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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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和舞 諸司舞六段 宮人曲日曜日(四月二十九日)の和舞(やまとまい)の奉納です。
和舞に関しては、今までも何やかやと聞きかじりの薀蓄を垂れておりますので、この度は画像だけでもσ(^◇^;)

東遊 求子昨年までは中学生くらいの子が、一臈と二臈を勤めていたのですが、今年は全員が小学生くらいです。

和舞 神主舞四段 計歌林檎の庭での奉納が終わりますと、若宮社でも和舞の奉納が行われます。
曲も舞人も楽人も替わりますが、最初の『神主舞前歌』と最後の『槲酒歌(かしわさけうた)』は行われます。
そういえば、この二曲の画像がありませんね……

和舞 諸司舞八段今年はこっちでも動画を撮って遊んでおりましたので、割合に画像は少ないです( ̄▽ ̄)。o0○

そういえば、消滅した旧ブログに書いていた分の解説でも、その内に気が向きましたら上げましょうっと(-_-)
さて、明日は下鴨神社の流鏑馬だな、雨は大丈夫でしょう??(゚_。)?(。_゚)??
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藤と熊蜂一昨日の『和舞と和琴』の講座に、万葉集に見える琴の例が挙げられておりました。
これが結構有名な、大宰帥の大伴旅人が中衛大将の藤原房前に、書状と共に『梧桐の日本琴一面』を送るという歌の遣り取りです。
巻第五810~812ですね。

内容は中国の古典でも踏まえているのか、対馬産の桐で和琴を作ったところ、木の精が若い女性の姿で夢枕に立ち、寂しく朽ち果ててゆく身だと思っていたところを琴に仕立ててくれた事を感謝して、

如何にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上わが枕かむ

と、詠ったので、大伴卿も

言問はぬ樹にはありともうるはしき君が手慣れの琴にしあるべし

と返し、琴の精が更に喜んだところで目が覚めた……そういう訳で、この琴を進上奉ります。
それに対して北家房前は謹んで歌を返します

言問はぬ木にもありともわが背子が手慣れの御琴地に置かめやも

とまあ、このような内容ですかσ(^◇^;)

天邪鬼うめぞーとしては、この歌を何で覚えていたかと申しますと、房前の肩書きとして『中衛高明閣下』と持ち上げている箇所のためなんですね。
中衛府は神亀五(728)年に令外の官として新たに作られ、誰が長官職(大将)に着任したかが『続日本紀』に書かれていないのですが、この旅人の書簡の日付が天平元(729)年十月七日になっているため、藤原房前の就任が分かるとされる資料なんですね。

この年、大伴旅人は正三位大宰帥で六十五歳、藤原房前は正三位中務卿兼中衛大将で四十九歳、とうに不惑も越え切った高官が、何の機嫌の取り合い、腹の探り合い、誉め殺し合い??(゚_。)?(。_゚)??
旅人が『うるはしき君が手慣れの琴』と言ったかと思えば、房前が『わが背子が手慣れの御琴』と返す……絶対に本気で言ってる訳じゃないのが見え見えです(^_^;)

一般的な解釈としては、左大臣(長屋王)失脚に際して大宰府に追い払われた大伴氏の氏長は、南家大納言よりも話が分かりそうだと踏んだ北家に、中央政権復帰の仲裁を頼もうと頭を下げているという所ですね。
私としては、とても分かりやすい内容です( ̄▽ ̄)。o0○
そう考えても、この時の房前の立場って、考えるほどに微妙ですわね……
果たしてこの旅人の嘆願、どの程度に功を奏したものやら……まぁ、次の年くらいに都には戻って来て大納言に就任するのですが、更に翌年の七月に亡くなるんじゃなかったのかしら?(゚_。)?(。_゚)?

それにしても、昔々、犬養孝先生がお元気だった時、何かの折につけ『手慣れの御琴』を歌いましょうと、耳かじりで歌った記憶があります。

手慣れの御琴 共にかきなで 暮れ行く秋を愛でしぞ今は
海山遠き彼方の里に 変わらぬ月を眺めぞ明かす とわたる雁よ思いを運べ……

ってな歌詞だったと思うんですが、何気にうろ覚え(゜.゜)
誰に聞いても、そんな歌、知らないと言われたのも覚えております……
 
和舞 神主舞三段 眞榊曲一昨年から四月二十九日は、午前中は橿原神宮で『昭和祭』、午後からは春日大社に行き、『いのちと心の講座』で和舞(やまとまい)に関するレクチャーを受けた後に、舞を鑑賞するという日程になっております(^_^)v
そのような訳で、今年もこの日は『国風歌舞』三昧の一日となりました。

和琴を弾く秋田学芸員
今年の講座は『和舞と和琴(やまとごと)-古都、木の音、琴-』とのタイトルで、和琴に焦点を当てて行われました。
講座でも言っておられましたが、一般的に十三弦の箏の音を聞く事は多々あっても、六弦の和琴の音を聞く機会は殆どなく、私も昔々に『春日若宮おん祭』に初めて行き、和舞や東遊(あずまあそび)で楽人の方々が左右から琴を支えて弾いている姿を見た時より以前には、恐らく聞いた事がなかったと思います。
三嶋大社の御神楽では確か、使っていなかったような……昨年に見た時、どうだったっけ(゜_゜>)

今更ながらに音楽的素養の全くない私には、上古の出土品(縄文時代から見られ、古墳時代には六弦の物が出土しています)の例以外は、ほぼ、初めて聞くような内容でして……σ(^◇^;)

それ以上に感激したのが、琴を膝の上に乗せて演奏するという方法です。
実はこの演奏法、膝ではなく、安座した左足を右膝の上に乗せ、その親指の上に龍手を置く形で支えるのだそうです。
人物埴輪に見る琴弾は、椅子などに座った状況で小さな琴を膝の上に乗せているように表現されているので、この奏法とは違うのかもしれません。

講座の後、御本殿回廊内の林檎の庭と、若宮社での舞いの奉納を拝見する事になります。
そういう訳で、この度も続く( ̄▽ ̄)。o0○
何せ本日は、久々に大阪に出て、『石ふしぎ大発見展』を見て回って、疲れました……(*_*;

外院の庭で行われる久米舞今年も連休は遊び倒すかと、昨日も今日も奈良におりました。
昨日は『奈良ひとまち大学』で、橿原市出身の彫刻家(仏師)の吉水快聞さんの話を聞いておりました。
名前は何度か聞いた事があったのですが、この方、植山古墳の近くの御寺の息子さんだそうで……

それはともあれ、本日も春日大社でレクチャーの後、『和舞(やまとまい)』と『東遊(あずまあそび)』を観賞してまいりました。
と申しましても、今日の午前中は橿原神宮の『昭和祭』がありまして、今年もしつこく『久米舞(くめまい)』の奉納を見に行って参りました。

相変わらず見学者はあまり多くありませんで、何やら寂しい気も致します。
確かに『昭和祭』という神事は、かなり地味ですので(一般的に神事は地味です……(-_-))、御参りに来た方々も何か御祭りをやっているね、と覗く程度で通り過ぎてしまいがちです。

久米舞この十年くらいの間で『雅楽』は多少ともメジャーになりましたが、『国風歌舞(くにふりのうたまい)の知名度はあまり高くないようです。
『東遊(あずまあそび)』ならまだしも、『和舞(やまとまい)』や『久米舞』なんて、この辺以外じゃ宮内庁でしかやらないような……
『御神楽(みかぐら)』に至っては……人長舞(にんちょうまい)や浦安舞くらいなら、結構目にしますか?

それにしても毎年、代わり映えのしない画像で申し訳ありませんm(__)m
加えて今年は、やたらに動画ばかりを撮って遊んでおりましたので、画像はチョイト少なめです。
過去の記事にも下手くそな画像が幾枚か上げてありますので、ご参照頂ければ幸いです……って、変わり映えしないんですけどね・゚・(ノД`;)・゚・
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/1140/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/1011/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/909/

 
舞楽『太平楽』『聖霊会』の舞楽の内でも最も派手で見ごたえもあるのが、最後を飾る『太平楽』です。
この舞、南都楽所でも天理大学雅楽部でも行いますが、何と言っても四天王寺楽所がダントツに面白い?

『序』で鉾を持って登場した舞人は、『破』で鉾を振り回して舞います。
『急』では鉾を置いて最初は徒手の舞が進んで行きますが、途中で腰に佩いた太刀を抜刀します。
これを合図に、舞台横の篝に火が入り、六時堂の内では掲げられていた聖徳太子の御影が巻き上げられます。
そして舞人は太刀を振り回して、まさに飛び跳ねながら輪舞をするという感じです。
何せこちらの楽所の舞では、太刀を顔の前にかざしたまま、片足で飛び跳ねるような所作までしてくれます。
他の楽所では、せいぜい足を踏み鳴らす程度。
これが石舞台の上で行われていたならば、舞人の鎧に着けられた鈴がシャラシャラと音を立てるのも聞こえます。

以前に聞いた事では、この舞、『十八史略』などに出て来る、沛公(劉邦)と項王(項羽)の『鴻門の会』での有名な宴の様子を表しているという説もあるのだとか。

舞楽『採桑老』『太平楽』までが法要の供養舞、その後に一曲、入調(にゅうじょう)の舞が行われます。
法要が終わり、臨席している人たちへのアンコールとでも言うところでしょうか(゜_゜>)

今年は『採桑老』(さいそうろう)でした。
不老不死になるための桑の木を探す、百歳の老人の姿を表しているとかで、付き添いの人に支えられるようにして入退場します。
確か、この舞も一旦途絶えて、四天王寺楽所で再現した舞だと思います。
昨年の『経供養』でも舞われましたが、もしかして記事を上げてなかったかなσ(^◇^;)
次の日の『時代祭』はしつこくUPしてるけど……

舞台を片付ける作業員達結局この日は、最後まで雨……
お陰で舞台の四方に立てた『曼珠沙華』も、法要の最中に少しずつ散って行きました。
そして入調舞が終了しますと、一気に片付けに入りました。
枝を下ろすだけで、和紙の赤い花びらのノリがはがれ、あちらこちらに散らばりますので、散華の代わりに何枚か拾って帰りました。

そういえば昨日の夕刊の一面の小コラムに、この『聖霊会』について書かれていまして、最後に記者の方が、見に来ている人が少なかったのが寂しかったと結んでいました。
でも、晴天での法要を知っている人は、雨の法要に参加して、全く様子が分からないフラストレーションを絶対に感じるでしょう。
ここ何年か、こうも雨に降られているのでは、いつも来ている人でも二の足を踏んでも仕方ないでしょう。
何せ境内で行われるはずのガラクタ市の出店も皆無ですからねぇ……
さて、来年はそろそろ晴れてくれませんとε-( ̄ヘ ̄)┌
『春日祭』の武官先ほど書き忘れたんで……大河ドラマ

かなり以前から疑問に思っているんですが、清盛のいつも持っている太刀、あれって馬上で役に立つの?
というか、馬上で抜けるのか?

鎌倉時代くらいの馬上刀の反りから考えて、抜刀する時は日本刀の場合とはチョッと違うと思うんですよね。
思い切り腰を左にひねって、鞘も左手で後ろに引くまでは同じでしょうけど、右手は馬の頭に当たってしまうから、嫌でも上に跳ね上げるしかない。
この際、右腕の動きが視界を一瞬ふさぐなんて事は言っていられない、そのまま、上段に振りかぶらにゃ、馬の頭をぶった切る事になってしまいますからね。
となると、左手は後というよりも下に鞘を引き下げるのかな?
騎馬の戦は、江戸時代の御武家さんの手合わせとは、全く別物でしょうから、まあ、こんなものでしょうかね?
間違っていたら済みませんm(__)m

さて本題、これが果たして、あの度デカイ諸刃の直刀で出来るのか否か??
多分、鞘から抜くだけは抜けても、次の動きが取れないんじゃないのかしら???
それじゃ左手で抜けるかって……物理的に無理よ(*_*;
佐々木小次郎みたいに背中に背負う?
しかし、そんなもの背負ってて弓、引ける??
思い切り、大鎧の袖に引っかかりそう……

然るに合戦時は、常にあのダンビラを持つ郎党が必要になってくるんでしょうかね?
戦国時代にも槍の名手の武将には、槍持ちの家臣がいたはずですしねぇ……
 
祭文奏上『胡蝶』が終了すると、ここより四箇法要。
本来ならば、御堂から出て来た御僧侶が石舞台の前で祭文の奏上を行うはずなのですが、雨のため御堂の縁で奏上が行われました。
(ばい)も散華も薄暗い堂内ですので、外からは全く様子が分かりません……・゚・(ノД`;)・゚・


舞楽『崑崙八仙』式次第に寄れば、散華の後に行事鍾が打たれ、右方舞楽の『崑崙八仙』(ころばせ)が始まりました。
私が眺めていた場所は、左方の楽所のすぐ脇だったので舞は遠いけれど楽は近い、雨さえ降っていなければ案外良いポジションだったと思うのですがね。
『八仙』は雅亮会でも南都楽所でも何度か見た事がありますが、衣装も面も舞いそのものも、チョッと変わっていて面白いです。
タイトルは八人の仙人という意味ではなく、八羽の仙禽、鶴の事だそうです。
しかし、この舞人の姿を鶴に見ろといわれても、どうも難しい……(^_^;)

舞楽『太平楽』『梵音』(ぼんのん)、『錫杖』(しゃくじょう)、いずれも堂内ですので、スピーカーから聞こえて来る声や音で様子を伺うしかありません。
『四箇法要』が終わるとお馴染みの『長慶子』(ちょうげいし)の音に乗って、高座から下りて六時堂の中に戻られます。
そして舞楽の内でも、最も派手で長い部類に入る『太平楽』(たいへいらく)が始まります。

そういう訳で、しつこく続く(-_-)




性懲りもない愚痴もしくは戯言

昨夜、もはや文句を言うために見ているのかと、錯覚したくなる大河ドラマを眺めておりました。
この度は何に呆れたかって……平家一門の経営センス(?)の無さですかね。
一門の存続って、まぁ、時々、会社経営に例えられますが、それが何やら分からない思考の元に置かれているような気がしてならないんですわね、主人公の台詞を聞いていて。

美福門院と関白が左大臣に売りつけた喧嘩に、源氏が安直に乗って院を巻き込み、院や中納言が平氏をも巻き込もうとした時、平氏はこいつを突っぱねた……この流れは駆け引きとして、決して間違っていないと思います。
た~だ~し~、院の要請を断る理由の意味が、さっぱり分からない(゜゜)
最初に喧嘩を吹っかけた側が、姑息な方法を取ったから、こちらは感情論??
これじゃ、今回は良くっても、次は無いんじゃないの???
だから、伊勢平氏は忠盛から三代で滅亡するの……多分、作者はこんな事、意図してないと思うけどε-( ̄ヘ ̄)┌
打毬楽チョイト過去の記事などを見てみましたところ、ここ最近、四天王寺聖霊会での雨の確立はかなり高いようです。
2007年が雨、2008年と9年は晴れましたが、10年から今年まで三年連続で雨です。

今年も週間天気予報が発表された時点から雨……
それも日を追うごとに降水確率が上がって行く?
土曜日は一旦天気が回復したというのに、その晩から降り始めて、夜が明けてみればしっかり降っておりました。

行事鉦を打つ僧侶どうも朝から気が向かない……天気予報は雨が降ったり止んだり
さりとて春日大社に行こうという意欲もイマイチ湧かず……
(本日、春日大社の百々手式が執行されるのは聞いておりますが)
ともあれ、気を取り直して昼前に出かける事と致しました。

胡蝶 四天王寺の境内に着いた時は、相変わらずの雨。
六時堂に到着した時には、『蘇利古』(そりこ;右方)が終わる辺りでした。
しかし朝からの雨のため、法要は六時堂の中で行われますので、殆ど様子が分からないんですね。
受付で式次第やらお茶席券などを頂いている内に、両舎利が御堂から御出ましになりまして、御堂と石舞台高座に御着きになられました。

そして『打毬楽』(たぎゅうらく;左方)が始まりました。
最初に見ていた場所からは、最初の画像の通り、殆ど見えませんね……
『伝供』(てんぐ)にいたっては更に見えませんので、『菩薩』(ぼさつ)が始まったところで御茶席に行く事と致しました。
そして帰って来た時には『胡蝶』(こちょう;右方)が終わるところでした。
これが晴れていたなら、御茶席は多分、放っておいて大人しく見学していたでしょうけどねぇ……

っちゅう訳で続く(-_-)

 
 
春日大社の枝垂桜昨日は私のパソコンなのか、こちらのサーバーなのかのいずれかの調子が思わしくなかったようで、書いた記事が消えるし、変更したつもりのテンプレートが、どこをどういじっても変更前のものと置き換わってくれないし……
先ほど確認したところ、記事はやはりUPされていませんでしたが、テンプレートは替わっておりました。
で、今はどうなってんだ?(・・?

パソコンもあまり調子は良くないのですが、私もチョイト不調気味です。
昨日、急に鼻がムズムズしてくしゃみが出るので、もしかしてついに花粉症!?……ではなく、多分風邪です(+_+)
その後、背筋はゾクゾクするわ(別に悪いモノが憑いている訳じゃないと思う……)、背中から首筋まで強張って半ば痺れて重いわ、頭痛はしてくるわ……

今日は比較的マシですが、それでも肩から首がおっそろしく凝り固まってます。
さて、そろそろ寝ますか。
明後日は、大阪の四天王寺の聖霊会……天気予報では土砂降り(゜-゜)
もしそうなったら、三年連続で土砂降りですよ……何かあるんか?何所に?何に?誰に?
誰か神通力(?)でも使ってんの?何のため(?_?)?
東大寺開山堂前の枝垂桜滋賀県の甲賀市(かつての甲賀郡信楽町)にある宮町遺跡から、え~と、何が出てたっけ?
つい何ヶ月か前に、内裏が二つある云々の発掘成果が発表されておりましたが、現地説明会にも行っていないし、資料もダウンロードしておりませなんだ(-_-;)
いずれにしても私が知りたいのは宮町遺跡よりも、かつて紫香楽の宮跡とされていた寺跡の方でして、こいつが果たして『続日本紀』で言うところの『甲賀寺』なのか否かという極論です。
まぁ今現在の状況では、他に候補地がないのだからほぼ確定なのでしょうけど……

それでこの何日か、果たして重要なのかどうなのか分からないけれど考えていたのが、『試し』の事です。
試しというのは、何かを作るに当たって、前もって試しに作ってみるという試作品の事です。

例えば東大寺ミュージアムに30cm程度の弥勒如来坐像があったと思います。
以前には奈良国立博物館の常設展に並んでいた像ですが、これは昔から『試しの大仏』と呼ばれていたとか。
しかし毘盧舎那仏ではないから別物なのでしょうが、姿形からそのように言われるようになったと聞いた事があります。

この像の事はとりあえず良いとしまして、このところ考えているのは、聖武天皇が紫香楽で最初の造仏を考えた時の事です。
当然ながら仏師を始めとしたプロジェクトチームは、このような御仏の尊像を造ろうと思っておりますと、一尺などとは言わず、もっと大きなサイズで試作品を示したのだと思います。
これを紫香楽で試作したのだとしたら、天皇に披露する機会は何度か行われた行幸の早い時期なのでしょうか。
それとも恭仁(この時の都はここです)に造仏所があって、そこで行われたのでしょうか。
東大寺ができる以前の事なので文献資料にはまず出て来ず、勝手に想像してくださいの範囲ですわ……

この造仏所、恐らくは埋文調査で分かるような施設とは、何となく考え難いんですよね。
金銅仏の鋳造でもしていたのならまだしも、塑像や乾漆仏の作成がメインの時代の事ですから、遺構や遺物としてどの程度が残るものなのか。
恭仁にしても紫香楽にしても、山城と近江の国分寺が後に建立されていますから、そこの造仏所があっても誰も不思議には思いませんしねぇ……

何か、こういう所が具体的に決められないと、話が展開して行かないんですね(゜.゜)
仮に紫香楽に工房があって、天皇の行幸があったとしても、時の仏師の位では直接に仏像の説明なんぞ出来ないので、五位以上の造仏司(造寺司)長官が説明に当たったのでしょうけれど……
相変わらず、こういうツジツマというか、無用な考証が引っかかって来て整理がつかない……
こうなって来ると、この類の考証をまるっきり無視しているどこぞの大河ドラマが、ある意味、恨めしくなってくるような……って、そこに落ちるのか(--〆)
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