- 2025.01.20 [PR]
- 2010.05.17 道程が遠い……何せ陸奥国(・_・;)
- 2010.05.14 どこぞの住宅事情(^^ゞ
- 2010.05.12 はったり半分以上……いつもの事だろ(ーー;)
- 2010.04.20 大君か天皇か、それが問題かも(-_-;)
- 2010.03.30 でも、ボヤキたいのは私だ……
- 2010.03.24 もういい加減に、東大寺から離れろって(ーー;)
- 2010.03.16 きっかけを考えなければ
- 2010.03.11 そりゃもう、分からないわ(・_・;)
- 2010.03.10 やっぱり名前が分からないの
- 2010.03.07 分からない訳じゃないのだけれど
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12時過ぎに入場して、17時まで目一杯かかって、図録や何かを買う暇も無いって……何でそういう事になるんだ?
別に、入場制限もなければ、混雑しすぎていて列が前に進まないなんて事は、ほぼなかったのに(~_~;)
まぁ、また今月中に一度くらいは奈良市に行くと思うので、図録などはその時に買えばよいでしょう。
しかし、重そうな分厚さだわね。
こちらに関する与太事は、そいつを買って来てからにしますわ。
あのように通して見てみると、東アジアの情勢も勿論、国内での勢力均衡など、かなり面白い事が分かりますね。
ちなみに画像は、特に関係なく、この日の夕方に見る事の出来た天体ショーですね。
それはさて置き、昨日(既に一昨日)から、奈良時代に見える東北関係の記述を『続日本紀』から拾い出しているのですが、これが思いの他、多いようです。
恐らくはこのこの時代以前から、陸奥や出羽への半強制的な移住が、北陸や関東の諸国に課せられ、かなりの規模での開拓が進んでいるのだと思います。
城(き)や柵(さく)という単位の村が、入植者らによって蝦夷の地に作られて、国司の管理下に置かれるようになり、これに対して蝦夷の人々が反乱を幾度が起こしています。
神亀年間まで書き出してみたのですが、その三十年弱の間に、三度も反乱の記事が見えます。
これに隼人の反乱も加えれば、四度ですね。
特に藤原不比等の亡くなった年、養老四(720)年の二月には大隈の隼人が国司を殺害、中納言の大伴旅人が大将軍に任命されるものの、太政官のトップの死去を受けて呼び戻されています。
更に九月には陸奥で蝦夷の反乱、按察使(あぜち)が殺害される事件も起きています。
翌年の七月に、筑紫からも陸奥からも征討軍は戻って来ていますが、聖武天皇が即位して間もない神亀元(724)年の三月に陸奥国の海道(太平洋岸に住んでいる)の蝦夷が、またもや国府の役人を殺害して反乱を起こしています。
ここで大将軍に任じられるのは藤原宇合です。
ところで養老四年の反乱以降に『鎮守府』の名称が散見されるようになります。
多賀城の発掘などによっても、鎮守府がある程度形になったのはこの時代で、更に整備されたのは藤原恵美朝狩(仲麻呂の四男)が赴任した後だろうという事が、判明しているそうです。
しかし、まだ、そこまでの道程が遠いの何の……この後、藤原麻呂による街道の整備なんぞもあるはずだし、結構、頭に入れて置かなければならない事だらけ。
宝亀十一年なんて、遥かな先ですわ……(/_;)
気が乗っている訳でもないのに、いささか強引に書き始めました……
既に設定がちゃんとしていない事が判明(ーー;)
一連の話につきものの、左京北一条第と左京四条二坊第の二つのお屋敷があるのですが、さて、今回の主人公はどっちに住んでいるんだ?
これから書く事は、あくまでも設定ですから、あまり深く追求しないように御願いしますm(__)m
北一条第は主をたどる事が出来るのですが、宝亀四年で曖昧にしているんですわ。
ここの最初の住人は志貴親王、次が長子の春日王なのですが、この段階で屋敷の規模はかなり縮小しています。
初代は親王ですから四坪の屋敷に住めたのですが、息子の代になって一坪占有の第になります。
そしてこれは三代目の白壁王に引き継がれるのですが、この御仁の即位が決まりますと、嫡子の山部親王がここの主になります。
この辺で問題……四条の第は市原王の屋敷です。
市原王の亡くなった後、未亡人と子供たちは実家に戻ります。
実家は件の北一条第です。
そして四条の第の住人は、白壁王の嫡男の山部王になるのですが、宝亀元年には再び子供の頃から過ごした北一条第に戻る事になります。
では、四条第に住むのは誰?????
市原王の子供たちは、まだ成人してませんしねぇ……
まぁ、この時代の京内の住宅地は、あくまでも官有地ですからねぇ、相続云々を心配する必要も無いのでしょうけれどね(-_-;)
何やら書いておりますと、任官や叙位をはじめとした人事関係をどう考えて良いのかが、常に疑問に思えてくるんですよね。
研究者の著述を読みましても、どうもこの辺が曖昧のようで、基準を平安以降の例に求めて強引な考証をしているような気がしてならないんですわ。
本当に困るのが、途中で出来たような令外官ですね。
奈良時代を通してみても、こいつがコロコロと名前や職掌を変えてくれますから、平安時代になったらかなり変化している場合が少なからずあります。
特に武官……舎人や衛府関係ですね。
調べるたびにドつぼにはまって、さあ大変……という事になるので、かなりの張ったりを利かせて誤魔化すのが常ですσ(^◇^;)
さて、そろそろ奈良時代も最晩期の事でも書こうかと、少しずつ頭の切り替えを始めております。
年号は既に延暦。
珍しく主人公は、妙に色気づいております。
こいつを感情の赴くままに動かそうなんていう気は、作者には更々無いので、彼の恋心は全く実る事はなさそうです。
だって、いつものように胡散臭い展開が待っているんだもの……宝亀年間以来の東北経営の行き詰まり打破もあるしねぇ。
本当にこの話、形になるのかしら(・_・;)
ともあれ、上の画像は遷都1300年祭で行われている、衛士による朱雀門閉門の儀です。
もう一つついでに……こちらのブログ、新たに『拍手』の機能が追加されたらしいので、設定してみましたが、どうしたら拍手を貰ったかどうか分かるんだ?
全然、分かっとらんな、我ながら……(-_-;)
まぁ、分からなかったら、そのうち取っ払うけどね。
全記事にくっ付いてるのが、かなりうざったいしねぇ(八王子弁でした)
特集の記事の中で監修の古代史の先生が、藤原氏による官僚政治の確立により天皇権が弱くなったのが奈良時代云々、といった内容を言われておりました。
これってどう捉えれば良いのでしょう……つまり、天皇権が最も強い時代をいつに置いての発言なのでしょうねぇ?????
律令制を導入した事により、専制君主による独裁体制ではなく、官僚による合議政治らしきものが始まったのを飛鳥時代に置くのか、白鳳時代に置くのか、奈良時代にまで持ってくるのか……
私個人の意見では、天皇権が最も強化するのは、決して天武朝でも持統朝でもなく、聖武天皇以降だと思うのですが……
なんちゅうか……監修者の先生、とにかく藤原氏に対しての過大評価をし過ぎているような気がするのですけれど、それが転じて天皇権の低下とするんでしょうかねぇ。
こうなると、一大専制君主(になりたかった)桓武天皇なんて、どう解釈するべきなんでしょ(ーー;)
まぁ、要するに、この先生の意見には同調できないと言うだけの事かね。
もしも十二年前に親父が失脚などの憂き目に会わなければ……ただいまの主人公候補は、ボヤキ全開で前頭葉灰白質上を駆け巡っております。
もしそうならば、親父殿は今頃は八省のどこかの卿くらいは勤めていて、もしかしたら参議にも名前を連ねているのかもしれない。
そうならば俺には親父という最大の後ろ盾がいる事になるはずなのに、今の俺にはそれらしい者もいない。
この先に俺の身に降って来るのは、俺自身の生まれを問うような為政者の家との婚姻関係だろうか。
後ろ盾のいない皇族官人など惨めな者だ、親父自身がそれを一番知っていたはずなのに、あの時の親父はどうして、右大臣やその取り巻きらを裏切るような行為に走ったのだろう。
俺の祖父は天皇で、俺の叔父も今はその地位にいる。
そして次にその地位に着くもう一人の叔父を俺は多分、嫌っている……更には、もう一人の主人公候補がその左側の方で悩んでおります。
俺は別にその人に取って代わりたいなどと言う願望は微塵も持っていない。
俺が欲しいのは、その人が望んだ訳でもないのに得た立場、俺が望んでも得られぬ立場だ。
日嗣などではない……俺にはそのような大それた野望などない。
俺が欲しいのは、たった一人の女だ……
これ別々の話のネタです(・_・;)
で、私の書きたいのは息子の世代か、それとも孫の世代か?
いかんなぁ……この数日、かなり混乱してるわ。
またぞろ、この歌が気になって仕方が無いんだが、いったい何の病気なの?
何となく仏頂面で歌っている男の子が何と言う訳でもないんだが、最後の礼の仕方がちょっとかわいらしいかもσ(^◇^;)
本日、旧暦の如月の望月という訳で、トチ狂う一歩手前のうめぞーでしたm(__)m
それなのにツバメが来ていました。
確かにもう、そういう季節になりましたか。
先月までずっと、白壁王を主人公にして書いていたので、どうもその世代から妄想が抜け出せなくていけません。
そして先日からの妄想は、息子を通り越して孫の世代……これがまた、嫌になるくらい胡散臭い面子ぞろいで嬉しくなって来ます(ーー;)
あ~っ、大伴氏に佐伯氏に紀氏に坂上氏に藤原北家だよ……何か、武官だらけ(ーー;)
全然、妄想が泳ぎ出さないじゃないの。
もう一度、息子の世代に戻ろうかしら。
そうなるとまた、東大寺がクローズアップされてくるかな、部分的に(ーー;)
一度、寺からも坊主からも離れたいんだが……だから宗教政策が大事なの?
それはさて置き、昨日(既に一昨日)に東大寺の勧進所の桜を眺めていて、何となく疑問に思ったのですが、公慶上人のお墓ってどこにあるんだ?
確かこの方は、綱吉や幕府閣僚らに会うために江戸に行っている時に亡くなっているんですよね、記憶が正しければ。
そしてまだ十代の弟子に、後事を託さなければならなくなるのですが、この弟子も有能な方だったらしく、江戸での駆け引きは何とか収まったのかな……う~ん、記憶が曖昧です。
ところで江戸時代には、御大名などでも亡くなった場所に墓が造られると聞いた覚えがあるから、この方の御墓も江戸にあるって事になるのかしら?
それとも僧侶の場合は違うのかな?
この辺り、数年前の奈良博の特別展の図録に、結構詳しく書いてあったわね……で、それはどこにあるんだ?職場か?誰にも貸した覚えないから、家の中にあるのか?
まあ、気が向いたら調べましょうっと。
どういう訳か私は、俊乗坊重源よりも龍松院公慶の方が好きらしいんで(^。^)
などという質問を同僚にしてみたところ、
「そのシチュエーションって、かなり王道やねぇ」と言われてしまいました。
それこそこの前見た映画の『沈まぬ太陽』ではないけれど、組合の同士として会社の姿勢に立ち向かっていた二人の男が、気が付けば片方は邪魔者扱いで左遷まがいの海外勤務、もう片方はいつの間にか会社の経営陣の一角を担うようになる。
確かに良く見るドラマの展開ですね。
私が今考えているのは、一人はボスの片腕、もう一人はボスの弟、この二人は最初はかなり気が合います。
弟の方が実の兄よりも、その片腕を慕うような関係でおりました。
まぁ、実はかなり良く似た人種なのでしょう。
それゆえに相手の考えが分かるというか……相手に自分とよく似た欠点まで見つけてしまうというか、似すぎているから諍いを起こすようになるのだと思います。
そして何かのきっかけで破局。
ここから相手を葬らねば、自らが滅ばされる関係に陥って行き、挙句は共倒れ。
このような成り行きを考えております。
ところがこの二人の物語はあくまでサブストーリーでして、本来の主人公は彼らよりももっと若い男女です。
私が男女の物語を書くなんて、人工衛星が降ってきたらどうするつもりだ!、とでも言われそうですが、この二人恋仲という訳でもありません。
だって女性の方はボスの弟の奥さんだよ。
まぁ、多分、男性の方は彼女に子供の頃からの恋心くらい持っているのかもしれませんが、立場が違いますから、実るような思いでもありません。
かくして、この二人の周囲でいつものような権謀術数が展開するのですが……
何でこんな話を書こうとしているんだ、私ゃε-( ̄ヘ ̄)┌
うちのスメラミコトの趣味(?)の一つに鷹狩があるんですね。
鷹狩の具体的な方法というのを私はかなり不勉強で、話の中でこの狩のシーンを書いた事は一度もありません。
それはともあれ、鷹狩の対象の獲物は小動物です。
それこそ、鳥類とかげっ歯類とか……げっ歯類って、つまりウサギとかですね。
しかし、うちの連中が、こんな獲物で満足してるのかしら……?
かつて書いていて放り出している話の中では、白髪皇子なんざ、弓を使うなど序の口、平気で槍は振り回す、鉾はなぎ払う、挙句の果ては大刀小刀で獲物の止めも自ら刺す……さすがは六世紀生まれ(五世紀ではないのが、こちらの話の特徴です(ーー;))
多分、山部王や手嶋王も、山背の祖父(山部の母方の祖父です)の元にいた頃は、こういう事を教わっているはずなんですよね。
何せうちの倭史氏は、全然、文人系じゃありません。
五衛府全てに一族がいるというくらいの、武人氏族だったりしますから。
このような曽祖父、祖父、大叔父、伯父、叔父、従兄弟らに囲まれて、いったい何歳くらいの時から一緒に狩に行って、どの程度の事を教わっていたのでしょう。
う~ん、十歳を多少越えた頃には、自ら獲物の止めをさすくらいはしていたかも……
先日、奈良国立博物館で特別陳列『お水取り』を見てまいりました。
この陳列、毎年恒例になっていまして、実のところ不謹慎にも、昨年とどこが変わったのかしらと毎年思って見ております。
今年は『東大寺要録』が出ておりまして、ちょうど開いて展示されていたページが『東大寺権別当実忠二十九箇条』の部分でした。
これがまた、漢文ですから私では全然読めませんわ……(/_;)
最初の行に「是以親王禅師教垂……」の文字がありましたので、実忠和上が東大寺の政所を仕切るようになった後も、親王に同意を求めた云々の、有名な内容が書かれているのだと思うのですが。
これから書こうという話には、それ程、東大寺が全面に出て来る訳でもないのですが、相変わらずキーポイントの一つである事は変わりません。
ついでにしつこく言いますと、坊主の名前が本当に分からない……上記の親王禅師の法名をでっち上げにゃなぁと、以前から思っているのですが、良い候補名が出て来ないんですよね……
もっとも今回書く話では、この御仁は八つかそこら、出て来る可能性はほぼありません。
何よりも、まだ出家していないもの(・_・;)
何でチョイト気を抜くと、この御仁の名前がフゥッと出てくるのやらε-( ̄ヘ ̄)┌
むしろ今回必要なのは、開成親王ですわね。
この人の出家前のキャラクターをもう少し詰め直しませんと。
そういう訳で、これからは当分、開成王&山部王の話で進んでゆくのかなぁ。
それはそれで、かなり楽しいかもσ(^◇^;)
つまり、この戯言に出てくる人事関係は、私の書く話の中でのみ通じる事が殆どです(-_-)
うちのスメラミコトの一家は、建設畑と防衛畑が多いと思ってたのですが、これがとんでもない間違い……
志貴親王、白壁王、山部王、三人とも中務省出身?????
そもそも建設省じゃない、造宮省自体が臨時の司なので、こちらのトップクラスに任命される人って、何処かの司からの出向とか兼任が多いんですよね。
おまけにトップは名誉職(知事など)の場合も多いです。
この類って、やっぱり皇族が適任なんでしょう。
だから実質的な事を掌握して動かして行くのは、次官以下の人たちになります。
まあ、造東大寺司の市原王と佐伯今毛人みたいな関係ですかね。
ところで防衛族……こいつは完全に作者の趣味でしょうσ(^◇^;)
上記の三人の内、実際にこのポジションにいた形跡の人は誰もいません。
……っちゅうか、建設族であった事も中務畑にいた事も、史実としてはほぼ無いのですけれどね。
大学寮は式部省の管轄下ですしねぇ。
今現在進めている辺りの話、放って置くと一家が太政官と皇后宮職(紫微中台)に分かれて、冷戦に巻き込まれかねないような状況になって行く……(・_・;)
この状況、どちらに転んでも、この一家が藤原氏とタッグを組んでいる事には変わりないのですが。
これが後ろ盾の無い諸王の生きる術……とは、志貴親王の世代からの教訓なんだろうか?(・・?