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4月に申し込んだ、イコマ製菓のレインボーラムネが届きました。
一年に何度か販売日があって、通販の場合は規定日内に葉書で申し込むという販売方法を取っています。
年々、人気が高まっているようで、申し込みも抽選という状況が続いているそうです。
マキシマムに12袋購入したのですが、届く以前に7人から譲ってと打診されたというレア物です。
私の取り分を一袋にして、残りの4袋も既に引き取り手が決まっているという人気商品、よく当選したなぁとチョッと感激しております。
ナタに「届いたぞ~!」と見せてやったのですが、一度匂いを嗅いだだけで興味を示さず……まぁ、当たり前ですねσ(^◇^;)
次の申し込みは8月だそうで、覚えていたらまた葉書を出してみましょう。
でも、益々、狭き門なのかな……
聴講証には『正倉院から見た東大寺』とありまして、今回は正倉院の成立に関する話なのかなと思っておりましたら、実は正倉院文書……こりゃ、先生、絶対にスイッチ入りまくるわ( ̄▽ ̄)。o0○と、予想通りでした。
相変わらず不勉強の私は、『中山寺』も『上山寺』も全く存在を知りませんで、中と上があるのなら、下もあるんじゃないのなどと戯けながら聞いていてはいけません、とにかく文書はややこしくて、説明について行くだけでやっとです。
ともあれ『中山寺』は『続日本紀』に塔と歩廊が全焼したという記事以外は、正倉院文書にしか名前が出てきませんし、『上山寺』は正倉院文書にのみ出てきますが、何れも東大寺の境内にあった寺の事だと考えられます。
『中山寺』の初出として、天平勝宝元年の十一月、中宮大輔の安宿王が造東大寺司の写経所に、中山寺に経典を貸し出してくれという依頼をした文書に見えます。
これによって『中山寺』は中宮(藤原宮子)に関係する寺だという事が分かります。
そして中宮(太皇太后)の崩御の後の写経事業を造東大寺司が、孝謙女帝や皇太后(藤原光明子)の命も受けて行っている事からも、『中山寺』と『東大寺』は切り離せない存在だと分かります。
ことに『山堂』に関しては、太上天皇(孝謙女帝)の意見を伺わねばならないと言っている事から、ここも皇家に関わりが深いと考えられ、『上山寺』にあった堂ではないかと推測できます。
さて、この頃の時勢はと申しますと、太上天皇と大師(藤原仲麻呂)の関係が決裂寸前です。
そして約一月後、太上天皇と淳仁天皇がついに決裂、双方ともなりふり構わぬ露骨な勢力固めに出てきます。
太政官を死守せんとする大師に対し、人事権を持つ太上天皇は造東大寺司を固めにかかります。
天平宝字六年閏十二月より以前、『造上山寺菩薩所』が設置され、『上山寺』の復興が始まったようです。
そして翌年の五月には、ここで大般若経転読をするので、経典を貸して欲しいと道鏡禅師が依頼をし、かの有名な『五月一日経(坤宮官一切経)』から貸し出されます。
更に十二月には、『上山寺悔過所』の名前が文書に見えますので、『上山寺』は女帝派の尽力で一気に復興を遂げているようです。
そしてこの法要のための予算が『上寺』(東大寺)から出ている事も分かります。
時代が少し下がって宝亀四年正月、『下院』から『中山寺』に吉祥悔過法要のために雑物を貸しているとも見られます。
こうしてみて行きますと、『上山寺』『中山寺』『下院』というセットが出来ます。
多分この三つの寺は、階段状に三段に連なって建てられていた可能性があります。
かつて吉川真司先生が、東大寺の丸山地区西斜面の平坦地で、多くの瓦などの遺物を採集し、ここに何らかの建物があった可能性を示唆し、『丸山西遺跡』と名付けています。
現在この場所には三ヶ所の人為的に造られたと見える平坦地が存在していまして、栄原先生はここを『上山寺』以下の三つの寺になる可能性を考えておられるそうです。
とは申せ、まだこの辺りの調査は行われておらず、決定的な事は分からないので、早々に発掘調査を懇願しているとの事。
ここに『上山寺』とでも墨書のある須恵器なりと出てくれば……期待しましょうσ(^◇^;)
大英博物館に納められている、W・ゴーランド(ガウランドと番組では言っておりましたが、イギリス式の発音だとこっちなのかな?)氏のコレクションを日英が合同で調査をする事になって、新たな成果が続々と出ていると言うのが大まかな内容ですか。
画面で見る限り、古墳後期(6世紀以降)の遺物が多いようですが、まあ、ゴーランド氏が入る事が出来た石室は、まず開口していた横穴式石室でしょうから、中期以前にはさかのぼらないでしょうけどね。
しかし、これがもう少し前のトレジャーハンターと考古学者の違いも分からないような御仁が集めたコレクションでしたら、価値は半分以下になっていたと思います。
詳細な測量図面と記録写真、これが遺物とセットになっているからこそ、このコレクションは学術的にも大きな価値があるのでしょう。
それを考えると、このイギリス紳士はとても偉大な方だと思います。
……にしても、戯言(ーー;)
見瀬丸山古墳の石室、後円部の中央に来ていないのが不自然なんて強調すると、あの墳丘は前時代に建造途中で放って置かれて云々……言い出す御仁が湧いて出まっせ(^。^)
んで、摂津の高槻市の方にでっかい御墓造った親父殿と、大和の橿原市(明日香村じゃないのよ)にやはり、どでかい御墓造った息子は、どっちもそういう墳墓のリサイクルをやったんだよって……(^_^)v
別に私、この説、支持してませんけどσ(^◇^;)
本日の画像、橿原市つながりで、畝傍山に立ち上る霧……
そういえば一瀬さん、今、橘大学にいるんだっけ?猪熊先生の後釜なの??
本日、明け方まで雷雨で、明るくなってからも少々雨が残っておりました。
晴れたなら、大和高田の『奥田蓮取り』を見に行こうと思っていたのですが、二の足を踏んでしまいまして、午後から奈良に出て、東大寺で森本長老様のお話などを聞いておりました。
ついでに奈良博にも寄りましたところ、文化庁から還ってきた我らが弥勒さんが鎮座されておられました。
この後、修復をして、江戸時代の修復箇所なども当初の状況に戻せる部分は戻すとか聞いております。
さて、奈良町は先月いっぱいで『にゃらまちねこ祭り』終わりまして、会場となっていたショップも多少は静かになったかなと、『カフェ・チャポロ』に久々に行ってみました。
案の定、先月は御客さんが一杯で、とても忙しかったそうですが、今日はここ何日かの雨で人出もそこそこと言うところのようです。
こちらのお店には社長のクロマティ氏がおられ、時々、店内を視察に来られます。
猫だけあって、かなり素っ気のない御仁です(-_-)
帰りに『寧估庵』を覗いて見たのですが、相変わらず満員御礼の様子でした。
それにしても、ここ最近、看板猫や看板犬のいるお店が結構増えています。
それを売りにしている飲食店もありまして、動物好きの身としてはかなり嬉しい次第です。
何せ少し前には、嫌いな人の方に発言権があるみたいに、以前来た時にはいた猫や犬が、御客様からの苦情でお店に出せなくなりましたという状況も時々ありましたから。
「この店には猫、犬がいます」を明記してくれていれば、苦手な人はあえて来店せず、好きな人が自ずとやって来ますから、変な遠慮やしこりが残らなくてすみますしね。
現在、奈良町には猫カフェは勿論、犬を連れての来店も大丈夫というお店もあります。
中南和にも、こういうお店が増えてくれないかなぁ……とは思っているのですが、今のところ思い当たりませんなぁ(゜.゜)
橿原の今井町や明日香も、がんばってるんですけどね。
更に数年の後、南山背の恭仁に職場が移りましたので、父親の残した加茂の別業に妻子と共に移っております。
ただ今の話の進行上では、近江国甲賀郡紫香楽村に転勤になりまして、こちらにも家を建てて単身赴任(一時は、二人の息子がおりましたが)しております。
そういう訳でこの御仁、平城の左京北一条第の他にも、難波別業、加茂別業を所有して、更に安普請などと言いながらも紫香楽にも家があるという、とんでもない事になっております。
一応は四位の諸王ですから、家政機関なんぞが持てるようでして、宅司なんぞも任命できて、資人もそれなりにいて、所属する人数も決まっている訳です。
それ以外にも家人やら奴婢やらもいると思われますが、こちらの使用人らは主の所有扱いになるので、上限はあるかもしれませんが、多少の融通は利くかと思われます。
多分、一族の家同士で、こういう人達の移動もあったでしょう。
まぁ、下の方の使用人は良いにしても、問題となるのは家を預かるような上級の使用人です。
宅司は本宅にいるとすると、恭仁京に遷都した天平十三年以降は、加茂別業(実は京外にある設定です)が本宅になるということなのでしょうかね(゜.゜)
平城の北一条第は別宅扱いで、ここの管理は誰がするんでしょう?
家知事とか任命しようかしら(゜_゜>)
でも、加茂別業は御内室の実家(倭史氏)が管理している事になってるのから、家知事はこっちに置こうかなぁ(・・?
次に難波が都になった時にはどうしましょう……それよりも、こちらの家には誰がいるんだ、この時?(゚_。)?(。_゚)?
更には単身赴任先の紫香楽ではどうなるんでしょ(゜レ゜)
現代小市民の感覚では、全然、分かりませんわσ(^◇^;)
本日の意味無し画像は、興福寺南円堂で返り咲きに下がっていた藤の花です。
ちなみに右近の橘は、2センチくらいの青い実が結構ついています。
秋には数センチのオレンジ色の実になるはず(^_^)v
ついでのボヤキ……
土曜日にNHKの『サラリーマンNEO』の特集番組でやっていた『超大河ドラマ 戦国サラリーマン・ヒデヨシ』とかいうコント、これもしかして、ここ何年かの大河ドラマ制作スタッフへの、痛烈なる逆説のオマージュだろか…・・・だとしたら、ここの制作陣、滅茶苦茶強気だなぁ( ̄▽ ̄)。o0○いや、天晴れ
こちらの法要は、日本人が古くから利用して来た竹に感謝して、その霊を慰めるという趣旨だそうです。
別名、『癌封じ夏祭』とも言うそうで、一月の笹酒祭りに同様、境内では笹酒の授与も行われていました。
御酒を授与してくれる女性達は、竹の絵柄の浴衣で、帯の後には大文字の団扇を挿しています。
13時から虚無僧に先導された衆僧が入場して、その後に法要だとは聞いていたので、御僧侶らが本堂に入ったところで、さっさとムジークフェストの場所で休憩しておりました。
実は本堂内のみではなく、横の方にある竹林の中でも御供養が行われるそうで、そちらは全然見ておりません・゚・(ノД`;)・゚・
恐らく、そちらの供養が終わった後、『嘶堂(いななきどう)』の後方でも別の供養が行われたのだと思います……御僧侶と虚無僧がそちらに向かい、しばらくしたら戻ってこられましたので(^_^;)
その後、そろそろ帰ろうと思った頃、『護摩堂』の前に人垣が出来ていたので覗いたところ、『南京玉簾』が始まっていました。
滋賀県から来られているそうで、滋賀県の名所などのネタに加えまして、こちらの画像は新作?『金環日食』だとか。
これは日食の終わる部分ですねσ(^◇^;)
しかしバスの時間が迫っておりまして、途中で出て来てしまいました。
こういう古典娯楽芸能も、滅多に見る機会がないので、しっかり最後まで見るべきだったかなぁ……と、バスに揺られながらチョッと反省(-_-;)
そのような訳で、今年の夏越(なごし)の日は雨……・゚・(ノД`;)・゚・
実は朝には晴れておりました。
2時過ぎくらいにポツリと来たかなと思っていたら、3時前には本降り……
本来ならば、二の鳥居を入った所にある『祓戸神社』の前で行うはずの神事は、もう少し上にある着到殿で行われました。
場所も少々狭く、人垣の後ろにおりましたので詳細は良く分かりませんが……小さく切った和紙(無知なので名前が分かりません(゜.゜))を左、右、左と肩に振りかけて祓うのは、他の神社でやった事がありますσ(^◇^;)
それから、大抵の神社でやっている、神職さんが綿や麻の布を引き裂くのは、どういう意味なんだろう……相変わらず、神事には無知で済みません(-_-;)
多分、この後、穢れを祓った人形や車形などを川に流すはずですが、そちらは非公開なのかな?
この頃には雨は土砂降りで、折りたたみの傘ではチョッとつらい状況でしたが、これこそ春日の神様による水に流す御祓い?(゚_。)?(。_゚)?
書くネタはいくらでもあるのですが、その時に書かないので、結局どうでも良くなって上げない、この繰り返しですね……これじゃ、備忘録になってやしませんわ。
そういう訳で、この前の日曜日の講演会でも。
東大寺総合文化センターで主催している『東大寺学講座』の第二期、第三講が『東大寺を掘る』というタイトルで、奈良文化財研究所の前所長、田辺征夫氏が講師です。
申し込む前から疑問だったのですが……このタイトルなら、橿考研のテリトリーで、それこそ菅谷所長辺りが講師するんとちゃうんか?
大体、奈文研、この何十年か殆ど東大寺の発掘なんてやってないやん?
まあ、都合が合わないとか、色々事情があるんでしょう?(゚_。)?(。_゚)?
『続日本紀』には、神亀五年十一月に亡くなった皇太子のために山房を造って九人の僧侶を住まわせたと見えますが、山房の名前は具体的に出てきません。
この山房だろうと推定される『金鍾寺』とか『金鍾山房』、更には『福寿寺』という名前は、正倉院文書などに見えまして、国分寺の別名の『金光明寺』にいたっては件の『東大寺要録』に、『東大寺』の名前の初出はやはり正倉院文書の天平十九年の写経所関係の文書に見えるそうです。
……これだけ聞いていても、既に何が何やら(?_?)
いずれにしても、文書関係の研究はかなり議論が尽くされていて、この後に期待すべきは、埋蔵文化財的な発見だろうというのが、田辺先生の御言葉でした。
ところが、東大寺の境内を発掘できるかと申しますと、大規模にはまず無理です。
今までも防災のためのスプリンクラーの設置などの事前調査で、ごく限られた範囲に細長くトレンチを入れる程度、これの地道な積み重ねです。
これらの調査によって『天地院』跡が八世紀初頭(『要録』では神亀五年の建立)にまでさかのぼれる事も分かり、ここもまた前身寺院の一つかと考えられるようになっています。
確かにこの辺りに行くと、奈良時代くらいの須恵器の破片が結構、表採出来ますしねぇ(゜_゜)
あと有名なところでは『丸山西遺跡』の存在でしょうか。
と言っても、ここも表採資料(創建期の瓦もあります)ばかりで、具体的な調査はしていませんし……
いずれにしても、まだまだ途上というところです。
そういえば、少し前にも奈良市の調査で、鎌倉復興期の僧房の一部と思われる遺構も出ていましたっけ。
現在、東大寺では『東塔』の再建を検討しているそうで、まだ地中のレーダー探査の段階だそうですが、更に具体化して発掘調査となれば、何らかの発見はある事かと期待されます。
……となると、あそこの銀杏がいっぱい生る木は大丈夫かなぁ(・.・;)
以上、講演会の内容とは結構、ズレがある事を書き散らしてますσ(^◇^;)
奈良市内のホールや公共施設のみではなく、寺社やカフェなどで、クラシックに限らずポピュラー音楽の生演奏を楽しんで下さいという、考えてみればかなり贅沢な催しです。
こちらの画像は、17日の夕方、近鉄奈良駅の行基広場でのウェルカム演奏「ピアノとパーカッションが織りなすラテンワールド」
『中村真美&コピーヌとコパン』という大阪音楽大学の先生、学生、OBによるアンサンブルだそうです。
『尺八とクラリネット~和と洋の出会い』というタイトルがついていましたが、尺八(虚無僧の方々が、竹供養に参加はされていましたが)の演奏はありませんでした?(゚_。)?(。_゚)?
私が聞いたのはこれくらいでして、実際は11日間、あちらこちらで行われた音楽会を目指して行けば、ここぞと音楽に浸れたのではないかと思います。
寺院や神社でのコンサートにしても、カフェでのライブにしても、ロケーションはとっても良いと思われますから。
しかし、この催し、主催は県なのですが、会場はすべて奈良市内です。
県内の各所で一月くらい前から、冊子になった案内やポスターも見かけたし、HPも作られていたのですが、市外の者には何となくPR不足の感が否めませんでした。
事前申し込みの必要なコンサートなど、一体いつから申し込みを開始していたのか、何所に申し込み要領が表示されていたのか、県の広報にも載っていたのかなぁ……良く覚えていません。
登り大路には、かなり早い内から多くの立て看板などが設置され、興味のある市民は注目していたと思いますが……
癌封じの夏祭で、一月二十三日の『光仁会』の笹酒祭の夏バージョンというところでしょうか。
一月ほど人は多くなかったのですが、相変わらず御祈祷をお願いする人は、御堂に大勢おられました。
やはり、身内や知人に癌を患っている方は少なくないのだろうなと、人事ではなく思う次第です。
そちらの様子は、またカテゴリーを改めましてm(__)m
その後、久々に奈良町の猫カフェ『寧估庵』に行きまして、夕方まで猫と遊んでおりました。
今月一杯、奈良町では『にゃらまち ねこ祭り』が行われていて、猫カフェも新聞やテレビで紹介されて、予約が目一杯というところ。
離乳期以前から、兄弟のミルクを取り上げるような意地汚い奴だったという事が、今更ながらに判明したのでした……(゜_゜)
今では自分の皿を平らげると、シマコの皿に鼻っ面を突っ込んで、前足で押しのけて食べるようなド根性(?)を示しております。
このままでは、せっかくのオリエンタルのスリム体系が、ツチノコと化すのは時間の問題かと関係者各位(?)、ぬるい期待をしている様子です。
ところで、ナタのような毛色を最近では「茶トラ」と称する人が多いようですが、私は古典的に「赤トラ」と呼ぶ方が好きです。
別に「オレンジキャット」でも「マーマレードキャット」でも良いのですが。
横文字で呼ぶと、つい、ウィンストン・チャーチルの愛猫の『ジョック』を思い出すのですが、あの子は飼い主のイメージからして、筋肉質のブリティッシュ・ショートヘア系の雑種かな?