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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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昨日からやたら眠いです……クーラー風邪と夏バテなんでしょうかね。

一昨日は、パソコン持込OKのカフェにて半日仕事をしておりまして、冷えたの何のって……
ここはフリードリンクにケーキのセットでワンコインなので、とってもありがたいです。
20時まで開いているので、これから仕事帰りに仕事に行こうかな?(゚_。)?(。_゚)?

昨日は午後から奈良市に出かけて、本尊他の仏像搬出後の東大寺法華堂(三月堂)に行き、金堂(大仏殿)にもお参りして、氷室神社で今年もカキ氷を頂きまして、奈良博のミュージアムショップも覗いて、仕上げに奈良公園周辺で行われている『全国光とあかり祭in奈良』を見学して参りました。
こいつを昨夜UPしようと思ってたのですが、とにかく眠い……熱射病とは違うわよね。

ところで法華堂、仏様の半分は別の所(奈良博です)に出張したり、入院中だったりするのですが、残っておられる方々をかなり近くで(ガラス越しではありますが)拝見できるという、かなりありがたい配慮です。
せっかく、東大寺友の会にも入ってるんだし、次の締め切りをクリアしたら足繁く行きましょうかしら。
日光菩薩月光菩薩ともに、これほど間近で拝観したのは初めてですわ(^。^)

今日も今日とて、一昨日のカフェで一時間半ほど仕事をしておりました。
涼しいし、猫の邪魔もないからはかどる部分も多いのですが、私の場合は史料が結構必要なんで、こちらで書いたところを家に帰ってから確認して訂正する必要もあったりします。
まぁ、それでもはかどる方が大きいかな。
また週の中頃に行こうかしら。
……にしても、うちの早良親王、言う事ややる事が父親や兄よりも過激だ(-_-;)
放っておいたら、小黒麻呂なんぞ踏みつけて、自分が陸奥按察使になって出陣しそうだよ(ーー;)
そいう訳で、ただいま構想中は宝亀十一年でした……にしても眠い((+_+))

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どこかの遊園地のアトラクションに乗ろうと言う訳ではありません。
乗って欲しいのは宝亀九年、唐から日本に戻る遣唐使船です。
この遣唐使、かなりいわく付きです。

大使や副使を任命して造船を始めたのは宝亀六年六月、節刀を賜ったのは七年四月、ここで唐に残留している藤原清河への書簡を託します。
この時の節刀大使は佐伯今毛人、副使は大伴益立藤原鷹取です。
閏八月には肥前国で風待ちをしていたのですが、結局、良い風を得られずに博多に引き返し、大宰府で次の夏まで待機を願い出ています。
このため、十一月には大使の今毛人は都に戻って節刀を返上していますが、副使や判官は大宰府に残っておりました。
しかし、この一月後、副使の益立が解任され、小野石根大神末足が新たに任命されますが、この理由は特に記されていません……で、鷹取はどうしたんでしょう、後は名前が見えませんが?
まぁ、大納言魚名の嫡子ですから、さっさと中央に呼び戻されて別の官職に就いたのでしょう。

大使と新たな副使が都を発ったのは八年四月なのですが、何と、大使の佐伯今毛人が羅城門まで来た時に、急に病気だと言い出す始末……仮病だと堂々と言う学者もおられます(~_~;)
それでも輿に乗って摂津まで行ったというのは、マジ、パフォーマンスに思えます。
そういう訳で、副使の小野岩根が大使の代行をする事となり、六月にようやく出航しました。

唐に着いたは着いたで、安史の乱の後ですから、まだ色々とわずらわしい事があったようです。
問題となるのは帰路のそれぞれに船の運命です。
この辺はこちらの記事の最後の方に、簡単に書いております。
ここで気になるのは、第一船に乗船していた女性の事です。

また第一の船は、海中にして中断し、舳(へ)、艫(とも)各々分れぬ。主神(かむつかさ)津守宿禰国麻呂、併せて唐の行官ら五十六人、その艫に乗りて甑嶋(こしきじま)郡に着く。判官大伴宿禰継人、併せて前入唐大使藤原朝臣河清(清河)が女(むすめ)喜娘ら四十一人は、その舳に乗りて肥後国天草郡に着く。

このように見えています。
清河が唐に行ったのは、天平勝宝四(752)年ですから、ここに見える喜娘が生まれたのはその後、唐の事でしょう。
そしてこの人が日本に来たのは宝亀九(778)年ですから、父親が唐に渡ってから早い内に生まれたのだとしたら、二十代半ばにはなりますが、そんな若い女性を大使の船(第一船)とはいえ、百人以上の男がすし詰めになっている船に乗せようなんて能天気、私でも思いません。
可能性としては、かなり若いと言うか、幼女だというところでしょうか。

「海を航海する船に女の人が乗れる条件って何だと思う?」このように友人に聞いてみたところ、
「女と見なされないような年齢とか、地位にいる場合かな?」というような答えでした(^_^;)
それこそ『男女七歳にして』ではないけれど、『七歳までは神の内』、この位の年齢がリミットなのではないでしょうか。

そういう訳で、ここからが私の妄想σ(^◇^;)
多分、喜娘は一人ではなかったと勝手に思っています。
もう少し年上の兄でも同行していて、その世話をしてくれる男性も乗船していたかもしれません。
この一行の内で生き残ったのが、もしかしたら五つ六つの幼女のみ……
幼い命をみすみす波にさらわせなどせぬ、命に代えても守り通してみせる、このように思った人は何人もいたのでしょうか。
もしかしたら、判官の大伴継人にもこのくらいの年齢の娘がいたのかもしれません。
こうして、生き残った幼い女の子は、藤原北家の誰かの家に引き取られたのでしょう。
やがて名前も日本風に変わり、一族の女性たちのように内侍や女孺として出仕をするようになった……『続日本紀』にたった一度だけ見える女性は、もしかしたら別の名前でその後も人生を送ったという可能性は充分にあるのだと思います。

男女七歳にして席を同じうせず

何って『礼記』の、一番有名な言葉でしょう(~_~;)
『四教五経』の一つですから、『大学』でも叩き込まれる書物でしょうけど、それ相応の家に生まれた子供なら、当たり前のように教えられた類だと推測できます……勿論、奈良・平安時代にも。

先程、十八歳にもなった従兄妹同士の男女が、平気でタメ口で交わす会話を書いていたのですが、こういうのって、やっぱり不自然なのかしらねぇ……(・・?
これが姉弟でも、もしかしたらタメ口はまずいのかしら(?_?)?
一応、男子(王)の方は五世王ですので、姉も同じですが、従姉妹となる女子(女王)は二世王、何れは内親王になるはずの身分ですね。
言い方を変えますと、
皇太子の甥と娘という間柄、もしくは二人とも天皇の孫です。
本当に幼少の頃は、双方の親がこの二人の婚礼を考えていたくらいですから、幼馴染みも良いところ。
これに水を差すのが時の為政者らで、お陰で親たちも必要以上に政争に巻き込まれるという、私の考える話には極めて付きものの類です(-_-;)

まぁ、この二人が話をしている場所が皇家のプライベート空間、何れも祖父である天皇の膝元で過ごしているとでも言い訳をすれば、これも可能なのかしらねぇ。
このように、今日も曖昧な設定でご都合的に、話を進めるうめぞーでしたσ(^◇^;)

ところで、常々、埒もない戯言に拍手を頂いているようで御礼申し上げます。
コメントも頂けている旨も、重ね重ね感謝致す次第です。
この後も、意味不明な戯言が盾続くやも知れませぬが、温~い目でお付き合い頂ければ幸いです。
 m(__)m m(__)m m(__)m m(__)m m(__)m

 何を言い訳するのかと申しますと、私は人が起こしたであろう歴史上の出来事については、こうも取れれば、ああも取れるし、こいつも捨てがたければ、あれも可能性は否めない云々と、パターンをひねくり回す事は割合に良くやります。
畝傍山夕景ところが……
恐らくは人の口から出たもので、勝手に独り歩きを始めて、収まるところは超自然的な意味合いに頼る……的な事件は極めて苦手なのかもしれません。

この一つが、称徳女帝が和気清麻呂に命じて、宇佐八幡宮に神託を聞きに行ったような事だったり、天平七年から九年頃に筑紫から畿内にまで蔓延した豌豆瘡と祟りの関係だったりします。
現代人だったら、新型インフルエンザが流行ったところで、誰の祟りだ怨念だなんて騒ぎやしませんからねぇ……(~_~;)

そういう訳で、ただいま悩んでいるのが宝亀八年の暮れに、井上皇后改葬して云々という太政官や宮内省の動きです。
八十過ぎた典侍や、大伴古慈斐が亡くなったのはさて置き、九月に藤原良継が六十二歳で亡くなり、十一月には天皇の不予が記されています。
そして十二月の末には皇太子が病気になり、出羽国での諍いの後に、井上内親王の墓をどうのこうの……という記事が続いています。

井上内親王の廃后事件に関しては、皇后がどういう切欠から何を行い、それを受けて天皇が、どのような命令を山部親王藤原式家の面々にだして、その挙句にどういう事が起こったのかは、私なりに考えております。
この時の山部皇太子にしてみれば、それを今更、誰に祟るのか……祟りたいのはこちらだ!!
大概にしろ、自意識過剰の被害妄想が!!!
とでも言いたい状況なんですわねσ(^◇^;)
何せこの御仁のポジションでモノを言えば、派閥の間の駆け引きとか、政敵を追い落とすといった類とほぼ変わらないのですからね(-_-;)

この時の山部親王は四十一歳(数え)、上代では初老の域に入って行くのでしょうが、官界ではまさに働き盛りという頃ですからねぇ、鬼の霍乱が半年続くって何なんでしょうねぇ(・・?
何か悪いものでも食べたのかしら……それとも何かの方便の為に、わざわざ病気を長引かせているのかな?
この辺、多少の理由は考えているのですが、やっぱり祟りだ触りだの類は、私の話には収まりの悪い要因なのかもしれませんわ。

藤原宮跡の蓮池そうそう、ここ最近、古本屋で買った『日本の怨霊』なんちゅう本を読んでおりました。
読み始めてから、ネット上でのレビューなどを拝見したのですが、やっぱり私と同じ事を思う人も少なからずいるんですね。
確かにピント外れ……この著者は民俗学の先生ですか。
以前に知人から、「考古学や民俗学は学問としての確立が未熟だ云々と史学屋から評された」という類の話を聞いた事があるのですが、ついこれを思い出してしまいましたわ。
この著書が小説的なアプローチとして、もしくはエッセイとして書かれていたなら面白いと思います。
でも著者といい、出版社といい、一応は学術書なのでしょう。
もしそうなら、これはないでしょう……図書館で借りれば良かった(ーー;)無かったけど
だって、根拠不明の前提が考察の半分以上を支配しているんだもの(@_@;)
この分野って、学問として認められていないって事なの、もしかして(?_?)
ここ何日か、雑事にかまけて結構、色々な事をサボっております。
いい加減、何でも良いから書き始めねばと、思いつくようなところから断片的に始めたのですが……
今回ほど、登場人物のイメージが上手く固まらないのも珍しいです。
何と言っても、重要な脇役の名前すらが決まっていないので、書いていてもやり難いの何の……
この重要な脇役が早良皇太子です。
名前とは、以前からぼやいている法名ですね……
この御仁が十一歳で東大寺羂索院に入って、登定等定僧都に師事し、後に権別当となる実忠和上が長らく仕えていたとは、いくつかの史料にたどる事が出来るようです。
その後、十九歳くらいで大安寺に移り、二十一歳で受戒、更に東院を開いて住まいしていた云々も、大安寺に残る史料で見る事が出来るようです。
……なのに、法名は何処にも書いてない(/_;)

橿原市おふさ観音にてかつて私としては、開成親王の諱(いみな:本名)をでっち上げた事もありますので、早良親王の法名をでっち上げる事もしないと言う訳じゃありません(~_~;)
親王が出家した天平宝字四年頃の東大寺を牛耳っていたのは、まあ、ここではいつも出てきます良弁僧都でしょう。
良弁も鑑真大和上が遷化するまでは、僧正に就任する事をためらっていたのか、周囲が躊躇していたのか、この頃はまだ僧都ですが、東大寺の管主である事は動かないと思います。
そういう訳で、三世王を弟子の一人に迎えて法名を与えたとしてですよ……良◎、とでもいう法名で良かろうかと考えていたのですが、ここでつまらない疑問(ーー;)

親王の諱は早良ですよね。
本名の一字が、法名の一字とダブっても良いものなのかしら。
親や主君が名前を与える時は、自らの名前の一字を与えるのは、日本では当たり前の事ですが、中国ではこれがタブーなんですよ。
法界でも師が弟子に一字与えるのはつき物だと思うのですが、本名と法名の関係ってのはどうなんでしょうかねぇ?????
まぁ、良弁師ではなくて等定師の名前でも良いのでしょうが、まかりなりにも皇族が相手ですから、やっぱり管主が名を与える方がありそうな気もするんですわね。

こんなつまらない事に引っかかってないで、もっと確信的な話から書き進めた方が、絶対に効果的なんでしょうけれど(-_-;)
画像は、この内容とは全く関係ない、橿原市のおふさ観音の境内です。
ただいま、『風鈴祭り』を開催しています。
ドイツ対イングランド戦の真っ最中です。
おかしい……さっきのゴールで同点じゃないのか??
とか何とか言いながら、実はドイツの応援しております(~_~;)
おっと、久々に間違ってUPしてしまいました(^^ゞ

え~と、侍従でしたね。
とりあえず、桓武朝の初めに侍従だった人の名前を拾って行きますと、
藤原是公(天応元年9月3日中納言就任)
藤原家依(延暦四年6月20日薨去)、
藤原雄依(宝亀九年2月18日就任)
藤原浜成(延暦元年閏正月18日解任)、
五百枝王(天応元年10月4日就任)、
藤原鷹取(延暦元年6月14日石見介に左遷)、
藤原乙叡(延暦三年7月13日就任)、
藤原弟友(延暦四年正月14日)……
若干の入れ替わりはあると思うのですが、見事なまでに藤原さんだらけ(^_^;)

兼任官を見ておりますと、さすがに中納言以上はないようですが、参議や八省の卿に就任している人も見られます。
欠員が生じると、割合に時期を置かずに新たな人を任命している様子も見えます。
藤原雄依(北家、永手の息子)は十日前に亡くなった奈貴王の後任として抜擢されています。
五百枝王も是公の中納言就任の一月後ですから、後任人事の可能性もあります。
鷹取(北家、魚名の息子)の就任時期が分からないのですが、宝亀十年の十二月に縄麻呂(南家、豊成の息子)が亡くなっていますから、この頃かもしれません。
しかし、浜成と鷹取の解任後の人事がないんですよね。

侍従って、はっきり言って何をしていた訳なの?
うちのスメラミコトも宝亀元年に就任してるけど??
もっとも私の予定では、この人の侍従就任は天平宝字年間の最後辺りになるんですが(・・?
ある日の東の空なにやらこのところ、天気予報が微妙に二転三転しております。
今日も午前中はまとまった量が降るとか何とか言っていたのに、朝早くには雨も上がって、昼過ぎには日が射しておりました。
それで明日は雨なのかな?
昨日の週間予報では、土日は曇りだったのに、今日の予報では曇り時々雨のようです。
予報し難い雲行きというところなのでしょう。
画像は、四月ごろに写した空です。
……にしても、フランス対南アフリカやってます。
マジにフランス、やばいかも(ーー;)
今回のヨーロッパ勢、かなり荒れてるとちゃう?
取り合えず、サッカーはひとまず置いておいて。

ただいままた、変な人物関係のドつぼにはまってます。
本来、何処でも仲が悪いと書かれている人をやや強引に馬が合う仲にして、何がべつの要因というか利害関係が、この二人を離反する関係に持っていってしまうという、まぁ、使い古されたセオリーを考えております。
こいつにかなり関わってくるのが、やはり一番の権力者なんでしょうけど、この人にとってはどちらも失う訳には行かない存在でもある……それじゃ、誰がこの状況の原因を作るんだ?
相変わらず、こんな事ばかり考えております。

……が、問題はここじゃない。
問題は、またもや主人公がどこかに失踪してしまったε-( ̄ヘ ̄)┌
天邪鬼のうめぞーが、諸所で今回の主人公に持たれているイメージを眺めていて、何となく思ってしまった感想です。
これってやはり、二十年近くも鄙に流されていた事と、帰京の後の妙に無欲にも思える後半生の史書の記述に因るんでしょうかね。
かく言う私も、確信を持てるほど『日本後紀』などの史料に当たっている訳でもないのですけれどね。

諸所に散見される仮定として、この人(今回もしつこく名前を書かない事には、大してポリシーはございません)と大伴家持が親密であった云々があるのですが、若い頃のこの人と父親の友人は果たして、どの程度の付き合いがあったんでしょうね。
この人は間違いなく、成人前に父親を亡くしています。
母親は白壁王の娘、つまりこちらの祖父母は皇族と倭史氏、父方の祖父は安貴王、祖母はさて誰でしょう……大伴氏という可能性が全く無い訳でもありませんが。
よほど無理をして考えないと、この人と大伴氏には親族関係がありません。
まぁ、若い頃に迎えた内室を大伴氏にする事も出来ましょうが……(ーー;)
要するに、成人前のこの人の最も身近にいた大人は、母親の親族だと思う訳ですわ。

京都市 藤森神社 090505この人と家持を結び付けるもう一つの要因は、御霊関係から来るんでしょうか。
まぁ、ぶっちゃけて申せば崇道天皇との関係ですわね。
伝承では、崇道天皇の御霊を大和に迎えたのは、この人だという事になっております。
崇道天皇を祀る上御霊神社の小栗栖氏にしても、藤森神社の藤森氏にしても、この人の子孫ですからねぇ……
そして、早良親王と呼ばれた頃の崇道天皇の春宮大夫が大伴家持、そういう訳でこの二人は盟友だ??それって安直に成り立つ仮定なの?????
皇太弟傅という訳ではなく、春宮という家政機関の長官なのよね。

この辺考えて、果たして上記の三段論法、本当に成立する訳なの?
もっとはっきりとした確証を私が見落としているだけ??
ようやく主人公に何とか辿り着こうとしているところに、またもや新手の障害(?)が出てきてしまいましたわ(~_~;)

ところで夕方、西の空が少しばかり赤かったけど、明日は雨は降らないのかしら?
もしそうならば矢田丘陵、行こうかしら……今日一日、史料相手に腐ってたし(--〆)
そんな事よりも、日本対オランダ、キックオフだわね!!!!!
ある夕方の西の空このところの意味不明な画像、今日もいつぞやに撮影した西の空です。
畝傍山の向こうでどっしりと構えているのはどなたでしょう。
山越の阿弥陀の風情には程遠い御姿です。

それはさて置き、悪友候補何人かの経歴を眺めておりますと、つまらない落とし穴に気付きます。
この連中って、若い時は地方官がやたらに多いみたいな……(~_~;)
それもまだ従五位下程度の官位ですから、国守ではなく介です。
天応~延暦年間は、国守と中央官の兼任がかなり増えているので、守は殆どが遥任の可能性があります。
つまり介が現地に赴いて実務に当たっている事になるのでしょう。
……って事は、こいつら都にいるのか、果たして(・_・;)
藤原園人は延暦二年に少納言を拝命しているから、もう備中からは帰って来ているな。
内麻呂こそ、関東の方に行っていそう……甲斐守か?
縄主は中衛少将だけど、三年には伊勢介?続いて美濃介??
葛野麻呂はどうなんだ?まだ六位だなぁ。
紀梶長はどうなのでしょう、この人は武官だから衛府のどこかにいないかしら??

こういう事にかまけていて、主人公の所在が無いんだが……お前、侍従、クビにするぞ(ーー;)
ある日の西の空今日も内容と関係ない画像を上げております。
何日か前の夕方、畝傍山の向こうで、大きな蛟が気を吐いておりました。

それはさて置き、天平宝字四年生まれの主人公の悪友候補として、何となく三人に絞って考えているのですが……
まずは同い年の藤原縄主、それから四つ年上の藤原内麻呂、更に五つ年上の藤原葛野麻呂あたりが無難かななどと、かなりイージーに眺めております。

縄主は式家の蔵下麻呂の息子、多分、武官のスタートで、近衛府か中衛府の所属。
内麻呂は北家の八束(真盾)の三男で、やはり官界での生活は、武官から始まっていそうです。
葛野麻呂は北家の小黒麻呂の長子、この人こそバリバリの武官だと思われます。
まぁ、主人公からして武官なのだし、どの人でも悪くは無いかな。
しかし、縄主と内麻呂って経歴が何となく似ているような気がするのですが……嫁さんに逃げられる事とか?????

しっかし、この週末、また雨続きのようですね……(T_T)
せっかく、大和郡山市の山の方で特別拝観のハシゴ(またもや言う事が不謹慎です)をしようかと思ったのですが、天気が悪いと気分も乗りませんわね。
雨の中、矢田丘陵まで運転するのも、チョッと鬱陶しいかな。
誰か付き合って行ってやるという物好き、おらんだろうなぁ( ̄Д)=3
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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