礫です。

 ここでは南東側(正面から見て右側)の墳丘裾が出ています。北西側よりも残りが悪いのか、造りが雑なのか……
 
 墳丘の置かれた尾根は南東に上がって行くので、島庄(石舞台古墳などがある地域)から見ると、裏側になります。そのために手を抜いた可能性もあるのでは、という事です(^^;)

 そしてこれが、南東側、墳頂に向けて開けたトレンチです。四段の石積みを確認しています。さらに下方に数段はあると思われます。

 今回の調査で分かった墳丘裾の位置などから大きさを割り出すと、東西が約41m、南北約42m、高さは4.5mとなるそうです。更には、道が昇って来る西側から墳丘を見上げると、見かけは7m以上に見えていた事にもなるという事です。下から見上げられる事を意識して、造られているのではないかと考えられます。

 このような位置関係からも、6世紀後半の構築年代からも、石舞台古墳(7世紀初頭築)に先立つ墳墓として、報道各紙も被葬者の名前をこぞって上げたようですが……まぁ、被葬者論はまたその内に(しないと思うけど)m(__)m
 11月24日に行われた橿原考古学研究所による、 県道工事の事前調査です。
 橿原神宮前から明日香村に抜けるルートはいくつかあります。最短で甘樫丘の南麓に抜ける県道124号線は、狭い、アップダウンはある、途中から一方通行という、かなりの難有りの道です。重要な生活道路ではあり、桜井行きの路線バスも通るので、何とかならないのかとは、以前から言われていました。

 少し北の平坦な場所にバイパスを通す案は以前から出ていたようです。しかし、国道169号線とアクセスする場所に、このような『芋洗い地蔵尊』の祠があったので、反対意見もあって着工が遅れたと聞きました。

 道を通すにあたっては、御地蔵様が安置される場所を確保し、綺麗に整備する事で、この場所での工事も始まりました。この画像の上の方、移植したばかりの木が何本か並んでいる場所に、御出で頂く予定です。ちなみに現在、御地蔵様は近くの久米寺で預かって頂いているという事です。


 さて、事前調査の現場ですが、西端の四坊に当たる地区は、自然河道の大当たりですσ(^◇^;)
 先の画像内の絵図にも見える『芋洗い川』は、この川の名残だと考えられます。この旧河道をたどると、暫くは道の下を通っていますが、もう少し東(左手方向)に行くと、南へとルートを変えるそうです。

 河道からは、弥生時代から14世紀前半までの遺物が出土しています。以前の調査でも、この川の中から未完成のまま放置された、鎌倉時代くらいの『修羅』(木製のそり)が見つかっています。
 

 新聞などで報道された東西に長い建物の東端の部分が、二坊に当たる地区で検出されました。この建物については、今までの調査で西側の14間分が見つかっていました。今回の東側2間分を合わせて、梁行2間×桁行16間の長大なものである事が分かりました。
 この図で見ますと、建物の真ん中よりやや東を西二坊坊間路が貫いている事になります。少し見にくいのですが、道の両側に有った側溝が検出されています。建物の柱の跡は、この溝が埋められた後に掘られています。区画整備をして道を潰した後、この建物は建てられた事になります。

 この場所もあまり地盤が良いとは言えず、砂混じりの氾濫原を整地して利用しています。整地層から見つかった土器は7世紀後半の物が最も新しいので、この時期に地盤整備をしています。そして道を通し、その後に建物を建てたという順番です。周囲で見つかった建物などとの関係からも、大型建物は藤原宮期後半以降の物だと言えそうです。
 掘立柱を建てるに当たっては、柱が沈みこまないようにと、石を敷き詰めています。柱穴の底は既に砂混じりの地盤だそうです。


 手前のピンクのテープが、建物の東端です。柱の跡はまだ掘っていません。奥には塀になると思われる柱穴が二列並び、さらに奥には、並行して溝が見つかっています。
 この大型建物ですが、藤原宮以外の京内では、最も大きな規模になります。到底、一般庶民の住宅の範囲ではなく、役所か寺院に伴うものではないかと推測されています。

 近くにある和田廃寺の瓦が遺物としてあります。しかし数はあまりに少なく、整地層からの出土なので、瓦葺の建物が伴っていたという事にはなりません。


 既に舗装の済んだ道路面に置かれている筒は、大型建物の西端の柱位置を示しています。奥に見えるテントの左側が調査地です。さらに奥の木立は『馬立伊勢部田中神社』の杜です。
 道路は社の杜を迂回するように、ここで南にクランクして、飛鳥川の堤防へと向かっています。この道ができれば、桜井方面へも抜けやすくなり、橿原神宮前駅や五条野周辺の渋滞も、少しは緩和してくれるものと、地元住民は期待しておりますm(__)m
 12月14日に行われた奈良文化財研究所の、飛鳥藤原第183次調査の現地説明会です。
 藤原宮は平城宮とは違い、ほぼ正方形をしています。その中央に大極殿院が置かれ、左右に官衙群が広がっていると考えられます。
 今回の調査は内裏東官衙に隣接する、東方官衙北地区の南西部の一角です。


 この遺構図の実線で囲まれた183次と書かれている個所が、今回の調査区です。色分けは時代分けを示しています。青紫が藤原宮期、赤が7世紀後半から宮造営期、緑は同時期でも赤の遺構に切られているので、それより古い時期になります。グレーはそれ以前の7世紀前半から中期、黄色は西方位に乗らない事もあり、古墳時代かそれ以前の遺構だと考えられます。


 調査区の西側の地区を南から見ています。ここで目立つ遺構は、宮に先行する道路の跡です。どうやら、宮のエリアを決定する以前に、道の普請を始めたようです。それどころか両側の側溝を掘った後、道幅を広めに変更したのか、新旧の溝が切り合っています。

 この画像は、同じ地区を北から見ています。地区の西端(右側)に、藤原宮として機能した時期の建物遺構が、二軒検出されています。これらは、道の側溝を埋めて整地した後に建てられています。
 いずれも掘立柱建物で、大きな方の建物(奥の水色のテープ)は梁行2間、桁行4間以上ある事が、以前の調査結果からも確認されています。大きな柱穴の間に、小さな柱穴が二つ並んでいるのは床束と考えられるので、この建物には床が張られていたようです。
 この建物の北側(手前の水色のテープ)にも、やや小さな柱穴が並び、別の建物があります。

 これは調査区東側エリアを東から見ています。ここには梁行3間、桁行4間の礎石立ちの総柱建物(水色のテープ)、それに先行する掘立柱の側柱建物や塀(ピンクのテープ)、更に古い(緑のテープ)が見られます。そして、塀よりも古い、道路の側溝らしき東西溝も検出されています。
 この総柱建物、先程の床束のある建物は中心線がそろいます。その線をさらに西に伸ばすと、大極殿(奥中央の茂み)にも乗って来ます。宮造営の当初より、計画的にこれらの建物は配置されていた事が分かります。

 総柱建物は一棟しか見つかっていないので、倉庫なのか楼閣なのか分かりません。礎石を置いて柱を建てていますが、周囲から瓦はあまり出ていないので、瓦葺ではなかったようです。切り合う柱穴がないので、建て替えも行われていないようです。礎石は宮地の廃絶後に撤去されて残っておらず、下に置かれていた根石が幾つか見られます。


 遺物は須恵器がありますが、全体的に少ないようです。特筆すべき遺物として、礎石抜取穴の一つから、このような佐波理鋺(さはりわん)の口縁部破片が見つかっています。飛鳥時代の物で、厚さは0,3~0,4㎜しかないそうです。見つかった抜取穴の位置で、平安時代の耕作溝が止まっているので、その頃にはまだ礎石が残っていたようです。

 東方官衙地区は、まだ調査範囲が狭く、全体像は全くつかめていません。未だ田園風景が残るだだっ広い場所に、本当に宮殿や役所が整然と並び、官人がひしめいていたものなのか、容易には想像ができない状況です。
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