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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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2919704e.jpegただ今のところ、白壁王は解せないような噂を聞いて、もう少し詳しい状況を知ろうと、周囲の情報通にコンタクトを取ろうと考えております。
情報通というと異母兄の湯原王か南家の兄弟かというところなのですが、一番聞きやすいのは間違いなく、内舎人時代からコンビ(?)を組んでいる藤原仲麻呂という事になります。
何せこの御仁、悪友相手だと矢鱈に口が軽くなる?
とは申せ、常々下心というか計算はあるのでしょうが。

決して暇をかこっている訳ではない参議民部卿、どういう訳か、白壁王が第宅を訪ねていると暇そうにしている事が多い……実に意味のない設定ですε-( ̄ヘ ̄)┌

そしてこの度も訪ねて行くと……ここでキーボードを打つ手が止まってしまいました。
さて、仲麻呂は何をしていたから、白壁王には暇そうに見えた?(゚_。)?(。_゚)?

最初にふと思いついたのが、若い侍女に爪の手入れをさせていた……この御仁のキャラクターからして、全くもって面白くも何ともないシーンですわね。
次に思いついたのが、子沢山な男なので子供の相手に何故か熱くなっていた……ところが、ここには単身赴任だと作者が気づいてしまいました。
更に思いついたのが極めて平凡に、家司相手にヘボ将棋ならぬ碁を打っていた……多分、負けていたんだろううなぁ(゜.゜)

どうも、どれもこれも発想が貧困でいけません……
池にはまった飼い犬を洗っていたとか、庭で草むしりをしていて見つけた蛇を振り回していたとか、厩から逃げた猿(この時代も飼っていたのだろうか?)を家人と一緒に追いかけていたとか、ほぼ意味不明の発想は幾つか浮かぶんですが( ̄▽ ̄)。o0○
一体、この御仁に何をさせたいんだ、私ゃ?(・・?

ちなみに白壁王は干されている頃、しょっちゅう、宅司(いえつかさ)と一緒に鷹の爪の手入れをしていて、息子から暇を持て余しているようだと思われておりました。
そして息子(長男)は暇があると、写経なんぞしていたり……( -」)φ
ちなみにもう一人の息子(次男)は、四六時中忙しい男で、暇なシーンなんてほぼ出てこない……(・.・;)
 
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巫女の入場 昨日は一日中雨天、特に夜半や明け方には土砂降りという有様でしたから、果たして17日の天気はどうなることやら……
しかし朝起きてみれば日が射しておりました。
雲はかなり低く、また降り出すかもと、折りたたみの傘を持って出かけました。

 行き先は奈良市本子守町、率川神社です。
『率川』と書いて『いさがわ』と読みますが、奈良県民でも、この神社の名前を読めない人は結構います。
 本日は率川神社の例祭『三枝祭』、またの名前を『ゆりまつり』ともいいます。

諸所にモニターが設置されています。 ゆりまつりと言うだけあって、ささゆりの花が多数奉納され、四人の巫女がゆりの花を手に神楽を舞うのがとても有名です。
実は私、このお祭に行ったのは初めてでして、あまり詳しい事が分かっておりませんσ(^◇^;)
 御祭神が媛蹈五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)ですので、ゆりは神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)の妻どいに関係しているのだと思います。
詳しい事は、神社のHPにありますので、そちらを御参照下さい。

柱などで見渡せません…… 率川神社の創建は推古天皇の元(593)年とされ、三枝祭も起源も奈良時代以前にまでさかのぼれるようです。
私の見ていた場所からは殆ど御祭典の様子は見えませんでしたが、境内の狭いのもあって、殆どの人が同様ではないかと思います。
そのような訳で、各所にモニターが用意され、それを見てようやく少しばかり進行が分かるという状況でした。
これはこれで、ありがたい配慮です。

それにしても大多数の人は、巫女さんの神楽を見に来ているようで、これが終了して玉串奉納となると、少しずつ人が減って行きました(^_^;)
かく言う私も、ここで逃げ出してしまいました……


神楽もモニターで良く見えました。 午後からは七媛女(ななおとめ)やゆり姫の行列が華々しく行われるそうで、神社での神事よりもこちらの方が有名なのかもしれません。
ただし私は、別のところに用事があったので、行列は見ておりません(-_-;)

 ところでこのお祭、かなり古い形式を残しているようで、二枚目の画像のモニターで二人の神職が運んでいる御棚(みたな)は、黒木という枝を組み合わせて作られています。
これは春日大社の『春日祭』で、御勅使たちが神前に食事を奉る時に使う棚と同じです。
最後の画像は、ひがしむきアーケードにある南都銀行本店の、歳時記紹介のディスプレーに飾られていた御棚です。

a5324e73.jpeg 『黒木の案(御棚)』とプレートにありますが、案とは机の事です。
上に乗せられた『折櫃』には、『特殊神饌』と呼ばれる神様へのお食事が、土師皿に乗せられて並んでいます。
この櫃の蓋が下に置かれていますが、柏の葉で造られています。

 確か仁徳天皇紀に、大后の磐之姫命が熊野に出かけ、そこで祭祀に使う柏の葉を採って帰ろうとしたのですが、天皇が新たな妃を迎えたと知って、その葉を海に投げ捨てたというエピソードがあったはずです。
柏の葉を杯にして、祭の酒を飲むような事も聞きますし、古い祭には柏の葉もつき物なのでしょうか。
袋角に夏毛の雄鹿ども 随分以前に、平城宮の朱雀門や大極殿の復元建設現場を何度か見に行ったのですが、この時は確か基壇化粧を終えてから、礎石の上に柱を立てて降りました。

 さ~て、甲賀寺の本尊建立現場ですが、モノが五丈を越える鋳造仏なので、基壇化粧なんて御堂を建てる段階で行うんでしょうねぇ……などと、今日もベーシックな事で悩んでいます。

 基壇の上に須弥壇を設け、そこに蓮華座が乗って、更に仏様が座っているという姿なのですが、東大寺の江戸復興の絵図や絵巻を見ると、最初の開眼供養は露座のままで行われています。
もっとも、江戸復興の時には、奈良・鎌倉以来の基壇も須弥壇もあったので、絵図で見る限りはそちらが出来上がっているのですが。

 では東大寺での天平宝字年間の開眼の時は……続日本紀に記事が現れる時、既に金堂が出来ているので、基壇は勿論、須弥壇も整備は終わっていたはずですね。
結局、この辺り、何れも参考にならない……って事?(゚_。)?(。_゚)?
まぁ、常識から考えて、鋳造が終わるまで本尊は土山の中、基壇化粧も須弥壇化粧も無意味ですわね。

 本日、丸一日雨天。
猫相手に悩んでおりましたが、一向に進みません……明日は一日、出かける予定なのに(゜.゜)
雨、やんでくれないかなぁ……(-_-)
日曜日に京都市西京区の方に行ったのですが、そいつのメモ権報告はまた日を改めて……
何やら今日も、矢鱈に眠いです(+_+)

武官の束帯の裾は、割合に短いです……奈良時代くらいにはあまり、文官と武官が明瞭に別れているような状況ではなかったようで、そいつは装束でも同様のようです。
考えてみると、うちの主人公クラスの連中で武官は、若干二名、叔父と甥の関係で、後の連中は割合に文官というか、首から上で御奉公(何に?)の面々ばかりです。
え~と、別に装束や官職の事を言いたい訳ではなくて、忘れているのは、うちのキャラクターらの趣味の類です。

書きながらチョロチョロとつじつま併せのために、読み直したり、昔書いたものを眺めたりをしておりますと、登場人物に奇妙な設定をしている事があって、それを作者がしっかり忘れている場合があったりします。
今回、見事に忘れているのが、白壁王の特技です。
この御仁に何の特技があるかって、実は琴の演奏だったりします。
箏ではありませんで、琴です。
今回の違いは十三弦と六弦ではなく、柄が有るか否かというか、横か縦かというか……まぁ、総じてうちの連中が弾くのは琵琶の類、それも月琴とか阮咸(げんかん)とかいう楽器です。

この琴を武官である百済王(くだらのこにきし)氏の親戚連中(内室の父親だったり祖父だったり)が、見事に弾きこなしてくれるという、奇妙な設定が確かあったはずなんですね。
更には、いつぞに書いた話の中で山部王が、「母親の曾祖母という人は泗沘(さび)の王宮でも一二を争うほどの月琴の名手だった」という類を言っており、その親戚関係で白壁王も若い頃から、この楽器を習っていたらしいんです……って、自分の書いた事なのに、ほぼ忘れておりましたσ(^◇^;)

まぁ、白壁王に無理して弾かせなくても良いのですが、せめてチョクチョク登場する御内室には演奏して頂きましょうかと、差し挟むようなシーンを考えておるのですが……
結局、何もさせずに終わったりして( ̄▽ ̄)。o0○
宮内庁書陵部畝傍管区事務所昨日は矢鱈目鱈に眠くて、満足にメールチェックもしないままで寝てしまいました。
二十三時まで起きていられないくらい……
ここ最近、三日に一度くらい、眠くてたまらない日があるのですが、寝不足という自覚もないので、やはり眠りの質が良くないのでしょう……(゜.゜)

それはともかく、昨日は午前中に宮内庁の畝傍管区事務所まで散歩に行って、三笠宮寛仁親王の弔問記帳に行って来ました。
いつもの事ですが実にさりげなく記帳所がありまして、職員の方も適宜、様子を見に来る程度で、まさに御自由に御記帳下さい状況でした。
それでも、思い出したように人が来るようで、私が行った時にも年配の女性がちょうど出て来るところで、帰る時にも壮年の男性とすれ違いました。

その後、ようやく奈良県立美術館に『藤城清治 影絵展』を見に行って来ました。
四月七日から今月の二十四日までと、かなり長い期間だったのでその内に見に行こうなんて悠長に構えていたところ、ついに差し迫った時期になってしまいました。
お陰で混んでいる事……二十分近い待ち時間が出来ていました(゜_゜>)
でも、行った甲斐はありました、久々に満足(^_^)v、この度もまた四時間も会場におりました。
やっぱり私の世代には、この方の影絵は懐かしいです。
お手上げ……したいのは、こっちだ(ーー;)久々に雄の子猫なんぞが家の中にいるので、こちらとしては生傷が耐えない状況です(*_*;
先週も昨夜も、寝ている時に爪を切ってやったのですが、それでも全力でしがみついて来て、思いっきり蹴っ飛ばしてくれるような有様でして、先端を切った爪がジーンズ越しだろうと突き刺さってくれます……(・_・;)
爪は多少切る事が出来ますが、無理なのは歯の方です。
何せ肉食獣、犬歯の発達は並々ならぬもの。
シマコもいい加減、凶暴子猫だったけど、こいつは蔵人以来かも……
夜行性小型肉食獣とは申せ、猫や犬はやはりコンパニオンアニマルとしては最適なのだと思います。
私の知る限り、やはり肉食獣の方が草食獣よりも物覚えが良いし、言う事も聞いてくれるし、顔の正面に目がついているので表情が分かり易いです。

ところで以前に見た番組で、普通のマンションでカンガルーを飼いたいという家庭に、三日程度、実際に預かってもらうという企画がありまして、参加された御家族の方には頭が下がるというか、無謀ぶりに呆れると言うか……まぁ、二日三日だから大丈夫だったのでしょう。
そもそもカンガルーが成獣になったら、人の身長超えますから、一般家庭で飼える訳ない……あの脚力で家を壊されるのも想像に難くない(ーー;)
もう一つ、甘く見てもらっちゃ困るのは草食獣の排泄癖……こいつらは本来、何所でも構わず排泄する(-_-;)
歩きながらだろうが、食いながらだろうが……嘘だと思ったら奈良公園の鹿を観察して下さい。

ペットこそ人それぞれ、好き好きなのですが、私はやはり猫や犬以外は飼えないだろうなぁ、げっ歯類なんて多分にもれず願い下げ(゜.゜)
俺はナタ今、すご~くベーシックな事が分からなくて悩んでおります。
地上部が15メートルの柱を立てるとしたら、地下部分は何メートルほどとれば良いのでしょう?
この場合は勿論、掘立柱です。
柱よりもかなり大きな堀方で穴を掘って落とし込むのは良いとしまして、その後、どうやって柱を真っ直ぐ立てるんでしょう?
かなり高い足場を組んで、そこに滑車でも設置して引き上げる……
そうすると、滑車を置く高さは最低でも何メートル必要?

マジ、私は空間認識と物理学的な発想が苦手です(-_-;)
……っちゅうか、数学がだめなのねσ(^◇^;)

このような訳で、毘盧舎那仏の体骨柱が建てられなくて困っております。
まぁ、適当に流しますが、近い内に図書館にでも行って調べて来る事と致します。
こういう事ばかりしているから、話が全然進まないのね……ε-( ̄ヘ ̄)┌




時々、気が向くと診断マーカーなんぞで遊んでおります。
#怨霊系男子 http://shindanmaker.com/234536 というのが、あるところで紹介されていたのでやってみました。

 今日うめぞーさんにぴったりの怨霊は『龍となった元斎宮・井上内親王(奈良)』です!怨霊と怖がらず、頼りにしてみてはどうでしょう。

(゜-゜) 確かに頼りになるかも、四六時中、奈良町に会いに行ってますから。
元祖・怨霊系女子ですね。
何故か相性の良い場所……(-_-)羽曳野というと古市古墳群け?と思われましょうが違います。
そういえば古市古墳群百舌鳥古墳群も、ここ最近は全然行っておりません。
そもそも今年になって、このカテゴリー的な墓参には殆ど行っておりませんからねぇ……
実家の墓参りには春先に行っておりますが。
あと、5月3日には恒例の柏原御陵に行ったくらいかな?
神武天皇御陵には、時々行きますが。

それで、ここはどこかと申しますと、羽曳野市通法寺にあります源朝臣義家の墓所です。
確か昨年の五月に行ったきりです。

ところでこの御墓の周囲を回ってみて、何とな~く変な疑問が湧いてきたのですが……
もしかして、この御墓の形、円ではなくて多角形?
裾の部分に二段程度に積んだ石垣があるのですが、これが直線部分と鈍角の角があるように見えて?(゚_。)?(。_゚)?
まさかと思うけど、四角形の角を落として……ってぇと何角形になるんだ……ジョークにもなりませんぞ( -」)φ

『三々九手挟式』という式だそうです。それはともかく、相変わらずここは妙に相性の良い場所だなぁと思えて、暫らくボケ~っとしていたのですが、どういうわけか本日は三々五々人が来る?
午前中に近くの壺井八幡宮で行事があったからかも知れません。
私も何となく気が向いて行って来ました……何にって、こちらの画像を参照。

e929089a.jpeg
神社のHPには百々手式と書いてありましたが、確か違う名前でした……え~と、今回、介添で参加されていた方から『三々九手挟式』という儀式だと教えて頂きました( ̄▽ ̄)。o0○
前後の二組に分かれて的中を競い合うのだそうですが、的がとても小さくて、中てるのがかなり難しいのだそうです。

あ、この境内の楠木の写真撮るの忘れた(・.・;)実は昨夜まで近つ飛鳥博物館のシンポジウムに行く予定だったのですが、高田バイパスを走っている時に気が変わりましたσ(^◇^;)
まぁ、古墳時代の祭祀の話を聞いても、今の状況じゃ頭に入らないと思います、律令祭祀ならばまだしも(゜_゜>)

そのような訳で、せっかく神社まで行きましたので、新しい御守りを買って参りました。
昨年と根付の色が違いまして、個人的には昨年のモスグリーンの方が良かったんですが(^_^;)

叡福寺の聖徳太子御廟です。ところでカテゴリーが墓参ですので、もう一つ寄って来た墓所の画像も。
こちらは大変有名、太子町の叡福寺聖徳太子御廟です。
ここも八角形の円墳の可能性を指摘されていますが、案外、専門家は二段か三段の円墳だろうと言っています。
 
今日もつまらない疑問(-_-;)

寺院に賓客がやって来て住持が歓待するとします。
現在であれば本房とか寺務所とかに、来客用の場所があると思うのですが、昔々にはどうだったのでしょう?

ていかかづら時は天平十六年の冬、場所はいつものように大和の金光明寺、住持は良弁師で、客人は玄蕃頭です。
初っ端から分からないのは、この時の金光明寺にどのような施設があったのか(゜.゜)
現在の東大寺の上院地区の一部が、この寺のはずなのですが、この頃にはまだ観音堂(二月堂)や手向山八幡宮はありません。
当然ながら金堂(大仏殿)や講堂、東西の塔も戒壇院もありませんので、現在の中心伽藍の辺りは山野だったかもしれません。

そもそも、この時の金光明寺には何人くらいの僧侶がいたのでしょう?
金鍾山房が出来た時には九人の僧侶が選ばれ、天平十三年の国分寺建立の詔の後に大和国分寺となったのならば、少なくとも二十人の僧侶が住む事になりますので、それなりに大きな寺だったのだと思います。
では、住持の良弁師はこの寺の何所にいたのか……まあ、僧房のどこかに住んでいたのでしょう??
その僧房はどの辺りにあったのでしょう……(・・?

現在、東大寺の上院地区に行っても良く分かりますように、寺の各施設は山の麓から中腹にかけて広がっていますが、金光明寺の頃には、山の中腹が中心だったのでしょう。
本尊のおられる御堂が僧房や食堂よりも下にあったとは思えませんので、元々のこれらの建物は、後には他の施設に建て替えられたと思われます。
いずれにせよ、住持らが朝廷からの客人を迎えるのは本堂ではないと思うので、僧房や食堂のどこかで良いのでしょうか……やっぱり分からない?(゚_。)?(。_゚)?
相変わらず大した疑問でもないのですが……
時は天平十六年、年が明けた時、聖武天皇恭仁宮におられました。
正月節会が終わった頃合で難波宮に行幸が行われます。
ところがここで安積親王が亡くなるという事件が起きますが……恭仁には戻りません。
そして難波遷都に向けての動きが見られるのですが、遷都の宣言の前、二月末に三嶋路経由で紫香楽に行幸してしまいます。

平城宮跡 兵部省にてこの頃の紫香楽には、既に離宮はあったと思われます。
だから天皇はこの地に長く留まる事となります。
三月の始めに難波では遷都の詔が出されて、大楯と矛を門に立てるというセレモニーも済んでいます。
正式に都とされた難波は、元正太上天皇左大臣に預けられた状況です。

こう見てみますと、三つの地の内で聖武天皇にとって一番重要なのは紫香楽という事になるのでしょう。
この近江国の片田舎では、国家的な大事業が始まっておりました。
それがかの有名な総国分寺(甲賀寺)の建立です。
二年前に出した国分寺建立の詔の仕上げというところでしょうか。
では、天皇の行幸があった頃、甲賀寺の状況はどのようなものだったのでしょうか……
まあ、離宮の中心から延びた朱雀路を寺の北門に合わせて、伽藍配置の設計図くらいは引けていたでしょうか。
寺を置くための低い丘の木を伐採して、高い所を削り、低い所を埋め……恐らく造成中でしょう。

しかし、天皇は離宮に長く留まる事になりますので、政の一部はここに移されたはずです。
例えば太政官や中務省、宮内省や皇后宮職(皇后も同行していたらですが)、治部省もかな?
役所が移れば役人も来る、その衣食住も確保しなければなりません。
ここでまたもや、離宮周辺では建設ラッシュが始まります……
そうなると、甲賀寺の建設現場の資材やら労力やらは、一時的にそちらに吸い上げられる?(゚_。)?(。_゚)??(゚_。)?(。_゚)?
何とな~~く、本末転倒のような気がするのは私だけ?(・・??




ところで先ほどまで、『隠岐島黄金伝説……』なにやらいうドラマを途中から、斜めに眺めておりました。
これって高橋克彦の『南朝迷路』だな、もしかして?
でも、あの話って、最後は全部、若者達の茶番劇でしたで終わるんじゃなかったっけ……何しろ読んだのが十数年前なので、殆ど記憶に無いσ(^◇^;)
殺人事件の部分は加筆??まぁ、どうでも良いか、全体的に軽いノリみたいだし(-_-)
 
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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