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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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天邪鬼うめぞーが全開というところですか。
延暦四年に起きた二つの事件は、何れも仕組まれた事なのよ、という展開を昨日よりひねり回しております。
この前からぼやいている大伴氏の内部抗争と何か結びつかないか……みたいな展開(-_-;)
更には自らを先祖の大伴金村のごとく考えたい奴がいるのか……ってな感じ(ーー;)
そういう訳で、第三の人物みたいな人が必要になるのかな(@_@;)
それで、家持は必要な人なの、無用な人なの?????

「私ゃ、何か大伴氏に恨みでもあるのかねぇ」
「大伴の誰?」
「そうねぇ、家持とか?前世に何か因縁でもあったのかなぁ」
「そんな偉い人と知り合いの訳ないでしょう(・・?」
「そりゃ、ごもっともσ(^◇^;) 」
「平石古墳群でも行ってみたら、何か閃くものがあるかも??」

会話に多少の脚色アリですが、何か、すごいアドバイスを貰ってしまいました。
平石古墳群は大阪府河南町にある方墳を中心とした終末期古墳群です。
大伴氏の墓とも、蘇我氏の墓とも言われてますが、私の生まれる前の事ですので良く分かりません。

奈良時代の大伴氏の墓は……大伴寺のあった辺りかな?
確か俊乗房重源上人のお墓のある辺りに、元々は佐保大納言安麻呂が建立した氏寺があって、後に東大寺の墓所になった云々というのは、以前に聞いた事があるような……
三笠霊園の中でしたね、確か、重源上人のお墓というと。
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主人公は絶対に良い子で入られませんね。
まあ、若いのだし、汚れ役の一つや二つはやる?
……と言う訳には行かないのか?いや、させるべきか?

もう一つ、この展開だと大伴家持にポジションはなさそう。
でも大伴継人のポジションはあるな。
そしてこいつらは共謀しない。
大体作者には、この二人が協力するような要因が見えないの。

ところで今回、一番得をするのは誰なの?
う~ん、誰かいる?????

話変わりまして……私はつい最近、とんでもない事に気付きました。
山部王と吉備泉が大学頭と亮になるのは無理?!
だって、山部王が従五位上大学頭の頃って、泉は既に正五位下か従四位上だもの?!?!
「大臣の息子だろうが、やっぱりぶん殴る!」by山部王

まあ、今日も戯けたタイトルです(~_~;)
天応元(781)年の年末、ようやく作者の待ちかねた開成親王が現れてくれました。
この人が出てくると誰が調子付くって……同世代のおじさんたちですわね。

私の設定上では、開成親王は天平九(737)年生まれですから、山部親王神王と同じ年齢で四十五歳(数え)になります。
ちなみに鴨王も同じ年の設定なのですが、この時には既に故人です。
ここに加わるのが、四つ年上の壱志濃王……四十九歳(数え)

東宮院では太上天皇が危篤だというのに、何でこの御仁ら、内裏で円陣組んで酒酌み交わしてるんでしょう??
参考までに申しますと、開成親王は出家の身です……生(--〆)臭
更に申しますと、ここに十三歳年下の早良皇太子と、二十三歳も年下、息子の年齢の主人公もいたりします(ーー;)
天皇(山部親王)に言わせますと、
「このように形も態度も大きな暑苦しいのが、雁首を並べていると皇太夫人(おおみおや)が鬱陶しがる」為なのだそうです。
皇太夫人とは勿論、母親の高野朝臣新笠です。
もう一つついでに申しますと、この人達、喪中です。
つい数日前に、異母弟の薭田親王が亡くなっていますので……(・_・;)
おまけに壱志濃王にいたっては、治部大輔なので親王の喪を監護しなけりゃならない立場なのに、こんな所で酒呑んでいて良い訳??(゚_。)?(。_゚)??

別に私としては、不真面目なオジサンたちの話を書いている訳ではありませんが、なぜか開成親王が出てくると、話が弾け(?)始めるんですよね。
これに件の藤原種継が加わると、収拾つかなくなるかも?(@_@;)?

昨日は昼過ぎくらいから、時々利用しているパソコン持込可のカフェで仕事をしていました。
この日は『なら燈花会』の最終日でしたねぇ……先週に行った時の画像でもアップしませんと。
今日は今日で、橿原考古学研究所付属博物館葛城市歴史資料館に行った後、橿原市内のマクドナルドで仕事してました。
しかし、こちらは休日だけあって、家族連れやら若い人のグループが多くて、何とも落ち着きませんわねぇ……(~_~;)
今日は春日大社万燈籠東大寺万燈供養ですねぇ。
今年はお休みですわ(/_;)

それにしても、案の定、藤原種継が軽い……(・_・;)
若い時は、かなり軽い男で良かったのだけど、今回はこいつもそれなりの年なのだし(-_-;)
それよりも何よりも、今回のこの人のイメージが変???
だって主人公に大伴氏と陸奥の情勢の話をしている時、私の頭の中で深沢さん(村上弘明;『ゲゲゲの女房』参照)の顔してるのよ……意味分からん、我ながら(@_@;)
もう一つ奇妙なイメージとして、「陸奥の人達が大嫌いだった」と子供時代を語る坂上田村麻呂
あまり伸びない薄い顎鬚を短く刈り詰めて、そいつを引っ張りながらぼやいているのですが、こっちは伊勢谷友介の顔してる?????

この辺の脇役のケッタイなイメージはさて置き、相変わらず主人公が話の中心に出て来ません。
これを何とかしなければ。
こいつもようやく侍従だし、官界でもう少し自由に動かしてやらないといけません。
それにしても、どの程度、この若造が太政官を中心にした場所で動けるんだろ(・・?
まあ、明日もいつものカフェで閉店まで仕事しましょうかね。
家よりも涼しいし、お猫様の相手もしなくて済むから、書くだけは進みますしね。

何が分からないって、はっきり申しまして葬儀です。
『喪葬令』を見たところで、分からない事は本当に分かりません。
では今日も例を上げて考えて見ましょう?(゚_。)?(。_゚)?

天応(781)元年二月十七日、三品能登内親王薨しぬ。右大弁正四位下大伴宿禰家持、刑部卿従四位下石川朝臣豊人らを遣して、喪の事を監護らしむ。

能登内親王光仁天皇の娘で、この時に四十九歳でした。
この当日に父親の天皇は詔で、内親王に一品の位を贈り、子供たちを二世王にすると伝えていますので、内親王の葬儀は一品の基準の行われたと考えて良いかと思います。
この辺を以前に、
ここにゴチャゴチャと書いておりますが、なにやら分かるような分からないような……ヴィジュアルとしては、多少イメージは湧くのですが(~_~;)

それでですね……同僚と少し話をしていたのですが、昔々の葬式って、やっぱり家で行ったの?
天皇や皇后の場合は、宮中で行う訳には行かないでしょうから、さて、何処になるんでしょう??
法要は官寺で行っていますけれどねぇ。

能登内親王は市原王の未亡人ですから、住んでいたのは亡夫の家か、父親のかつての屋敷かというところでしょうか、多分、内裏にも東宮院にも西宮院にもいなかったと思います。
既に二十歳を過ぎた息子と娘がいるので、喪主は問題ないとしましょう。
私のプランでは、この人はいつも出て来る左京北一条第に住んでいた事になっていますので、この一坪占有の屋敷で葬儀を行っても良いかなと考えておりますが……
次の問題、この葬儀に出席できた親族って誰?

間違っても父親の光仁天皇は無理(多分、病床の身)でしょうし、母親の高野朝臣新笠(夫人)も出席できるとは思いません。
同母弟の山部皇太子は……これも難しいような?
それじゃ、もう一人の早良親王はどうなのでしょう……この人なら大丈夫かしら??
まぁ、従兄弟の壱志濃王神王なら、監護の側にまわる可能性もありますね。
何せ壱志濃王に至っては、治部省畑の専門屋ですから。
そして次の疑問、服喪は?????

親のみならず、子供に先立たれた天皇は一年間、喪服を着る慣わしがあるようですねぇ。
そして子供たちは、三十日くらいは官職を解かれるようです。
まぁ、五七日が明けたら職場復帰するような感じでしょうかね?
それで……まさかと思うけど、喪服で出勤する訳じゃないでしょうね???


いつもながらに、このような事にばかり引っかかっていて、全然進みやしませんわ(/_;)

今年も、奈良町で一夜限りのショットバーの営業があって、その前に紀寺町での『町屋カフェ』にも行って来て、それから最後は『なら燈花会』にも行ったのですが、帰りの電車の中で読んでいた本のお陰で、頭が多賀城にスリップしてますσ(^◇^;)

やっぱり私も基本史料が『続日本紀』なので、当時の陸奥と中央政府くらいに認識にずれがあるみたいです。
こいつを考え始めると……いかん、また病気が出て来た(@_@;)
問題は全然単純じゃない、何せ私の中では、在地勢力同士の抗争が知識としても意識としても、殆ど認識されてません。
この辺は『続日本紀』の記述にも拾う事が可能ですが、例えば伊治呰麻呂道嶋大楯と云々をそのまま飲み込んでも良いものやら……こういうところを疑うのが、そもそも病気なんだが(ーー;)

ところでうちの主人公と道嶋嶋足は知り合いなんだろうか?
田村麻呂は間違いなく知り合いだろうなぁ、何せ親父様の飲み友達だし?
嶋足と大楯はどの程度の関わりがあるんだろ、別にほぼ他人でも構わないのですけどね。

ついでに大伴真綱大伴真麻呂はどうしようかな……こいつらを下手に兄弟とか従兄とかにすると、また話が不必要に複雑になるだろうしなぁ。
本当に大伴氏は系列が全然分からなくて苦労するわ、紀氏もだけど(--〆)
いや、一番苦労させられるのは、アイデンティティを喪失している主人公だけどね(・_・;)

休憩の茶を飲みながら、年齢が分からない人の大体の年代を考えておりました。
延暦四年の九月に主要登場人物となる面々なのですが、はっきり言ってどの人もこの人も、系統が分からなくて手がかりなし(T_T)
何となく分かるのは若干二名のみ……大事件の割にはキャストがなぁ、などと不謹慎な事を考えつつも、取り合えずはこんな具合となります。

まずは藤原雄依、異母兄の家依よりは少し年下になるのかな?
この二人は永手の息子たち、家依が長男で天平十五(743)年生まれ、雄依は次男か三男なので、まぁ、それ程年は離れていなくても良いでしょう。

次が、この前から何度か名前の出て来る大伴継人ですが……
天平宝字元(757)年に亡くなった父親への連座を問われていないところから見ても、この頃はまだ成人前、十五歳にはなっていなかったと見るのが妥当でしょうか。
最年少に見積もってこの年か次の年の生まれ、最年長の十四歳(数え)だとしたら天平十六(744)年生まれですね。
そうなりますと、亡くなった延暦四(785)年には四十二歳(数え)よりは若いというところですか。

どうやら藤原雄依と大伴継人はほぼ同年代と考えて良い訳ですね。
この二人の共通点ってあるのかなぁ……北家も大伴も桓武天皇には好かれてないとか?
継人は雄依の乳母子というのは、取り合えず無しねσ(^◇^;)
それにしても、この二人よりも一回り以上若い五百枝王は、どういう関わりで出てくるんでしょう?
同調させる要因が考え付かなくて……それじゃ話にならんだろう(ーー;)

あんまり安直に考えたくないのが、この人達と藤原種継の仲なんですよね。
例えば、種継が近江守になった時、介は継人で、この時に恨みを抱いた云々みたいな、今更みたいな展開では私自身が全然納得しないというか、面白くもなんともないというか……
相変わらずの天邪鬼が、こういうところでも自分で首を絞めている訳なのですが(-_-;)

あぁ、今日(とっくに昨日)の橿考研の現説もその内に上げなければ……

『続日本紀』のように日付を追って記された記録を眺めていて、時々こいつが、チョッと分からなくなる事があります。
天平十二年に藤原広嗣が大宰府にて兵を上げた時の記事も然りですが、このところ眺めている宝亀十一年の伊治呰麻呂の乱も然りです。

これらの記録の最初は、現地にてこの事件が起きた日付から始まります。
ところが大宰府にせよ多賀城にせよ、都からかなりの距離がありますので、事件が都に伝わるのは数日後の事となります。
そのせいで、中央で迅速な処置や命令が下っても、数日の開きがあるため、対応がかなり暢気に見えてしまいます(-_-;)
更には、早馬で伝令が来るのでしょうが、これが一発で情報をもたらすとは思えません。

例を示しますと、宝亀十一年の三月二十二日に伊治城で反乱が起きます。
それに対して都が征東大使副使を任命したのは二十八日です。
陸奥按察使が殺害されたという知らせに、太政官が六日も何もしない訳がありません。
これがまさにタイムラグです。
そして二十九日、陸奥介大伴真綱鎮守副将軍に任命しています。
鎮守将軍按察使が殺害された紀広純ですから、現地でのセカンドマンとなる陸奥介に権限を託すのは順当な流れに見えますが……

実は、この大伴真綱という御仁、多賀城で踏ん張って援軍を待たなければならないような立場にいるのに、城への保護を求む周辺の住人らを放り出して、石川浄足と共に逃げ出してしまいます。
敵前逃亡を平然とやってくれた者に権限を与えるほど、中央政府も能天気ではないでしょう。
そういう訳で、真綱の副将軍への任命も、多賀城陥落の知らせが入るよりも以前の事でしょう。

ここで名前の見える二人の逃亡者、以後の消息は分かりません。
もしかしたら、関東から発動された援軍にでも保護を求めて、その後に都から来た将軍たちに引き渡され、都へ護送された後に軍事裁判にかけられたかもしれません。
二人とも都の官人ですし、そうなった時の結果が分かっているでしょうから、そのままどこかへ逃亡した可能性も無きにしも非ず……権門出身のエリートのはずなのに(/_;)

はっきり言って、主人公がまったく動かない(@_@;)
徹底的に傍観者になりきってる(@_@;)
お陰で、まったく時代性をつかんでいない(@_@;)

今更主人公の変更はしないけれど、こいつの立ち居地を変更してやらないと、どちらにも踏み出せないって事になるわね……(ーー;)
別に汚れ役をしてもらおうという気もないけれど、多少ともダーティーに振舞ってもらおうか(ーー;)
こいつが自分で言い出したコンセプト
「息子は思いのほか、父親には冷たいのかもしれない」
これは、こいつ自身が思っている事ね。
顔も大して覚えていない父親、父親のように振舞おうとする人、父親になりたがっている人、そして父親の代わりになってくれた人、この四人を何れも裏切るような感じかな(-_-;)
ともあれ、良い子になるのはもう少し世間の荒波に揉まれてからかしら(-_-;)

う~ん、せっかく『篝の舞楽』に行ったのに、これもまた後回しかな……こうしてUPしていない記事が、やたらに増えて行くのでした(-_-;)

何を一人で納得しているのかと申しますと、一年以上前に書いた記事の内容です。
それは→http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/416/

この文書に出て来る人物は二名、一人は親王禅師、もう一人は藤原朝臣縄麻呂です。
そして日付は、宝亀十年十二月六日、これがどういう日なのかと申しますと、藤原縄麻呂が亡くなる一週間前です。
つまり、親王禅師は中納言の縄麻呂のために、東大寺に治療に用いるための四両請求している訳です。
文書の勉強なんてした事ないから、こんな簡単な事も分らないんですね、我ながら(-_-;)

それはさて置き、縄麻呂の病気の事は東大寺にいても分かるでしょうが、廟堂に居れば嫌でも知れる事でしょう。
要するに私の都合の良い解釈では、東大寺に居るよりも、中宮院でも東宮院でも西宮院でも良いのですが、宮中のどこかに置かれた内道場に居た方が、これらの情報をいち早くつかむ事が出来たという流れになります。

この頃、たとえ還俗していなくても東大寺は出ていた、この解釈は出来そうです。
そういう訳で、権別当の実忠和上は、既に東大寺に居ない親王禅師にわざわざ、様々な決定をする時に同意を求めたのかもしれません。

ところでこの時、良弁は既に遷化しているから、二代目の別当は誰なんだ?
良興で良いのかな?
これって『東大寺要録』に載ってるのかしら……テキストないからなぁ(T_T)

……にしても眠い、明日も仕事だから、さっさと寝るべしや。

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