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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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被災された方々へのお見舞いを申し上げます。

本当に言葉をかける事と祈る事くらいしかできない事が、重ね重ね申し訳ない状況です。
奈良県下は震度3~2、私などは自動車で移動中だったので全く分かりませんでした。
私も静岡県の東部の出身なので、伊豆の群発地震は何度も経験しています。
毎日、震度4~3が一度や二度来るのは当たり前の状況を一月程度経験した事もあります。
しかし、今回はそのような例の比ではないと思われます。

この週末も用事で奈良市まで出かけたのですが、寺社の本尊や社殿の前に立っても、自分の事など祈れませんでした。
それなのに、手水も使わず、手も合わせず、お賽銭もせずにカメラや携帯電話のレンズを向ける人々は、老若男女問わずに少なくないのに心苦しくなって来ます……それに声を上げられない私も、同じなのかもしれませんが。
建設関係の知人は、既に災害復興に向けて会社が動き出していると言い、復興景気を狙っている訳でもないけれどと、どこか複雑そうに言っています。
しかし、企業を始めとした民間の協力も必要不可欠です。

友人からは関東、東北でも電力需給が底をつくから、中部電力や関西電力からの供給が始まるので、皆で節電を呼びかけ心がけましょうという内容のチェーンメールが何通も届いています。
それなのに夜のニュースでは、周波数が違うために供給は出来そうにないと言っています。
それでも、少しでも節電に心がけるように致します。
先ずは不必要な電気は切って、コンセントは抜いて、夜更かしもしない……

それにしても、私を含めてこちらでの対岸の火事といった様子には、つくづく申し訳なく思います。
こちらの更新は気を引き締めて、ボチボチやって行こうと思っています。
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橿原神宮の巨大絵馬
巨大絵馬と言っても、これだけ写されても大きさ分かりませんわね……(ーー;)
こちらの記事の画像に写っておりますが、チョッと分かりにくいでしょうか。

そういう訳でいつものように内容とは関係ない画像です(^^ゞ

今日は朝から仕事の延長で出かけておりまして、本当ならその後に宴会の予定だったのですが、朝起きた時から体中がダルイの痛いの……風邪です(T_T)
キャンセルして大人しく帰って来ました。

ところで以前、山部王よりも吉備泉の方が位階が高いから云々と書いたと思うのですが、これ、実は大きな間違いσ(^◇^;)
個人年表の天平神護と神護景雲を見間違えていたようです。
天平神護二年に山部王が従五位上になり、恐らくはこの時に大学頭にも任官したと仮定します。
この時に吉備泉はどうなのかと申しますと、多分、従五位下の近衛将監です。
そして翌年の神護景雲元年に、大学員外介も兼任となり、同じ年の十月に従五位上に叙位されて、ようやく山部王と並びますが、やっぱり頭と員外介なんですよね。
この二年後の神護景雲三年に泉は正五位下になるんですが……まだ員外介なのかしら?
この時にはまだ山部王は従五位上のままですが、翌年の宝亀元年には従四位下に叙位されて侍従に取り立てられ、同じ年の11月には四品親王となります。
泉はと申しますと、やはり7月には従四位下??8月には侍従になった山部王に替わって大学頭のなります。
何か、この二人、相当に仲悪いのかしら……?
いえ、人事は太政官やら式部省の管轄なので、この二人がどうのこうのというレベルの話ではないのですが……右大臣、何か裏から手を回してない?(ーー;)?
今日も内容と関係なく、カフェことだまのケーキセット(^^ゞ
藤原雄田麻呂が百川と改名したのは、恐らく光仁朝の始めの頃だと考えられています。
一昨日から書き直しを始めている話でも、初っ端から山部親王が「雄田麻呂」と呼びかけて、「百川です」と答える詰まらないシーンがあります。
これをこの一家が、いちいち繰り返してくれるという、更にどうでも良いような場面もあったりします。

何やら、奈良時代の後期には、名前を変える事でも流行ったのでしょうか?
皇族が賜姓されて名前が変わるのも多いのですが、藤原仲麻呂が藤原恵美押勝になり、藤原八束が真楯になり、千尋が御楯になり、宿奈麻呂が良継になり、文室智努が浄三になり……他にも例があるはずなのですが、あまり思い出せませんσ(^◇^;)

随分以前から疑問に思っていたのですが、この頃って幼名は平安時代ほど普通にあったのでしょうか?
推古天皇の幼名を額田部皇女といったと、日本書紀に書かれていたと思うのですが、いつ名前が変わって、何と呼ばれたものなのでしょう?
炊屋姫皇女?
しかしこの女帝のおくりなは豊御食炊屋姫天皇ですから、果たしてそれで正しいのやら……?

さっさと書き進めればよいものを、どうもこういう事に常々引っかかって、手が止まってしまうのが良くない傾向のような気が致します(~_~;)
この子は少し前に新聞に載ったらしい、東大寺本坊から鏡池の辺りによくいるという、鎖を噛む雌鹿です。
私もかなり以前から、何度も見かけた事がありますが、二~三頭が一緒にやっている事もありますので、目撃率はかなり高いのではないでしょうか(^^ゞ
鎖を噛む鹿in東大寺
鹿はさて置きまして、ここ何日か『続日本紀』で大宝から養老年間を眺めておりましたが、やっぱり何か引っかかる事件がないんですよね……いえ、出来事はそれこそテンコ盛りにあるのですが、今回の主人公の行動が直接に大きく関わる事件につなげられないと言いますか、うまくストーリーが流れ出してくれないのが困りものです。

そこで気を取り直して、以前に書いたものを読み返してみましたら、これが見事に悪い方に当たりました、いや、考えようによっては良い方にかな(?_?)
はっきり申しまして、ひどいストーリー展開です。
どういう状況で、私ゃ、こいつを書いたんだろう……自問するのも情けないかな、細かい展開がほとんど分からない、いやむしろ書かれていない(@_@;)
何ちゅうか、昨年の春にNHKでやっていた某古代史ドラマを思い出すような、ストーリーの不明さと御都合主義にまみれておりますわ(T_T)
こんなもの読んだら……書き直しちゃるわい!!!!!!!!!!

そういう訳で、主人公は藤原百川のままで良いのかな~(・・?
とにかく時代背景を説明せにゃならんから、必然的に枚数は増えるだろうなぁ。
取り敢えずは、もう一度、宝亀年間の流れやら人物の関係を頭に叩き込みなおさなければ。
明日から、少しは忙しくなるかな……六百枚越を手放してから一週間、やっぱり何か書いていないと落ち着かないですわ、これって何中毒?σ(^◇^;)?
相変わらず、延々とルビを振りながら読み返しております。
しかし、一昔も前から気付いているけれど、うちのキャラクターは本当に良くしゃべる。
なるべく説明口調にならないように、しかし状況説明を会話で流して行くと、やたらにしゃべり続けるんですよね、この連中……

手嶋王山部王の兄弟もひたすら、胡散臭い話を延々としていますが、もっと凄い人達がおります。
それが湯原王(55歳・宮内卿)と藤原朝臣仲麻呂(52歳・紫微内相)ですわ(~_~;)
話している内容が、きな臭いなんて通り越して、やたらに恐ろしい……
山部王(21歳・内舎人)、萎縮しまくってます。



諸兄(派の残党にとっては都合の良い解釈だ。自らが画策した事を相手の仕業として吹聴したいか。諸兄とて太上()天皇の手前、そこまでは出来なかったものを」内相は苦笑する。

「何れにせよ、短慮な若い者を唆すには、身内の不幸を大袈裟に吹き込む。なかなか悪い手ではないのやも知れぬ」伯父も鼻先で笑う。




このオジサン二人(紫微内相と宮内卿)にとっては、この程度の会話は序の口ね。
かつて皇后宮職と摂津職がとある場所で、とある事件を巡って、事実の隠蔽と改竄を競って行っていたみたいな事を平気で暴露してくれます……場合によっては騙す相手は太政官(+_+)
おまけに黒幕は複数いるから、とにかく話がややこしい((+_+))

昨年、東院庭園で行われた『曲水の宴』あぁ~、ホントに私の書く話って、華も色気も有ったものじゃないわねε-( ̄ヘ ̄)┌

そういう訳で、内容とは関係ない画像は、多少とも華のあるやつでも?
昨年の遷都1300年祭の時に、東院庭園で行われた『曲水の宴』の様子です。

えま様、拍手とコメントありがとうございました。
奈良時代の刀剣ならば、正倉院に実物が、最高の保存状況で多数残っています。
これが一番優れた資料だと思われます。

昨夜、メールチェックをしていましたところ、突然バックグラウンドでウィルススキャンが始まりまして、それも完全スキャンするなんぞと、表示がのたまうておりました。
簡易スキャンでも小一時間かかるってのに、完全なんていったら、一晩かかるんじゃねぇか?
本当に、これをやられますと、動きが悪くなるんですよね……早々に諦めましたわ(ーー;)

浄瑠璃寺の庭園と本堂そういう訳で、昨夜書こうとした事を今更ながら。

昨年の春に『浄瑠璃寺』に行きました時、御住職が、ここは御堂自体が九体の阿弥陀様の厨子を兼ねているので、屋根もやや低く、前面もあまり広く造られていない、現在では一般の方も堂内に入る事が敵うけれど、本来は僧侶以外は入ってはいけない場所だった、という事を言われていました。

また『新薬師寺』の発掘調査報告でも、金堂の南面に取り付けられた例を見ないほどの広い階段部を差して、堂内に入る事の出来ない僧侶や参拝者が、ここに並んだのではと言っていたのは、え~と、菅文だったかな(?_?)

法要などの時、僧侶以外の人は金堂などに入る事が出来たのか??
こいつが今日の疑問ですわ(゜.゜)
例えば、天平宝字元年(天平勝宝九歳)五月二日に、聖武太上天皇の一周忌法要東大寺で行っています。
昨年の『聖武天皇祭』 (東大寺)この時に招いた僧侶が一千五百余人とありますので、金堂内はおろか、出来たばかりの回廊も僧侶で埋め尽くす勢いです。
上位の僧侶と、女帝皇太后皇太子(大炊王)は金堂内にいたとしまして……
ここに五位以上の官人も出席していたとして、右大臣(藤原豊成)や大納言(藤原仲麻呂)も前庭の天蓋の下にでもいればよい方かもしれません。
こうなりますと、この時点で内舎人をさせられているうちのスメラミコトなんて、炎天下(旧暦の五月は、梅雨の最中、真夏です)で法要中、ずっと立ちっぱなし??
一体何人、熱射病や貧血でぶっ倒れたんでしょうσ(^◇^;)

法要ではなくても、何かの儀式の時にはどうなのでしょう?
昨日来、疑問に思うのが、例えば落飾する息子に母親は立ち会う事が出来るのか?
そもそも落飾という儀式に、家族であれ一般人は、どのようなポジションで立ち会う事が出来たのでしょうか?

そして出家した兄に弟が会いに来たとしまして……場所は東大寺(-_-)
まあ、この兄弟、一応は皇族ですので、新発意だといったところで割合に自由に振舞えたかもしれません……何せ、大徳はこの兄弟の父親に借りがある(という、とんでもない設定)
この時、金堂の本尊の周囲にはまだ足場が組まれ、技術者が色々な仕事をしておりました。
毘盧舎那仏蓮華座兄は弟を連れて作業中の足場に上がって行き、本尊の蓮華座の花弁に彫られようとしている須弥山世界の話を始めるのですが……
安直に、こういうシーンを考えておりまして、またも疑問。
この時、まだ寺の内には造東大寺司の役人どももウロウロしていたのでしょうが、ここに勝手に僧侶が出入りしても良いのかな?
まあ、それは良いにしても、本尊の前では四六時中、何かの法要が行われるのですから、そういう時は才伎の作業は中断するのかしら?
本尊は膝元まで足場が組まれていて、その内には光背の制作も始まるのだから、相変わらず金堂内は工事現場さながら……やはり堂内ではセレモニー的な事は行わないのかしら?

この辺り、直接には書く必要も無い事なのですが、何かの折に引っかかるんですよね。
金堂内で燈明に油を注いでいる如法師に主人公が会うシーンとかも、以前に書いたのですが、ここも変更した方が良さそうですわ。
さても、相変わらずどうでも良い疑問が、やたらに湧いて来て困ったものですわε-( ̄ヘ ̄)┌

「情報操作で仲間割れを促すなど、藤氏に限らず公卿には当たり前の戦術ではありませぬのか」
「まったく、汝は大学で何を習うて来たのかと、時々思いとうなるわ」
「違うのですか」
「違うてはおらぬ。皇太后に限らず、永手辺りでも考えそうな事だ。今頃は小者に揺さぶりをかけて、一番の大物をおびき寄せようと機会を窺うておろう」



平城宮址で行われた騎射例によって、山部王白壁王の会話です。
これが親子の会話ですから、本当に恐れ入る家庭環境ですわ(ーー;)
父親は父親で、権謀術数は御家芸とか何とか、平気でノタマウような人ですし……(~_~;)
それにしても放蕩息子、大学で『韓非子』でも習って来たんですかね(?_?)

手嶋王が「俺たちが思うている以上に、父上も伯父上も恐ろしい人だよ」なんぞと、さり気無く言ってくれるのですが、本当にそういう人になって来ています。
何せ父上は、二十九歳の時から貴方方の父上をやっているし、伯父上は三十五歳の時から伯父上をやってますからねぇ……敵うはず、ありませんってε-( ̄ヘ ̄)┌

そして昨日辺りにようやく気付いたのですが、作者は光明子皇太后にすっかり騙されていたようです……(@_@;)
『続日本紀』の記述、特に宣命などの内容を馬鹿正直に受け取ってはいけません。
やはりこの人は、藤氏の大物も平気で脇にやるくらいの曲者ですσ(^◇^;)

それにしてもうちのキャラクターって、男女関係無く、四十過ぎると漏れなく腹黒くなるんとちゃうんか?(゚_。)?(。_゚)?
そして画像は、今日も内容とは殆ど関係ありません<m(__)m>
吉野宮瀧にいた風神
昨日にコメントを頂いていたようで、気付かずに申し訳ありません。
『生まれましながら(仮題)』の再開、さて、目処が立ちますものか……もし始めるとしたら全面書き直しになる事は必定です(~_~;)
もしかすると、あの狂言回しの現代人たちが、スッパリと切り捨てられるような展開になるかも?
そうなると、白髪太子らの生年を繰り下げている理由もなくなるし……(@_@;)困った(@_@;)
ともあれ、はす様、ありがとうございましたm(__)m

そして今日も内容とは関係のない画像です。
随分前に吉野宮瀧に行った時、道の脇にこのような木彫の像が展示されていました。
今もあるのかな??

さて、昨日に引き続き混乱中ですが、藤原氏と大伴氏の婚姻関係等は一先ず置いておきましょう。
これを調べ始めると、決して少なくありませんからねぇ。
少し前から何となく気になっているのは、容疑者らが引き立てられて訊問が始まってからの表現なんですよね。

右大臣藤原朝臣豊成、中納言藤原朝臣永手ら八人に勅して、左衛士府に就(ゆ)きて、東人らを勘(かむが)へ問はしめたまふ。

これが七月三日の記述です。
勘問』を辞書で引いてみますと、“罪状を調べながら訊問すること、責め問うこと”とあります。
そして四日の記事には、

詔して、更に中納言藤原朝臣永手らを遣して、東人らを窮め問はしめたまふ。

窮問』が辞書にないんですよね……『糾問』ならば“罪状を厳しく問いただすこと、悪事を問い調べること”とあります。
『窮』は“つきとめる”という意味ですから、『糾問』と同じ意味に取って置いて良いのでしょう。

是に一ら皆獄に下す。また、諸衛を分ち遣して逆ふる党を掩ひ捕へしむ。更に出雲守従三位百済王敬福、大宰帥正四位下船王ら五人を遣して、諸衛の人等を率い、獄囚を防衛りて拷掠・窮問せしむ。

獄令』によりますと、最初は人的、物的な証拠を提出しての取調べから始まるようです。
何やら、ドラマで鬼刑事が机を叩きながらする訊問と、御白洲での糾問が一緒に行われているような印象を受けるんですが(ーー;)

凡そ察獄の官は、先ず五聴備へよ。又諸の證信験へよ。事情疑はしく似りて、猶し実首さずは、然うして後に拷撩せよ。訊毎に相ひ去らむこと廿日。若し訊畢へずして、他司に移して、仍ち拷鞫すべくは、前の訊を通計して、以って三度に充てよ。

この後、囚人が死んだならそれぞれの長官に報告する事、何ともあっさりと書かれています。
この辺を調べて行きますと、一般的に思われているような、自白するまで痛めつけろ的な展開は最終段階なんですよね。
言っちゃ悪いが、オッサンが書いた話ほど、訊問の最初からこういう展開で書かれているような気がするんですけど……(ーー;)
朱雀門閉門橘奈良麻呂の変』のキャストについて、つい最近まで私は変な勘違いをしていた事に気付きました。
そもそも、奈良麻呂が天平十七年に佐伯全成
大伴、佐伯の族(うがら)、この挙(くわだて)に随(したが)はば、前に敵無からむ
などと言って誘っている辺りからの勘違いだと思います。
何をどのように勘違いしていたのかと申しますと、それは大伴古麻呂の登場する時です。

何せこの御仁、謀反の密告があり、喚問が始まった当初から名前が出てくるので、小野東人黄文王同様に最初からの連座者だとばかり思っておりました。
ところが佐伯全成の証言を読んで行きますと、全成が古麻呂に初めて会うのは謀反発覚の前年、つまり天平勝宝八歳四月の事です。
他の連座者の自供内容を見ていても、それ程以前の内容には触れていないので、これらの供述に見る限りは古麻呂という御仁の関与は、割合に後になってからの可能性もあるようです。

それにしてもですよ、天平勝宝七歳11月に(万葉集に寄れば)奈良麻呂の屋敷で宴が開かれた時の出席者に、この御仁は果たしていたのでしょうか?
この宴席で左大臣橘諸兄が不敬発言をしたとして、天皇はこれを不問にしていますが、ここには佐伯全成と美濃麻呂の二人がいた事は窺えます。
では大伴氏の出席者は……さて、家持がいたところで、別段不思議でも何でもありませんが。

この大規模な謀反未遂事件、登場人物はかなり多いのですが、主要な二十人足らずの内にはどうしてだろうと思う人も若干います。
その一人が、大伴古慈斐なのですが、この人のポジションってさっぱり分かりませんわ(~_~;)
結構な年寄りだし、何と行っても故藤原太政大臣の娘婿だったり……

何やら混乱気味なので、考察は明日に続く……とは申せ、この話、今月中にやっつけないと、来月から別の事が割り込んで来るような兆しですし(@_@;)
119699ae.jpeg今日も内容とは関係のない画像です。
これは『春日若宮おん祭』の『頭屋児』ですが、私は不勉強でして、『松の下式』でこの子供たちがどのような役目をしているのかが、未だに分かっておりません。
何せ、おん祭の解説書を見ても、この子供たちの名前はあるのですが、役目までは書いてありません。
稚児として神様に仕える身なので、『松の下式』以外では地面に足を着けてはいけないのでしょう、このように大和侍の人たちに肩車されて退出して行きます。

今日はこれでもかと言うほど寒かったのですが、幸いにして雪は降らず、白毫寺の『えんまもうで』に行きまして、その後、またもや春日大社や博物館近辺でうろついておりました。
おかげで全然、仕事が進みやしませんわ。

それにしても、この何日か『橘奈良麻呂の変』の経緯を眺めて色々考えているのですが、この事件のごく最初は、佐伯全成の証言にある天平十七年の難波行幸での出来事から始まっているのだと思われます。

そして天平勝宝七歳の、左大臣家の資人らしき佐味宮守の証言に対し、天皇も皇后も口を閉ざそうとしているのは、さて、誰かを庇おうとしているのでしょうか?
もしかして、御二方とも既に難波行幸の直後には、何らかの計画があった事を知っていたのかもしれませんが確証はありません。
庇うなどという下世話な事ではなく、事件が実際に起きてしまった時の混乱を考えれば、取り返しのつかないほどの被害があると分かっていたからこそ、内々に伏そうと考えたのでしょうか?
いずれにしても、この時は立場はかなり違うのですが、光明皇太后と左大臣橘諸兄の目指すところは合致していたようです。

(゜.゜)、この異父兄妹、実のところ、どこまで意見の一致があったのでしょう。
印象としては、常に裏の方で角突き合せているような気がするんですけどねぇ???
それにしても光明皇太后という人の政治的センスは、やはり父親譲りなのでしょう。
藤氏の大者が時々、大事を表に出さずに水面下で抑えようとするような動きを見せているのですが、この女性もその例に漏れないという感じですか。
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