- 2025.01.19 [PR]
- 2010.09.23 やっぱ、分からねぇなぁ……
- 2010.09.23 やる気が無い訳じゃなくてね
- 2010.09.21 皆、悩んで変になった?
- 2010.09.19 骨密度……(?_?)
- 2010.09.16 忘れた宮都
- 2010.09.06 病気の兆し( ̄▽ ̄)。o0○
- 2010.09.03 忘却とは忘れ去る……まんまやんけ(ーー;)
- 2010.08.23 建立は解体の逆
- 2010.08.22 やはり妃になれぬ家?
- 2010.08.20 后がねになれる家……うめぞー、混乱中
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猫に朝六時前に起こされた時には何故か薄日が指していて、天気予報が外れたかな、などと希望的観測をしていたのですが、六時過ぎに突然、バラバラっと来まして、そこから暫しの土砂降りとあいなり、今の今まで降ったり止んだり、いや、今は本降りですね。
先程の止み間にウメナさんが外に出て行ったけど、どこで雨宿りしてるんでしょう?
濡れて帰って来られたら、ちと厄介だねぇ。
私はと申せば、相変わらず缶詰です。
そしていつものように、書いていて疑問……(゜-゜)
喪屋は掘っ立て小屋だろうなぁ。
床は張ってあったのか、多分ないだろうなぁ、それじゃ、中に籠もっている人は土間に直接座るのか?
何か仮の床のような物でも張ってあったのか、それとも毛氈状の物でも敷いていたのか??
そもそも、喪屋に男が出入りしても良いものなのか???
この辺、完全に無視して書いていますねσ(^◇^;)
床が張られていない場合は、そこに入る人はどうしていたのか?
例えば藤原宮や平城宮(第二次)の朝堂院の第一堂には、床が張られた形跡がないそうです。
ここに入るのは太政官メンバーや主だった皇族でしたか、この方々には椅子が用意されていたと考えられます。
その他は床が張られ、沓を脱いで、床に座っていたのだろうと考えられます。
でも、殯の庭の儀式ならばこいつも有りだけど、喪屋は故人と未亡人以下、女たちが籠もるための仮屋なのでしょうから、椅子に座っているのも、かなり変……だって、ここ、日本だよ(+_+)
まぁ、何か仮の床があるのでしょう、そういう事にしておきましょうっと(-。-)y-゜゜゜
そういえば洗濯物を干す前に、ベテランの女性歌手が熱唱してたけど、あまりに鬱陶しくて思わずテレビを消してしまいました。
この歌ってマジ、この人の持ち歌の一つだよね……何を良い年して、自分の歌に酔っているんだろうね、昔からこの人の歌い方、どちらかと言えば嫌いな方だったけど。
それはともかく、こちらはもっと変な話に酔っ払った気分ですわ。
何を隠そう、一昨年にかいていた自分の話です。
主人公と相棒(中大兄皇子だったりする)の、かなりぶっ飛んだ変人ぶりがすごい(@_@;)
何で、うちのキャラクターって世代を遡ると、壊れ方が激しくなるんでしょう(?_?)
主人公なんて、御国に帰ってから戦争の話しかしてない……ってのか、戦争しかしてない。
今書き直している話も、主人公とその周辺、多少壊れてますけど、父親の世代は更に変?
中臣鎌足なんて、完全に人格も壊れてるような……σ(^◇^;)
それにしても、書き直し実行中の話は、ある意味で私の話の原点です。
一連の話が、この主人公の志貴親王から始まっていますからね。
そして、ここ最近考え始めたのが、この話の続きを考えなければという事なのですが、これがかなり難しいような気がしています。
ずっと放り出してあるHPの『お題』で、メモ程度に書いていたのですが、こいつが停滞している辺りから、話が過激と言うか困った方向に進む訳なので、どうもこちらとしても筆が重いような……
ともあれ、今月中にこれを何とか致しまして、十月からも書き直しの予定を既に考えております。
今度こそ、件の六百枚超、まともにやっつけなければ。
書き始めた時には、どうしてこんなテーマを選んだのか良く分からなかった話です。
何せ、この中心となる天平勝宝九歳というか天平宝字元年のクーデター未遂、『続日本紀』で読むたびに、胸が悪くなるような思いをしていた事件なんですよね。
これを言ってしまうと、今書いているやつも同じですかね。
こちらは朱鳥元年、あまり書きたくない事件を挟んでの物語ですからねぇ。
そして先月まで書いていたのが、もっとやる気の無かった長岡京遷都だったりするし……
どういう訳なのか、書く気がなかった話ほど、変に力が入ってねぇ(゜.゜)
さて、もう少し続きをやりますか。
それにしても、殯宮がどうしても囲い型埴輪のイメージから抜け出せない……
水辺の祭祀、やってるんじゃないのよ、まったくε-( ̄ヘ ̄)┌
ただいまの進み方では、絶対に増える事、必定(ーー゛)
354枚が、さて何枚になるんでしょう。
相変わらず主人公格の二人が、いつものように話しこんでおります。
何を話しているのかと思えば、人の噂ですわ……どこかのオバサンら宜しく。
今、槍玉に挙げられているのは、この前まで出て来ていた連中の祖父というか曽祖父というか……つまりそういう世代ですから。
案の定、この人も相当な変な人です。
そして日嗣皇子から、こいつに似ていると言われて、マジ切れ仕掛けている百済王真鳥――まだ、持統女帝から正式に百済王の名前を貰っていないので、扶余真ですが、似ていると言われた相手に引きずられて、こちらも変な人になりつつあったりして(@_@;)
かつては、うちのキャラクターには圧倒的少数派の好男子だったのに……
結局、多数派の変人の仲間入り?
ところでこの画像は見たまんまの物です。
例年なら既に萩の花も見ごろのはずが、今年は残暑と少雨を受けて、大して咲いていません。
昨日の九月二十日が、今年の志貴親王御忌でした。
六~七年前に、ただいま書き直している話を何人かの方に読んで頂いた時、過分にも『骨太な物語』と言う評価を頂いて、結構良い気分になっておりました。
ところが今、こいつを丸々書き直しているのですが……骨格はもしかしたら太いのかもしれないけど、随分とまぁ、骨密度が足りないようなε-( ̄ヘ ̄)┌
何ちゅうか、独特の気持ち悪さがあるんですわね、自分が書いたモノながら(*_*;
私がここ最近、気持ち悪いと感じるのは、特定の人物への過剰な思い入れと言うか、こいつを持ち上げてヒーローにしておけば、すべて世は事もなし……(ーー゛)的な話ですかねぇ。
例を挙げれば、この春にNHKで二週連続でやってたドラマみたいなやつね。
これ、やり方を間違うと、主人公とその取り巻き以外は、殆どが悪党と間抜けのオンパレードになりかねないのよ。
少なくとも、件のドラマ、私にはそう見えたけど(+_+)痛いのよ、つまり。
だって高位高官の殆どは悪党、恐ろしい事に皇族は間抜け、そういう括りに見える。
まぁ、こちらは一応物語りに仕上がってますけどね。
いや、それを言えば私の方も同様か、完結してるし。
今更、こんなドラマは良いとして……うちの方は、日嗣皇子信奉者をどう扱おうかしら。
狂言回しの主人公とは、いつものパターンで掛け合い漫才だけど。
これから出てくる一番変な男も、もう少し分かりやすいキャラクターにしようかしら。
でもそれじゃ、もう一人の曲者と変わり映えしなくなりそうだし……
そしてこの度、ようやく気づいた事。
世間的イメージで悲劇のレッテルを貼られている人物、うちではどいつもこいつも過激だ(@_@;)
今回は大伯皇女が一番過激かも……母親も同母弟もそうだったけど。
それから悪党は実は御人好し??(゚_。)?(。_゚)??
日嗣皇子も、高市皇子も、藤原史も、結構、御人好しだもんなぁ(゜.゜)
そうすると百済王真鳥、もしかして悪党???
本当に登場人物のイメージが滅茶苦茶ですわ、この話σ(^◇^;)
とにかく、足りない骨密度を何とかしないと、書いていても気持ち悪いわ~
それにしても今年の『ムーンライトin藤原京』は詰まらなかったわ。
『飛鳥光の回廊』も、殆ど盛り上がってないし……
奈良市に遠慮してる訳でもないでしょうに、どうしてかしらねぇ……写真を少しだけ写してきたけど、何か報告する気になれませんわ。
まぁ、気が向きましたら、するかもしれませんし、そのままかも……
明日はどうしようかな、夕方以降は諦めて『春鹿酒造』の蔵開き行こうかな、それとも夕方から石舞台公園に行こうかな……両方は無理、だってここ、自動車でないと行けませんしねぇ(/_;)
つい最近まで書いていた話より、三代さかのぼりました白鳳時代という頃の話です。
一番、頼りになる史料はと申しますと『日本書紀』です。
何度も申しますが、これが全く一筋縄じゃ行かない(T_T)
とにかく私は、この時代をしっかり忘れていますσ(^◇^;)
人物関係とか年齢とか飛鳥の地理とか……隣の村だってのに?
それより何より、ここ数年の『飛鳥浄御原宮内郭』の発掘成果も、ぜんぜん頭に入ってない……と、申しますか、この話を書いたのが、それらの成果が公表される以前だったので、読んでいても『大殿』だの『奥殿』だのと言っているのが、どこの事やら殆ど分からないε-( ̄ヘ ̄)┌
『日本書紀』の記述も、これらとどの程度合致するのか、諸説が入り乱れていてはっきりしません。
多分、私が『大殿』と書いているのは『エビノコ大殿』で、『大安殿』と書いているのは『内郭』の一番南に位置している、四方廂の大きな建物でしょう。
内郭を後の内裏と考えて、エビノコ大殿を大極殿(未だに反対意見はあるらしいですが)とするのは分かっているのですが、外郭が殆ど調査されていないから、各司がどこにあるのかなんてさっぱり分かりませんわ(*_*;
この内郭の一番北東隅に、現在明日香村に行くと見る事の出来る、『伝・飛鳥板蓋宮跡』の井戸があるのですが、ここを内裏の隅っこと考えますと、2006年の調査で出て来た三連の大きな建物が、天皇や皇后の住まいと考え、その後ろは妃や宮をまだ持っていない皇子たち、采女たちが住んでいたと考えて良いのでしょうかねぇ……?
ところで井戸は良いのだけど、ここって炊屋はあるんでしょうかねぇ??
それとも大善職みたいに外にあって、宮中では火を使うのは御法度なのかな???
まぁ、このような事は直接話の中には出てこないのですけど、何かやっぱり気になるんですよね。
そういう訳で、先程から一昨年の橿原考古学研究所付属博物館の秋季特別展の図録と、首っ引きではったりに勤しんでおります(@_@;)
今更何の病気かって……
書き直しを始めた話の、元の原稿をボチボチと読み返しております。
ここで件の腹黒い日嗣皇子(皇太子ではない)が、やたらと海外情勢の話をしております。
時は天武朝ですから、主な外交相手は新羅(統一新羅)ですね。
相変わらず、向こうの国王を法敏だの政明だのと、呼び捨てにしております。
念のため、国王の名前は音読みして下さい、ノリトシだのマサアキではありませんので……
この話をどうして、書き直そうと考えているのかと申しますと、一昨年に書いていた話の続編にしたいためなんですね。
続きと言っても、登場人物は殆ど重複しません。
世代も交代しているので、かつての主人公ですら生きているか否か、微妙なところですね。
何せこの人、日本におりませんので。
まぁ、この人の噂が、日本での事件に結びつくと言いますか、困った輩の行動を助長していると言いますか、やがて日嗣皇子が打ち切れます……
それにしても私が書く皇太子って人は、大抵が腹黒いんじゃないのか?
例外は阿倍内親王と大炊親王くらいか?他戸親王もだな?
今回の日嗣皇子も、山部親王と張り合うくらいに、何考えてるんだか分かりやしない(--〆)
この御仁が常に気にしているのが、御隣、新羅と唐の動きなんですよね。
唐の皇帝は誰かと申しますと、武則天です……w( ̄△ ̄;)wおおっ!
この辺の東アジア史、面白いんですよね(^^)v
マジ、またもや病気が出そうな気配σ(^◇^;)
書き直そうという話の『序』の部分だけ書いておりました。
真鳥と志貴皇子って、幾つ離れてる設定だっけ?
いや、そもそも志貴皇子の生年はいつにしたんだっけ??
草壁皇子より二つ年下だけど、草壁皇子はいつの生まれよ???
この人、どこに住んでるんだっけ????
結婚したのはいつだっけ?????
この話の基本資料、昔、確かに作ったはずなのですが、どこにも見当たらない……(/_;)
そういう訳で、資料作りからやり直さねば……(T_T)
『日本書紀』って、『続日本紀』に比べると、マジ、笊みたいな記述だからなぁ……(;_;
延暦の終わりから大同、弘仁の始めくらいの方が、資料作りは面白そうなんですけどね。
でも、こっちも散逸だらけの『日本後紀』ですからねぇ……(@_@;)
建物を建てる順番は、建物を解体するのとは逆の手順だという事です。
これは以前に書いていた話で、恭仁京遷都により平城宮の第一次大極殿を移築するという事になった時にも思ったのですが、今回、後期難波宮の大極殿を解体して、乙訓の長岡村に運ぶという件でも、やはり思った事です。
あの巨大な瓦葺礎石建ちの建造物を解体するとしたら、最初に何をするのか?
まぁ、金属の装飾などを外して、瓦を下すところから始めるでしょうねぇ。
これは建立する場合の最後の手順です。
最後には化粧基壇を解体して、基壇から礎石を掘り出すというところでしょうか。
これも基壇の地業が終わったら、礎石を据え付ける事から始まるので、建立とは逆です。
そういう訳で、外した木口金具や風鐸、下した瓦を先に移築先に運んでも、仕事には取り掛かれません。
基壇の板築はできるでしょうが、据えるべき礎石がなければ、その上に柱は立ちません。
つまり、解体がほぼ済むまで、移築先での建立は出来ない事になります。
やっと本題……
延暦三年五月、摂津職が蟇蛙の大移動という珍事なのか瑞祥なのか、よく分からない事を言上します。
この時の摂津大夫、天皇の胡散臭いブレーン(?)の一人、和気清麻呂です。
それを待ってましたと、桓武天皇は、中納言二名に参議も二名、陰陽助も含めた合計八人を山背国乙訓郡長岡村に派遣して、都としての地相を見るようにと命じます。
この報告がいつされたのかは分かりませんが、思うに、事後承諾みたいなものでしょうか。
既に当地の長岡では、大極殿院を移築する土地の伐採やら造成やら、何やらが始まっていてもおかしくないでしょう。
勿論、音頭取りは、ここ辺りの大ボス、秦氏です。
そして、ここに遣って来た八人の都人の筆頭は、藤原小黒麻呂(室が秦氏)、藤原種継(母が秦氏)の二人の中納言です。
ちなみにもう一人の中納言、大伴家持は多賀城に出張中です(~_~;)
そして難波宮では、やはり大極殿の解体が進んでいる事でしょう。
しかし難波宮大極殿といえば、当時は四天王寺の伽藍と並んで、上町台地の上の二大モニュメントですし、海側からも良く見えたようです。
一般庶民は宮には近づけないにしても、遠目に見たとき、どの程度解体が進んだところで、様子がおかしいと気付くでしょうか?
やっぱり屋根瓦が下されて、色が変わって行くくらいで何かが起きているのには気付きますか??
それが平城に伝わるのに、どのくらいの猶予があるのでしょう???
何よりも、摂津職内部で解体を知らされていないような下級の官人が、何かを騒ぎ出さないのか????
それとも何かの方便で言いくるめて、解体が進んでいるのか?????
本当にこれが秘密裏に出来た事なのか、ある程度の問題がおきてから、蟇蛙騒動だの地相使の派遣だのの勅命が下るのかな??????
疑問に思い始めると、とにかく分からない事だらけは、いつもの事ですがσ(^◇^;)
う~ん、何よりも、移築とは言え、この大極殿が長岡で使い物になるのに、どれくらいの時間が必要なのでしょう……建築にはまるで暗くて分からない(/_;)
延暦四年の元旦の朝賀は、長岡宮の大極殿で行われています。
本日は家で仕事をしていたのですが、昼過ぎ、死ぬほど暑くなってパソコンと資料を少しだけを持って脱出しました(・。・;A
何せ我家のクーラー(窓用の古~~いやつ)は、ここ何年か動かしていない(^_^;)
案内状を貰った市内のカフェでかき氷を食べながらパソコンを開き、以前に大安寺で頂いた『崇道天皇と大安寺』という冊子を眺めておりました。
ここに『水鏡』の桓武天皇の条が抜粋されていたのですが、この史料にしか見られない奇妙な事が書いてあるんですね。
私が特に気になったのが、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)の出て来る件です。
おおよその内容としまして、天応二年(この年の八月に延暦元年に改元)、天皇が皇太子に政務を預けて行幸に出かけた時に、皇太子が佐伯今毛人を宰相に取り立て、これに「佐伯氏より宰相が出た事などない」と種継がクレームをつけた事で、二人が仲違いをした云々……
佐伯今毛人といえば、造東大寺司での働きが認められて、天平宝字元年には従四位下となり、左大弁になりますが、宝亀年間はチョッと不遇(?)、ところが桓武天皇の時代になりますと、再びクローズアップされてきたのか、延暦元年には従三位、同三年には造長岡宮司に任命され、参議にまでなります。
この人より以前の同族として佐伯毛人、全成、常人、百足、清麻呂、御方などの名前が見えますが、何れも五位、四位の人ばかりで、三位にまでなったのは、今毛人くらいだと思います……ってのか、調べてないんだけどσ(^◇^;)
兄の真守や息子の美濃も、確か四位止まりだったかな。
息子は父親よりも早くに亡くなっていますから、もしも長生きしたら父親に続いて参議入りしたかもしれませんが。
これらの人はともかく、今毛人を皇太子が勝手に宰相にしたといえるような事実は見つかりません。
延暦八年に骸骨を請い、翌年に七十二歳で亡くなっていますが、やはり参議止まりで、中納言にも大納言にもなっていません。
では『水鏡』の記述はどこから来ているんでしょう?????
佐伯今毛人ではなく、他の人かと言うと……多分違うでしょう(-_-;)
だってこの頃(延暦元年)の太政官、中納言以上は藤原氏、ほかの氏の参議として大伴家持、石川名足、大中臣子老、紀船守、紀家守、そして神王というメンバーです。
家持と神王以外は朝臣の姓、いずこの家も参議入りには珍しくない人達ばかりです。
念のため申しておきますと、神王は榎井親王の息子で、桓武天皇と同じ年齢の従兄弟です。
宰相もしくは参議になった年が違う、これは事実ですね。
参議に任命されたのは延暦三年の十二月、長岡宮造営の功労によるものです。
そして天皇は遷都はしてますが、特に行幸はしていません。
もう一つついでに申しますと、天応二年(延暦元年)ならば光仁太上天皇の諒闇の真っ最中で、誰が好き好んで喪服で行幸に行こうってんでしょ……八月までは全国に喪服を着用させてました。
もしも『八十島祭』を行ったとしても、次の年になったのではないのかしら、特に難波行幸の記述はないけれど。
さて次の可能性……宰相もしくは参議というのが違うのでは?
そこで性懲りもなく私が思ったのは、昨日からの続き……
娘か孫を皇太子に入内させようとしたのでは、と言う可能性です。
それも今毛人が斡旋したのではなく、皇太子の方から望んで……
う~~~~~ん、この展開って、巧く行くのかなぁ(?_?)
これで誰が何をクレームつけるんだ?
うちの連中、見回しても、天皇も皇太夫人も種継も五百井女王もつけそうにないんだが(~_~;)
ともあれ煮詰まってるから、明日は午後から平城宮跡に出かけて、夜には『光と灯りのフェア』を見てきましょうっと。
う~ん、やっぱり私は勘違いをしているのかも(@_@;)
大伴氏の内紛なんぞじゃなくて、ここの一族こそがスケープゴードか(・・?
この家は果たして確実に、天皇家に妃を出せたのか???
少なくとも天智天皇や天武天皇の時代には、入内した娘はいないようだし、それ以降も見当たらないぞ……
もしかしたら夫人(ぶにん)は愚か、嬪(ひん)ですら出せない家なのか?????
こういう氏族による制限と言うのが、もしかしてあるのかしら???????
私が現在、扱っている時代で后がね――皇后になれる娘を出せる家は、おっそろしく限られています。
はっきり申しまして、皇家と藤原朝臣のみ……橘朝臣は、次の世代です。
その外にいる一族は、后がねとまで行かなくとも、入内できるだけの娘を出せるような家と組む必要でもあるのでしょうかねぇ。
奈良時代に皇嗣を巡る謀反を未遂にせよ起こしたのは、皇族か藤氏か、やはり皇族の意識が抜けていない橘氏くらいでしょうか。
この時代の最後になって、皇位には昇りそうにもない生まれの天皇が出たから、それから外れるような人が謀反を起こすのか?????
この屁理屈って、出家の天皇がいるんだから、出家の大臣がいても良いじゃない……に通じるような気がするんですけど(-_-;)
いずれにしても挿げ替える首は皇族しかいない、このセオリーは貫いているように見えるのだけど、これももしかして何かのトリックなのかなぁ……(*_*;
考えれば考えるほど、釈然としないのが延暦年間の始め頃なのですが……