- 2025.01.20 [PR]
- 2010.06.17 いわゆる人事交代の時期
- 2010.06.16 あくまでも前哨戦?何の??
- 2010.06.15 同世代人を探す
- 2010.06.13 ああ、分からない……そして奇妙な雲
- 2010.06.09 主役は何処?この人は誰?
- 2010.06.05 気のせいかも?
- 2010.06.01 外堀って事か?
- 2010.05.24 明後日に逃避しとらんで……(・_・;)
- 2010.05.23 セカンドマンばっかり?
- 2010.05.19 東北情勢よりも
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先日、桓武朝初期のやたらに多く見える人事関係の記事は、もしかして一種のトリックかもしれないと書きましたが、天応元(781)年の五月に行われている人事は、明らかにかなり大規模な入れ替えです。
これが何に伴うのかと申しますと、ズバリ、桓武天皇の即位(五月三日)です。
それなりに年寄りをリタイアさせて、若い人を抜擢したような動きはありますが、別に今まで役職についていた人が干されたというような露骨な例はあまり見られません。
ところがその後に、ジワジワと旧勢力への包囲網を縮めて行く動きが見えます。
その一つが、かなり以前に書いた、藤原氏の二人の高官を排除する事件です。
京家の浜成と北家の魚名(左大臣)を大胆に追い払った後、藤原四家のトップに立つのは式家の田麻呂(右大臣)です。
ところがこの田麻呂も、延暦二(783)年には亡くなって、次の氏長となるのは南家の是公(右大臣)、その次に続くのは同じく南家の継縄となります。
継縄の異母弟の乙縄も、この後に控えているのですが、この人は天応元年の六月に亡くなっています。
同じく次席を狙って、北家の小黒麻呂、家依、そして式家の種継が続いているのですが、延暦四年に家依と種継が相次いで亡くなり、気が付けば藤氏の勢力は前時代に比べると、一歩も二歩も後退したような感があります。
この包囲網、決して藤氏にのみ向けられたものでない事は周知の通り……この時代というのも考えようによっては、聖武天皇の時代以上に天皇権力が大きくなって行くように思えます。
この二人の専制君主、かなり共通点がありそうな気がするのですが、もう一度見直してみませんといけません。
画像は御存知、東大寺金堂の本尊、毘盧舎那仏の膝と手です。
膝から下、台座の蓮弁は創建当初、つまり初代の大仏さんからの物です。
陸奥や出羽での反乱の動きは、宝亀年間の初っ端から見ています。
最初は噂の真偽を確かめる程度で済んでいるのが、宝亀五年には行方郡の郡衙の炎上という形で現れ、鎮守府将軍の大伴駿河麻呂に軍隊の発動を命じています。
それに前後するように、桃生城への地元勢力の侵攻が報じられて、坂東諸国に援兵を出させる事態になって行きます。
翌年には、出羽国が国衙を移したい旨を言上してくるし、さらに翌七年には、夏を待って陸奥国の賊の一掃にかかりたいと、出羽の兵力四千を動員します。
ところがこの隙を突くように、出羽の志波村での叛乱が起こり、さらに関東からの援軍を要請しています。
冬にはこの動きも一旦収束したようですが、翌八年、再び出羽に兵火が起こり、陸奥按察使の紀広純は覚べつ城(字が出ませんわ(-_-; )の造営を中央に言上します。
これら東北経営には、入植者は勿論、元々この地に住んでいた人々の協力が不可欠です。
律令政権に帰属をしたこれらの人々を俘囚と呼んでいます。
道嶋宿禰の一族が、中央にもコネクションのある俘囚の名士として認識されているようですが、この人達に反発的な人々も勿論いたようです。
その代表たる伊治呰麻呂が、伊治城で兵を上げて紀広純を殺害し、更に勢力を率いて多賀城を焼き討ちしたのは宝亀十一年の三月の事でした。
さて……この頃の平城京では、天皇は既に老齢で病床に臥している状況だったと思われます。
実権は既に皇太子に移り、その同母弟も既に東大寺を出て宮内に入っていた(内道場か?)可能性もありますし、ひょっとしたら既に還俗していたかもしれません。
私としては、後者を考えているのですが、確証は特にありません。
この兄弟が陸奥に送り込んだ持節将軍が、藤原小黒麻呂です。
この小黒麻呂、東北を巡る情勢に関しては、紀古佐美や大伴家持、百済王俊哲などと並んで、かなり胡散臭い人物の一人です。
ただいま、この辺りの人達と中央政府要人の派閥を考えているのですが……
だ~か~ら~、この動きに主人公はどういう形で関わってくるのさ?
それが全然見えて来ないじゃなのの(T_T)
少なくともこいつは、早良親王も大伴家持も藤原小黒麻呂も紀古佐美も嫌いなのよ……
本当に、つかみ様のない人物を選んじまったわな、我ながら(~_~;)
主人公は天平宝字四(760)年生まれです。
同じ年に生まれた人は、藤原乙牟漏(式家・良継の娘)、藤原縄主(式家・蔵下麻呂の長子)の二人がいます。
乙牟漏の生年をもっと以前に持ってくる説もあるのですが、まぁ、ここは『続日本紀』の亡くなった年齢から逆算して、同年としておきます。
そして一つ年上を探すと、紀広浜(古佐美の長子)。
二つ年上が橘清友(奈良麻呂の子)と、坂上田村麻呂(苅田麻呂の次男)。
四つ年上が藤原内麻呂(北家・八束の三男)。
五つ年上が藤原葛野麻呂(北家・小黒麻呂の子)、藤原園人(北家・楓麻呂の子)。
六つ年上は紀梶長(船守の長子)
七つ年上は藤原雄友(南家・是公の三男)という具合に出てきます。
逆に一つ年下は、藤原乙叡(南家・継縄の子)、他戸親王がいまして、三つ年下に藤原綱継(式家・蔵下麻呂の五男)、四つ年下は紀百継(木津魚の子)がいます。
まぁ、探すのは別に簡単なのですが……どいつもこいつも、まったくイメージが湧かない野郎らばっかり(ーー;)
誰を悪友候補にしてやろうかしら……あまり年上は却下するとして、藤原氏では、後に奥方に逃げられる堅物の縄主とか、要領良い割には影の薄い内麻呂とか、親の七光りでチョッと愚図ったい印象の乙叡とか(~_~;)
橘清友とか捻くれてそうだし、紀広浜とか実は頭悪かったりして???
いえ、あくまで勝手な印象ですから、史実とは違うと思いますが(-_-;)
画像は特に意味もなく、水晶のアップ……こういう天然物が好きです(^^)
しかし……誰なのか分からない人だらけ(ーー;)
藤原氏ですら代替わりが始まっていて、いったい誰の息子?
南北式京、いずこのお宅の出身ですか??
まだ、これだけの高官ならば、少し調べれば分かるのですが、ようやく従五位下に叙位されて名前が初出の人には、それすら分からない人もいるんですわ。
ましてや女官ともなると、全く誰の娘か孫か曾孫か……(・・?
そして全く動き出さないのは主人公……
この人の腐れ縁の相手というか、悪友候補を探したいのですが、これがまた見つからない(T_T)
一番年が近いのは、坂上田村麻呂で二つ年上なのですが、天皇の甥の主人公とは、何となく立場が違いすぎて接点が無いんです。
父親は三位、しかし非参議……やっぱり、権門の息子の方が動かしやすいのかなぁ?
この御仁、主人公の同母姉には惚れてるのですが、高嶺の花(おまけに年上)と指をくわえる日々……みたいな、どうでも良い設定はあるんですけどねぇσ(^◇^;)
取り合えず、画像は三月末に写した写真の中にあった、何とも奇妙な雲です。
どちらも動物系に見えるような……
能登守従五位下三国真人広見、謀反を誣告するに坐せられて、斬すべけれども、死一等を減して佐渡国に配さる。
件の藤原種継の暗殺劇から一月半の後です。
三国広見はこの時は既に能登守ではなく、前能登守が正しいようです。
能登守の前には越後介、就任したのは延暦元年の六月です。
その前には主油正(あぶらのかみ)ですが、この事件が起きた時に都にいたとしても、暫く地方に赴任していたのだと思われます。
それとも能登守は遥任で、延暦年間の初めから都にいたのでしょうか。
この人の誣告と、種継暗殺事件とが関わりがあるのか、全く別の騒ぎなのか、史料を眺めていてもはっきり分かる事は無いようです。
長岡遷都間もない次期ですから、件の事件前後にも、謀反騒ぎに結びつくような不穏な動きがあってもおかしく無い情勢なのかもしれません。
こういうネタに、安直に飛びつくべきやら……どうもまだ、時代や人物をはっきりと掌握していないのが、我ながら良く分かって情けないかな(~_~;)
相変わらず、主人公がどこにもいない……今回はかなり至難なパターンだわ(ーー;)
とにかくこれでもかという数の人事改正が行われているような気がするのですが、これも一種のトリックかもしれません。
先日にも書きましたが、この頃から五位の人達が多くなりすぎているのか、それ以上のポストに兼任官が多いためなのか、本来は六位や七位の人達が着くべき官職に、従五位下(上)、外従五位下程度の官人が着けられています。
史料に記されるのは、基本的に五位以上ですから、とにかく五位の人が増えているのは確かなのでしょう。
それにしてもここでよく見える名前があります。
藤原氏は勿論なのですが、紀氏、佐伯氏、石川氏、文室氏って、前朝でも、こうも多かったかしら?
それから真人の姓の人も多いですね。
これは孝謙天皇の頃から、皇孫やその子供らに賜姓して臣下に下ろす傾向が増えているせいでしょうかねぇ?
真人姓の人のみでなく、皇族も割合に多いような気がします。
気のせいかと思ったのですが、やはり桓武天皇は皇族や紀氏(父方の祖母の家)の人々を官界で活躍させる事で、王権の支えの一つとしようとしたのでしょう……やっぱり前途は多難という見方が、かなり大きく圧し掛かっていたんだよね(・_・;)
藤原氏に関して言うと、何となく南家寄りのような気がするんだけど、これはどうなんだろう?
別の方面からも眺めてみませんとねぇ。
画像は内容と関係なく、大和高田市内のお寺にあった幕末期の石仏です。
葛城地域らしく『役行者』ですね。
地蔵菩薩ほどではありませんが、この辺りでは時々見られます。
相変わらず、何か傾向が見えないかと、天応元年以降の任官や叙位を眺めております。
普通、史書にこの類の記録が残るのは、五位以上の人ばかりです。
この人達の任官の傾向ですが、この頃から本来の相当官位よりも下位のポストに就けられる例が散見される様な気がします。
まぁ、五位以上の官人が増えているからポストが足りなくなるのでしょうが、上位官人の兼任が多い事も原因なのかもしれません。
それはさて置き、かなり短いスパンで多くの人数の任官が行われているのですが、これが四位以上の人が殆ど見られない……
本来は長官クラスの役職につく人達が、次官クラスに任命されているような傾向も見られます。
どうして次官や判官らの人事が多いのか?
この辺りのポストから人事改革をしたいのか??
う~ん、やはり、前朝の政策や人事を引き継ぎたくない、そういう意思の表れなんだろうか???
もう少し別の方面から見てみませんと……
朝猟が改修をした多賀城は、四方の築地に四脚門や長屋などを設けていたようで、まぁ多分、親父殿の唐風かぶれを反映したような物だったらしいです。
この築地や門が焼け落ちるのが、件の反乱に因るのだそうですが、構造上、攻め易かったのかもしれません。
この辺を本日、電車での移動中にボケラ~ッと考えておりました。
超タカ派(の予定)の早良親王が、応急の方針として多賀城再建に当たっては、旧来通りの最低限のサイズで門を構えるべきの云々と、既に摂政の宮となっている皇太子(つまりは同母兄)に提言しているようなシーンを何となく想像していたのですが……
この場に主人公っていられるの?
こいつが侍従になるのはもう少し先じゃなかったか??
本当に今更ながら、こいつを主人公に選ぶと話が進め難いの何の……(T_T)
でも数年前には、この辺の話の主役はこいつに決まってたんだよね。
おまけに、当初から早良皇太子と仲が悪いのに、どうして最後にはああなるのか、全く作者として整理がついてないのですから……ってのか、藤原種継とも不仲なのよね(~_~;)
誰か仲良しの相手を設定しないといけませんわ、粟生江内親王以外に(/_;)
えっ、大伴家持の息子??(?_?)??
多分、一回り以上は年上だし、う~~ん、辛気臭そうなキャラクターになりそう……
藤原永手の息子……とも、気が合いそうに無いような(ーー;)
ところで、こいつ呼ばわりされている主人公って誰?σ(^◇^;) ?
蛇足ながら、上の画像は猿沢池に浮かんでいた龍頭鷁首の船、天気が良ければ池の遊覧をするはずなのですが(多分、次の日曜日まで実施)
この日とは、天応元(781)年四月三日、皇太子とは山部親王です。
この翌日には、同母弟の早良親王が立太子しています。
そして八日、司召しと県召しが臨時に行われているのですが、奇妙な事に各司の次官クラスの人ばかりの任命です。
このような人事は、私の記憶ではかなり稀ですが、何か特別な意味があるのでしょうか?
だからと言って、この時に任命されているメンバーを見たところで、この先の出来事のキーパーソン的な人もいないのですが。
むしろ注目すべきは、十四日の東宮関係の人事でしょうか。
中納言従三位藤原朝臣田麻呂を兼東宮傅とす。中務卿は故の如し。右京大夫正四位下大伴宿禰家持を兼春宮大夫。従五位下紀朝臣白麻呂を亮。
延暦四年辺りまでを眺めてみますと、何れもかなり胡散臭い(?)メンバーです(・_・;)
式家の氏長となった藤原田麻呂、この人は一見、無難な人事にも見えるのですが、姪の乙牟漏の立后がこの人の薨去の一ヵ月後というのは、どう考えるべきなのでしょうか。
考えようによってはこの御仁、前時代的に保守傾向にあったとも取れますが……
そして大伴家持は言わずもがな、紀白麻呂も延暦四年九月の事件には、連座を問われています。
紀氏としての縁戚が分からないので、この人をどのように捕らえるべきなのかが、今のところ全く決まっていないのですが、紀氏にしろ大伴氏にしろ一枚岩の結束なんて事はほぼ無いでしょう。
藤氏にいたっては、四つの家の足並みは当の昔にバラバラ、各家の事情も穏やかならぬ状態のような気が致します。
しかし、このメンバー、どいつもこいつも主役はれるのはいないような気がするわね……
今までの主役が出世しすぎたので、若い甥を主人公に任命したところ、どうも周囲が良く見えない様な気がしまして、作者としては全くの足踏み状態です。
まあ、今回こそ、主役交代は無いと思うのですが……(-_-;)
何せ今まで、ずっと避けていた人が何人か、全面的に出て来るんですよね。
この人達に関わると、従来の登場人物の人格がかなり変わりそうな気がしますから。
一人は言わずと知れたうちのスメラミコトの同母弟……兄弟仲は殆ど他人(ーー;)
特に弟の方に、その意識が殆ど無いんですよ。
多分、両親に対しても同様な感情を持っていそうな気がします。
それなのに、両親や兄から押し付けられたも同然の妃には、何がしかの愛情を持っています。
この辺、政略結婚の相手を決して嫌わなかった同母兄と同じですが、感情の表し方は多少違うでしょうねぇ……ってのか、作者自身がまだちゃんと考えてない(*_*;
そういう訳で、この人にはもう少し腹を割れる相手が必要なのですが、これがまた一筋縄じゃ行かない設定なんですわ。
こうしていつも、自分で自分の首を絞めているうめぞーでした(/_;)(T_T)(/_;)(T_T)(/_;)