忍者ブログ

うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

HOME Admin Write
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ツイッターなんぞを人並み(?)に始めてみたところ、こちらが全くの疎かになってしまいました。
ブログを始めるとHPを更新しなくなり、ツイッターを始めてしまうとブログさえ顧みなくなると、周囲でも言っていますが、私も人並みにその例に漏れないようです。
しかしながら、TLとやらを眺めていると、フォローしている方のリツイート行為によって、特に興味もない呟きの数々を読み飛ばすどころか、眺め飛ばすのに忙しくて、これじゃ自分が何か呟く気もなくなっちまうぞ……と、ここ最近はかなり放棄気味になっております。
放棄が宝亀と変換されるのは、まぁ、IMEのお利巧さん加減ですかね(^_^;)

そんなボヤキはさて置き、進まないどころか後退しているかもしれない原稿を前に、逃避的な事を考えておりました。
歴史上の出来事を物語にするにあたり、主人公をいわゆるヒーローなりヒロインにするのには、私としては結構な抵抗があるとは、今更公言する事でもありません。
そして対抗する脇役を悪党にするくらいなら、主人公にも悪党になってもらった方が、話が進むような気がするのは、私が天邪鬼なためだと思います。

でも、敵役(かたきやく)は悪人であった方が、話は絶対に分かりやすいのでしょう。
だから主人公は、良い人でなければ収まりが悪いのだと思います。
単発の歴史ドラマの大抵は、このセオリーに乗っ取っているような気がします。
NHKが時々、妙に気負って作る古代史ドラマもこの路線でしょうか。

ところで、こういう話って面白い訳?(゜_゜>)?
殊に、描かれる時代や人物にある程度の思い入れのある人にとっては、『ただの物足りない粗筋にしかなっていない』とか、『今更こんな古めかしい歴史観、見せ付けられたくない』とか、『かなり変!通り越して腹立って来る』という類の意見を何度か聞いた事があります。

そして更なる疑問……歴史好きの人のどの程度が、完全無欠のヒーローを求めているの?(゚_。)?(。_゚)?
例えば、聖徳太子は聖人君子じゃなければだめなの??
いやいや、ギャグ漫画の主人公にもなれる、ってのは横に置いておいて(-_-;)

かつて、政治家としての厩戸皇子に「私の手はとうの昔に血に塗れているのだよ」と呟かせ、晩年にはそれらの行為に導かれるように仏教に傾向して行く姿を描いて、何やらの物議を醸し出したような書籍(文学作品ではありません)もありましたっけ。
これが世に出た頃(40年位前かなぁ)にはセンセーショナルだったのかもしれませんが、今じゃ、小説などでも違和感もなく描かれる厩戸皇子の姿なのでしょうけどね……

まぁ、私がこんな与太事を今更考えたところで、更なる答えが出るとは思えないんですけどね、我ながらσ(^◇^;)
別に悲劇のヒロインのレッテルを貼られている人物が、とんでもない嫌われ者ワガママ女でも、文武両道のヒーローが、ヘタレなセルフ俺様男でも、私の中では一向に構わないから。

こんな事よりも、今の主人公が主体性持って動いてくれるように、せいぜい、無い知恵絞らなければ……我ながら本当に信じられないのが、未だにこの人物の外見的なイメージすら固まっていない事。
これじゃ、動いてくれる訳ありませんわε-( ̄ヘ ̄)┌
PR
 奈良市の西ノ京『薬師寺』では現在、解体修理中の東塔から下ろされた物を中心として、今月の20日まで鬼瓦展が行われています。
サブタイトルの『おにがわらわら大集合』の通り、鬼瓦がわらわらと雁首並べています。
場所は東僧房、いつもならば、団体の拝観者にお坊さんが講話をしてくれる場所ですね。
 展示には創建期の奈良時代の物もありますが、塔から下ろされた物は室町時代から江戸時代が中心、古い方では鎌倉時代、新しいのは昭和30年代の瓦が展示されていました。
最下檀の左端の二つが昭和の鬼で、古代の物をイメージした感じです。
 これは鎌倉時代の鬼瓦、角の牙もないので、鬼というよりもいかつい顔という感じです。
解説によりますと、当初は型押で造られていた鬼瓦ですが、室町時代くらいから立体的で迫力のある姿に変わって行き、一つ一つを手捻り造るようになったのだそうです。
現在お馴染みの鬼瓦というと、やはりこんな感じ。
江戸時代の鬼師の渾身の作品です。
展示では、鬼瓦の裏側も見せてくれて、どのように屋根に装着するのかもパネルで展示されています。
 更には、会場の一角にミニ鬼瓦作りコーナーもありまして、五種類の型から好きなのを選んで型押体験をさせてくれます。
使用する粘土はオガクズが主成分とかで、凄く軽くて手触りもフワフワでくっつかないので、手も汚れません(^_^)v
私が作って来たのは、創建期の『獣身文鬼瓦』、平城宮でも使用されていた図柄です。
一つ300円で体験できるので、五つ全部作るという大人買い(大人作り?)される方もいるのだとか。
私も機会があったら、次は『南都七大寺式』を作りに行こうかな~(~_~)
技官の説明を聞く市民の方々13、14日の両日、現在解体修理の真っ最中、橿原市今井町の『称念寺』にて現場見学会が行なわれています。

『称念寺』は浄土真宗本願寺派の寺院です。
建築様式などから、江戸時代前期の天文年間の建立と考えられていますが、今のところは決定的な建立の年は分かっていないのだそうです。

御坊さんの大屋根が間近で見られます。江戸時代の後期、天保年間に大規模な修理が行なわれた事が、文書や銘文などでわかるとの事です。
その後、明治10年に天皇の行幸があり、この時に本堂の南側に『客殿』や『庫裏』が建て増しされたようです。

今回の修理工事で素屋根をかけるに当たって、この『客殿』や『対面所』、『鐘楼』などを先に解体したという事でした。
何せ、今井町自体が狭いので、色々たいへんそうです。

微妙にツイストする下り棟さて、本堂の様子なのですが、損傷具合は半端ではないようです。

二番目の画像の中程で、蛇のようにうねっている北側の下り棟の下では、既に梁が折れて天井を突き破っているのだとか……

そしてこちらの二枚の画像、南側の下り棟は、何となくねじれています。
軒の落ち方も一目瞭然……いつ軒瓦が落ちても不思議でないくらいに見えます。
瓦の損傷も著しく、新たな物がどれ程必要になるのかの調査も、この後に必要となってきます。

これぞと落ちそうな軒先……(*_*;真宗系の御坊さんといえば、何れの本堂も、圧倒するばかりの大きな屋根を持っています。
こちらの大屋根の勾配は45度もあり、ベテランの職人さんでも恐れをなすそうです。
平瓦の重なりを見ても半分以上を重ねているそうで、瓦の下は厚く土で裏葺きもされ、軒下の部分も土で覆うような加工がされているので、かなりの重量が全体にかかっている事になります。

壁面を見ますと、本堂の背面は漆喰壁ですが、正面や脇は吹き抜けの縁になっているので、強度的にも弱い方に向かって歪んでしまい、大屋根の内の小屋梁が持ち堪えられなくなっているようです。

こちらは微妙に傾く柱……建物全体は、柱が南に向かって傾いています。
やや分かりにくい画像ですが、足場の単管が水平垂直に組まれているので、四角い柱が左に向かって傾いているのが良く分かるかと思います。

工事の事前に堂内に入った技官の方が、損傷具合も凄かったけれど、平衡感覚が分からなくなって怖かったと言っておられました……(~_~;)

路地に張り出す二階部分……(・_・;)それにしても繰り返しますが、敷地が狭いので作業が難しいという事です。
素屋根の裏側出口から出て正面に回ろうと見れば、このように二階部分が一部、路地に張り出していました。

これより屋根瓦を下ろす作業に入って行くそうですが、その瓦や解体した資材を置く場所を確保するのも一苦労だとの話でした。
全体を解体して保存のための修復が完了するのは、平成31年度の予定だそうです。

調査区遠景 新聞やニュースでも報道されていた、長岡京市の現地説明会に土曜日、行って来ました。

場所としては長岡京左京の六条東一坊の南東隅とでも申しますか、六条大路と東一坊大路の交差点の一部が検出されています。
この画像は調査区の南東隅から写したもので、一番目立っている河道は、長岡京時代よりも前のものです。

 
遺構全図 こちらの遺構図画が長岡京時代の遺構で、トーンがかかっている所が溝になっています。

左側の空白地帯が、実は東一坊大路の路面でして、ここを一面掘り下げたところ、上の画像のような古墳時代の川が出て来ました。
同じ時期の遺構として、土器棺墓と木棺墓が一基ずつ、掘っ立て柱建物が二件見つかっています。

真ん中より左寄りを南北に貫いているのは東一坊大路の西側溝で、下の方で直角に接している溝は、六条大路の北側溝ですが、この部分では東一坊大路を貫いていません。

東一坊大路西側溝と十三坪 こちらが西側溝の様子。
手前の方で出土しているのは、牛の骨と木材です。
この手前の方には、礎石らしき石が数点転がっていまして、この場所に橋がかかっていた事が想像できます。
牛の骨の他には、木簡や銅銭も見つかっていて、何かの祭祀が行われた可能性も考えられます。
この時代以前も以降も、辻や水際での祭りは続いていますので、平安時代を目の前にしたこの頃にも、このような場所での何らかの祭りが行われたとしても、ほぼ不思議はありません。

出土遺物の一部 ところで左京六条一坊十三坪の一部の調査もされている事になりますが、ここでは溝以外に、明確な遺構はほとんど分かっていません。
東と南が大路に面しているので、この部分に築地屏があっても良さそうなのですが、それらしき痕跡も土塀の土くれや瓦などの遺物も見つかっていないようです。
溝に沿った柵列なども見られないので、住宅地としては未完成だったのか、何か特別の施設だったのかと思われます。

漆紗冠の出土状態ニュースで取り上げられていた四点の漆紗冠は、宅地部内の溝から見つかっています。
この場所からは漆皮箱や石帯の部品なども出土しているので、何れも上級者の持ち物として、上級官人の住まいかとも考えられるのですが、場所が六条という場所なので疑問も残ります。
そこで考えられるのが、このような漆を使う製品を作っていた工房の存在です。
その証拠のように、漆の付着した須恵器や紙などが多数出土しています。
右京のこの近くでは西市の跡が見つかっているそうなので、ここも東市のすぐ近くだったと考えられ、工房としては材料調達に便利だったのかもしれません。

 

Twitterなるものを始めてから、こちらの更新が殆ど停滞しております。
本来の執筆中の戯言、殆どあちらでやっておりますのでσ(^◇^;)

ところでキーボードを打っておりますと、横で指を狙っているヤツがいて、恐々とした状況です。
いかにしてキーボード上に上ってやろうかと虎視眈々。
今はディスプレーに現れる文字をキョトキョトと見回しております。

ともあれ閑話休題、ここのタイトルを変えた方が良いかなと、何となく検討中。
何せこのところ、ネット活動そのものが停滞気味なので。

そもそもこのブログを作った切っ掛けは作品発表のためだったのですが、ついぞ忘れていたと言うか、故意に忘れていたと言うか。
文章自体は取っ払っているのですが、カテゴリーに『行間日記』が残っておりまして、何となく名残があるのが我ながら潔くないですね。
ちなみにその時の話自体は、とうの昔に完成しております。

まぁ、ブログのタイトルは変えないといけませね。
『うめぞー、無節操に見て歩き』とか、『うめぞー、暇に任せて徘徊中』とか(-_-;)
いえいえ、無節操は事実ですが、決して暇ではありません。

それよりも忘れているのは、今年の『四天王寺聖霊会』の続きぢゃぁありませんか。
写真はシコタマあるんだが、内容、覚えてるかなぁ……
右方童舞『胡蝶』右方童舞『胡蝶』本来、成人が舞う曲でも童舞バージョンがあるようですが、元々、子供が舞う曲として番(つがい)舞になっているのが、『伽陵頻(かりょうびん』と『胡蝶(こちょう)』です。
左方舞の伽陵頻林邑(りんゆう)八楽の一曲として、現在のベトナム辺りから伝わったとされます。
それに対して右方の胡蝶は、延喜六(906)年に日本で作曲されたそうです。
どちらも大きな羽を背中に背負っているため、とても可愛らしく見えますし、女の子が舞えば更に可憐です。
今年はあまり風がなかったので大丈夫ですが、風の強い年はチョッと大変そうです。
二曲セットで舞楽法要でも行われる機会が多いので、案外、見た事のある方もおられるのではと思います。

左方舞『春庭花』変わって成人による平舞
これは『春庭花(しゅんでいか)』、文字通り春の花咲く庭を愛でる曲です。
解説によれば、唐の玄宗皇帝の時、春先まで冷え込んで花の開花が遅れていたので、楼閣の上で鞨鼓(かっこ)を打ち鳴らしたところ、一斉に花が咲きそろったとか……さて、真偽のほどは。
昨年は藤がこんな咲き方で、今年は桜がこれに近い咲き方でしたが(-_-;)
今年は一臈だけが男性で、二臈以下は美女の舞人でした。

ところで昨年の『舞楽始式』の時には、舞の最後で四人の舞人が本殿に向かって拝礼して終わったのですが、この舞台で舞われる時には、この部分が省かれているようです。
この辺、神事と演奏会の違いなのでしょうか?(・・?

右方走舞『貴徳』右方舞は走舞の『貴徳(きとく)』です。
この舞も『春日若宮おん祭』では必ず舞われる曲なので、南都楽所では頻度が高い方かもしれません。
かつては競馬と同様、流鏑馬も左右の勝負形式で行われたため、右方が勝てば『貴徳』、左方が勝てば『散手(さんじゅ)』が先に舞われていたそうです。
ちなみに現在のおん祭では、流鏑馬は稚児が行うので勝負形式ではありません。

今年の貴徳侯、途中で冑の紐が緩んでしまったようで、後半に少しばかり舞を中断して直すというトラブルもありましたが、切れ良く勇壮に舞ってくれました。
いつも思うのですが、南都楽所の貴徳侯は写真写りが良い?( ・◇・)?(・◇・ )?
振鉾一節(左方)春日大社に所属する『南都楽所』では、毎年恒例で5月5日と11月3日に萬葉植物園の池の上の舞台で『管絃・舞楽演奏会』を行っています。
この演奏会は神事からは切り離されているため、割合に自由に出来るとの事で、女性や新人の参加もあるし、普段あまり行われないような曲や舞が披露される事もあります。

振鉾二節(右方)
今年の演目は割合にスタンダードと申しますか、子供の日と春に相応しい曲目になっていました。

迦陵頻(左方童舞)管絃は春にちなんで
双調音取(そうじょうのねとり)
陵王(双調)。
舞楽は
振鉾(えんぶ)
迦陵頻(かりょうびん)
胡蝶(こちょう)と、ここまでは毎年の恒例、
加えて
春庭歌(しゅんでいか)
貴徳(きとく)
最後に退出音声として
長慶子(ちょうげいし)が演奏されます。

迦陵頻(左方童舞)管絃に関しては全くの勉強不足……(-_-;)
楽頭さんの解説に寄れば、雅楽には六つの音調がありまして、演奏の始めにチューニングの意味を兼ねてそれぞれの調子の音取を演奏するのだそうです。
春の四月(旧暦)は双調が割り振られているので、本日は双調音取より始めさせて頂きますという事でした。

舞楽に移りまして、振鉾は時間の関係か第二節まで、そして子供の日という事で、左方の童舞(わらべまい)迦陵頻、右方の童舞の胡蝶が行われました。

それでは記事が長くなるし、そろそろ出かける時間となりましたので、続きはまた後ほど……(ーー;)くどい!



退出する宮司以下の神職五月五日は現在では子供の日ですが、かつては五節句の一つ『端午節句』、別名『菖蒲の節句』とも呼ばれました。
今でもお風呂に菖蒲の葉を入れると良いなどといわれますが、奈良時代より以前には、この日に『薬狩り』を行った事が見えています。
旧暦の五月は鹿の袋角が見事に延びる頃で、この角を薬とするために男性は狩を行い、女性は薬草を摘んだとされています。
その薬草で薬玉(五月の玉とも)を造る風習は、もう少し後まで残ったようです。
そして平安時代には、この日の参内には、菖蒲の葉を冠に着ける事を命じていたと記録にも残っています。

奉納舞楽『蘭陵王』今でも大きな神社などでは『菖蒲祭』を行っています。
『春日大社』でも境内に魔除けになるとされる菖蒲と蓬を飾り、神事を行います。
この神事は一応、非公開なのですが、幣殿越しに様子を窺うことが出来ます。

神事の流れは特に変わった事をする訳ではなさそうですが、献饌の儀に平行して神前で立花を行い、共に奉納をしていました。

その後に奉納舞楽があるのですが、どうやらこれを楽しみにしている方が多いようで、神事開始の10時には、かなりの人が幣殿の前に集まっていました。
そこから約1時間、本日の奉納舞楽は左方走舞の『蘭陵王』でした。
まあ、この舞に関しては特に解説も不要かなσ(^◇^;)
歌方も神職さんが勤めます。そういう訳で前項の続き

林檎の庭に引き続き、若宮社でも奉納が行われますが、こちらでは『和舞(やまとまい)』のみとなります。
曲目は、『神主舞前歌」
『神主舞二段 眞榊曲』
『諸司舞三段 眞榊曲』
『諸司舞四段 宮人曲』
『槲酒歌』となっていました。

神主舞二段歌方も舞人も全員がメンバー交代します。
歌方の中心となるコンダクターの役割は『本拍子』といい、笏拍子を打ちながら歌い出しを勤めます。
この声が良く通る方ですと、歌も案外聞きやすいのですが、籠もり気味の声ですとチョッと聞きにくい事もあります。
『和舞』の場合は歌に篳篥、神楽笛、和琴が加わります。

諸司舞四段 宮人曲琴は画像の通り、両側から琴持役の人が支えます。
最初の『音取(ねとり)』を終えて『進歌(すすみうた)』を歌いだしますと、舞人よりも先に歌方の人たちが登場しますが、この時は既に楽を演奏しているので、弾琴も琴持も息を合わせるのが大変そうです。
おまけに和琴の琴柱(ことじ)は、殆ど加工していない枝の叉を使っているそうなので、チョッとした加減ですぐに外れたり倒れたりしてしまうのだそうで。


槲酒歌舞人が動く時に歌われる歌は、他にも『交替歌』や『立歌』があります。
『交替歌』は文字通り、神主舞が終わって舞人が下がり、次の諸司舞のために出てくる時に歌われます。
『立歌』は諸司舞が終わり、『槲酒歌』に移るために舞人が一旦四人共に下がる時に歌われます。

これらの歌の歌詞は、いずれも『続日本紀』に出てきたり、『神楽歌』として歌われていたりするものだそうですが、どうしてそれが使われているのかは良く分かりません。
以前に書いた記事に歌詞を紹介してあったのですが、サーバーがなくなったためブログも消失してしまいました(*_*;
いずれまた、調べてあげたいと思っております。
幣殿を出る舞人春日大社で『和舞(やまとまい)』が行われるのは、本来は三月十三日の『春日祭』と、十二月十六日の『春日若宮おん祭』のお旅所祭でのみでした。
しかし昭和五十二年に昭和天皇と皇后が御参りに来られた時に、これらの舞の奉納を行い、それを記念して平成四年より、昭和の日(四月二十九日)にも行うようになりました。

諸司舞第二段・梅枝曲『和舞』には二人舞の『神主舞』が四曲、四人舞の『諸司舞』が八曲の計十二曲がありますが。
そして、近年に復曲された『神主舞前歌』と、『槲酒(かしわざけ)歌』が加わりました。
林檎の庭での奉納は、神主舞一曲と諸司舞二曲となっています。

『槲酒歌』二臈『進歌(すすみうた)』で楽人二人の舞人が登場し、一臈と二臈が交互に『神主舞前歌』を歌った後、今回は神主舞の『初段・梅枝曲』が舞われました。
今年の諸司舞の曲目は、『初段・静歌曲』と『二段・梅枝曲』です。
そして最後に『槲酒歌』
確か二年前から行われていたと思いますが、それぞれの舞人が槲(かしわ)の葉を杯代わりに直会の御酒を頂き、四拍手を二度繰り返した後に本殿に一礼して退出します。

『東遊』の舞人、後姿『和舞』が退出すると、楽人のメンバーも替わって『東遊(あずまあそび)』が始まります。
春日での東遊は、子供が奉仕するのが特徴です。

『春日権現験記』の二巻『寛治御幸事(かんじみゆきのこと)』には、白河院の春日大社行幸に際し、舞装束の楽人と共に束帯姿の公卿が、東遊を舞うというシーンが描かれています。
ここに見える楽人らは、当然ながら成人男性ですので、平安時代にはまだ、少年による舞は行われていなかった事になります。

『求子』を舞う子供たちこちらでの奉納は、もっぱら『駿河歌』と『求子(もとめご)』です。
駿河歌一段の最後のフレーズで、四人の舞人が登場し、二段で舞が行われます。
その後に一旦退出し、『加太於呂志音取(かたおろしのねとり)』という曲の間に、右袖を脱いで再登場します。
そして『求子』が舞われます。

四人とも小学生だそうで、舞を覚えるのもたいへんだし、袖も大きく裾を引きずる装束で身動きをするのも一苦労のように見えます。
緊張のためか、途中で舞の手が止まってしまったり遅れてしまったりと、これはこれで興味深く味のある舞になってくれます。

本殿前での奉納が終わりますと、次は『若宮社』での奉納となりますが、『東遊』は行われません。
では、項を替えて後半を……って、また分けるんか?(--〆)?


 
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

カレンダー
06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

お天気情報

-天気予報コム-

最新コメント
[02/06 賀茂史女]
[02/05 うめぞー]
[02/02 賀茂史女]
[01/30 うめぞー]
[01/30 マム]

ブログ内検索

メールフォームです
今日の参考に

Copyright ©  -- うめぞー、思案中 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by 押し花とアイコン / Powered by [PR]
 / 忍者ブログ