忍者ブログ

うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

HOME Admin Write
選択したカテゴリーの記事一覧
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『會津八一のうたにのせて-奈良の古寺と仏像-』
この展覧会は巡回展だったんですね……奈良県での展覧会には仏像は巡回しませんとの御断りがありました(~_~;)

私も関西で暮らして割合に長いので、秋草道人こと會津八一は誰でも知っているのかと思ったのですが、とんでもない……奈良県民でも知らない人は知らないようです、当たり前の事ですが。
私が八一の歌で最初に覚えたのは、唐招提寺の観月会にて詠まれたという

おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ

この歌はかなり有名で、歌碑も唐招提寺の金堂の脇にあります。

展示はゆかりの寺院と歌の紹介、歌碑の拓本、縁者との交流を物語る書簡などの遺品、そして八一に影響を与えた写真家の仏像写真など、割合に地味な内容でしたが、これがかなり見ごたえがあったようで、気がつけば二時間もたっておりました。

しかし、この展覧会を見るまで知らなかったのですが、奈良県内の八一の歌碑って、思ったよりも少ないんですねぇ。
今年に揮毫した喜光寺と中宮寺のものを入れても17基しかないそうです。
私の見た記憶のある歌碑は、このうちの14基ですから、割合に分かりやすい所にあるという事でしょうかね。
毘沙門天と影
ところで美術館に行く前に国立博物館の常設展にも行ったのですが、『仏像館』の名前になってからの展示の照明がかなり変わっています。
全体的に暗くなって、スポットを多用しているようで、これが良いのか悪いのか……
場合によっては仏像の表情すら変わって見えるような気もします。
この照明のおかげで少し面白い事に最近気付いたのですが、なんとそれは仏像の陰です。
以前には、こうもはっきり影が出ていなかったような……壁に映る仏様の影をソファに座って、ボケ~っと眺めるのも結構味のあるものかもしれません、と思うのは私だけσ(^◇^;)
PR

武人君参上ちょいとインフォメーション^_^;

ただ今、大和高田市の中央公民館で『池田遺跡の埴輪』という展示をやっております。
この人物埴輪、十年近く前に発見された大和高田市一番の男前(?)だそうで、時々、あちらこちらに出張していますが、殆どの時は収蔵庫に入っています。
十年前には全国行脚にも行ったくらいの人気者(??)です???

今月の28日まで、公民館の二階で見る事ができますので、まだ会いに行った事のない御近所の方は、是非とも御出で下さい。
なお、月曜日と23日は公民館が休館だそうで……

 

あまりの人の多さに怖気づきまくりの今年の正倉院展ですが、実のところ先週行って参りました。
しっかり40分も並ばされましたわσ(^◇^;)
今年の鳴り物入り(?)の宝物は『螺鈿紫檀五弦琵琶』で、18年か19年ぶりの御目見えとのキャッチコピー付きでしたか。
私の記憶では、多分見るのは、二度目だと思います……と、今日も年の知れるような発言を(-。-)y-゜゜゜
あの時も、昭和の初めに行われた宮内庁の雅楽部の方による、実物演奏の音声を流していたと記憶しています。
そしてあの時も、「裏の模様も、全然欠けた所がないのねぇ」という観覧者の溜息に、
「後補材、はっきりと色違いでわかるじゃねぇの……」と内心でぼやいていたような(ーー;)
とにかく今回も、この琵琶の周囲だけで二十分近い待ち列が出来ておりましたが、まぁ、他はそれ程並んで待つような展示物もありませんでしたか。
今年もやや短め、三時間半程度で出てきました。

奈良国立博物館本館今回私が個人的に喜んでいたのは、文書類の署名やら出て来る名前やらです。
とにかく有名人が多くて、楽しかったです?

まずはメインの宝物の一つに上げられていた『種々薬帳』の末尾にずらりと並んだ御歴々(゜_゜)
『国家珍宝帳』と同じメンバーです。
何せ文書の日付も同じ、天平勝宝八歳六月二十一日ですから。
紫微令の藤原仲麻呂と、参議の筆頭で大倭守でもある藤原永手が、これでもかと競うような癖字で署名し、その後にも紫微中台の御偉方、巨萬(高麗)福信賀茂角足葛木戸主の署名が続いています。
福信も右上がり気味の癖字ですが、角足は何とも小心っぽっく、戸主は「知ったこっちゃない」とでもいう字ですわ(~_~;)

雑札』とは木簡ですが、この一枚に飯高命婦(いいたかのみょうぶ)という女性が出てきます。
この人は、宝亀八年五月に八十歳で亡くなった、典侍(ないしのすけ)飯高宿禰諸高の事だと思われます。
同じく『雑札』装束司 牒寺政所(装束の司が東大寺の政所に当てた牒)に書かれる次官佐伯大夫、天平勝宝五年ですから間違いなく佐伯宿禰今毛人ですね。
これには造東大寺司写経所の超有名人、上馬養(かみのうまかい)の名前も見えます。
この馬養(馬甘)さん、この後も経典の貸し借りの文書や、写経の校正の文書に、何人かの方々と一緒に、これでもかと言うほどの書名を残しています。

今毛人は東大寺から造東大寺司に経典を貸してくれと頼んでいる文書(東大寺牒)にも、直筆の署名が見えています。
同じ文書にも、これまた時の人(?)、少僧都良弁(別の文書では大僧都)の「文句があるか!」とでも言いたげな署名があったりします。
同じく別の『東大寺牒』には、法師道鏡のオール直筆もありですわ^_^;
「耳をそろえて、さっさと貸しやがれ」ってな乱筆が笑えます。

先々週の土曜日、奈文研の平城宮資料館で木簡の展示を見に行ったと、ここでも書きましたが、その最後の方でクイズになっていた木簡の読み方について……
やっぱり私の読み方は、間違っていたようですわ?(゚_。)?(。_゚)?

写真禁止とはなっていなかったので、こいつの片方を写して来て、職場で見てもらっていたのですが、
その読み方、多分違うと、あっさり否定されましたσ(^◇^;)
何が違うって、最後の二文字……これ、多分、氏名じゃないだろうと(+_+)
「それじゃ、もしかして、兼任の兼?」
「まだ、その方がありえるんとちゃう??」
これは最後から二文字目の読み方……こう思い始めると、本当に『兼』の字に見えてくる^_^;

え~と、日付と官位と官職が書かれていた方ですね。
またも、ここでは具体的に書きませんが、私でもはっきり読める官位官職は、とにかくグレードが高いんですよ。
奈良時代も後期になれば顕著なのですが、高位高官の人に兼任職なんて至極当たり前です。
この頃になると五位程度の人がかなり増えるので、必然的に官職が不足して、本来の官位よりも低い官職に着く人がすごく多くなります。
そしてそのしわ寄せのように、より高官が幾つもの職を兼任する事になります。
何か、経済的危機に陥った地方自治体を思い起こすような有様ですが……(ーー;)

ところで、あの木簡に書かれていた官職、少し前に湯原王の地位をでっち上げるために、この役職に皇族がどの程度着く事があったのか『続日本紀』で拾い出しておりました。
こう書いたところで、官位の方がどの程度以上かは、分かる人には分かってしまいますね。
孫王ですから、湯原王は(~_~;)

それでですね、割合に少ないんですよ、この役職に関する記述が……
もしかしたら、これである程度、誰の事なのかが分かるかもしれません。
記年があったら、かなり絞り込めるんですけどねぇ。
そして最後の文字、半分しか残っていませんが、こちらも形からかなり絞り込めそうな気もします。
もう一度、本物の方を見て確認したいのですが、果たしてまだ展示されてるのかな?
何せ水漬け状態で蛍光灯の下に晒されてましたから、さっさと片付けられてしまったかも?
やっぱり、文書の類を勉強した事ないのは、痛いわね、我ながら(+_+)

明日香村にある万葉文化館では、ただ今『写真展 小川晴暘と奈良 飛鳥園のあゆみ』という特別展が開かれています。
こちらは日本画の展示がメインなので、写真展となりますと極めて珍しいように思えます。
何年か前には漫画家の原画展などもやりましたから、日本画にこだわらずに、もう少しフレキシブルに展示を考えてくれると、もう少し足を運ぶ気にもなるのですが……(゜-゜)

ともあれ、『飛鳥園』は奈良国立博物館の筋向いくらいにある、写真館と申しますか写真アトリエで、仏像や奈良の風景を扱ったポストカードなどの販売をしているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
小川晴暘氏は、現在の社長の小川光三氏の御尊父で、それこそ私などの生まれる前に亡くなった方ですが、仏像写真の分野ではとっても有名な方です。
私はこの方の名前を聞くと、紋付袴という出で立ちで、東大寺の大仏殿の屋根に跨って、誇らしげに笑っているポートレートを思い出します。
今回の写真展でも、真っ先にその写真がお出迎えとばかりに飾られていました。
この展覧会では、晴暘氏のほか、後継者の光三氏、その弟子の金井杜道氏、若松保広氏の現役の三方の作品もあわせて展示されています。
三者三様、しかしいずれもとても有名な作品ばかりです。
とは申せ、殆どが印刷媒体の適当なサイズでしか見ていなかった作品を、全紙以上の大きなサイズで見ることが出来るのがすばらしいものです。
特に仏像写真は、実物以上に細部までが分かりますから、好きな者にはたまりませんわ(^^)

今日はこちらの作者の一人、金井杜道先生の講演会もありまして、それも合わせて聞いて参りました。
この方の公演を聴くまで、全く念頭にもなかったのですが、ひとえに仏像写真といっても芸術写真と資料写真に大まかに分かれるそうで、金井先生は後者に携わってきたそうです。
最初は『飛鳥園』で写真技術を学んだのだそうですが、数年後には京都国立博物館で様々な文化財の写真を撮り続け、昨年に東京と九州の国立博物館で行われた『国宝 阿修羅展』の図録の写真も、この方が撮られたのだそうです。
小川光三氏や入江泰吉氏、土門拳氏などの作品を見ますと、やはりライティングなどを駆使して、印象的な影やハイライトを入れた迫力や立体感にとんだ、表情豊な仏様を撮影されていますが、金井先生の作品は細部までを明確にはっきりと見せてくれる、こちらもやはり素敵で捨て難い仏様たちです(^。^)

いつもの日本画展とは少々毛色が違いますが、今回はかなり見応えもあって、分かりやすい特別展だと思います。
再来週には小川光三先生の講演もあるそうです。
久々に平城宮跡に行って来ました。
遷都1300年祭の会場でNHKの『やまとの国宝』のトークショーとライブをやると聞いたので、そちらを聞きに言ったついでに、今日から平城宮資料館で行われる特別展示を見て来ました。

こいつが一番有名な北宮木簡天平びとの声をきく―地下の正倉院・平城宮木簡のすべて
このようなタイトルで、平城宮発掘50年間で出土した主要な木簡を約100点ずつ、途中で二回の展示替えをするそうで、全部で300点余を展示するのだそうです。

木簡は読めさえすれば、かなり面白い第一級史料です。
ところがこれが、度素人には分からない……だって、漢字ばっかり(+_+)
それも旧字体どころか、妙な略字体もあるし、書き損じはあるし、何よりも完全に残っているとは限らないし……と言うか、完全な物の方が少ないです(;_;)

この画像はかの有名な
長屋親王宮鮑大贄十編』と書かれた荷札の木簡です。
この頃、長屋王はまだ式部卿、左大臣になるよりもかなり前のようです。
まあ、こういう扱いを受けてるから、最高実力者(何度も言いますが、臣下ではありませんぜ)から睨まれる訳なのよ……の根拠(?)にもなったセンセーショナルな発見ですねσ(^◇^;)

誰の似顔絵でしょう……σ(^◇^;)文字ばかりだと思ったら大間違い。
時々、こういういたずら書き的なヴィジュアル史料も出てきます。
官人にも絵心のある人がいたのか、それとも専業の絵師が片手間に描いたのか、無茶苦茶、味がありますわ ^m^
二条大路木簡ですから、皇后宮職藤原京家に使えていた人が描いたのでしょうねぇ。
右端の人みたいに、幞頭(ぼくとう・頭にかぶってるやつね)の紐を長く垂らすのとか、この頃、流行ってたんですかねぇ?
この人が向かい合っているのは女性かな??

ところで最後の部屋に、最近出土した木簡を読んでみて下さいと、綺麗な楷書で書かれた木簡片が、二枚ほど水に漬けて置かれていたのですが……
これ、クイズになっていたので詳しい内容は書けませんが、片方には日付(年は不明)と官位と名前の一部が書かれているんですね。
この名前(名字です)が私の思う読みで良いのなら、この階位まで上った該当者が一人しかいないんですよ、少なくとも『続日本紀』に出てくる名前では。
これがまた、超有名人でして……やっぱり、私の読み方、間違ってるか???
それにこの人だとしたら、この役職は記録に書かれてないからなぁ……(?_?)

第二期の展示は10月13日から、面白そうなので、また見に行く予定です(*^_^*)

これは誰の字?八月一杯の缶詰からようやく脱却、この前の日曜日(五日)に、ようやく奈良国立博物館の
仏像修理100年』及び『至宝の仏像』展に行って来ました。

本館の前にはこのようなプレートが出来ておりまして、こういう名前になったようです。
ところでこの字はどなたの手でしょう?
新館エントランスの文字は、正倉院宝物の『雑集』から抜き出した字、つまりは聖武天皇の御手ですね。
この『仏像館』の字は、それに同様でしょうか、館の字は同じ形ですから、どう見ても。

前回の『大遣唐使展』で、こちらの本館の展示物もすっかり移動させてしまって、今回は大幅に常設で出ていた御像の展示場所も入れ替わってしまっておりました。
しかし、あの本館、場所によってはすごく照明の具合が悪い!!
いつも会いに行く
地蔵菩薩も、人相が変わるくらいに陰になってしまって……もう一度、北側の回廊のあの位置に戻して欲しいわ……と、個人的希望をボヤクのでした。
それでも、久々にこちらの
如意輪観音さんには会えましたから、それで良いとしましょう???
そして、こちらの『至宝の仏像』のメインとなられます、東大寺法華堂の金剛力士像ですが、ここで見ると滅茶苦茶迫力ある方々ですねぇ。
法華堂で、同じくらいの大きさの方々の間に混じってしまうと、全然大きさも存在感も感じないのですが……御本尊からして、これでもかの存在感ですからねぇ、御綺麗な方を両側に従えてσ(^◇^;)

『仏像修理100年』、こっちは見ていて時々、溜息が出てきますわ。
修理される技術者の方々もさる事ながら、元々この仏像を造った仏師の力量を思わずに入られません、月並みな物言いですが。
特に、あの東大寺南大門の仁王象、修理のために復元された顔や手、足などの部分を見るだけで、鎌倉仏師の意地やら技量を見せ付けられると言う感じですわ。
こりゃ、私ごときが云々言うよりも、実際に見るべきと言いますか、いずれの仏像や工芸品にしても、それこそ百聞は一見にしかず、これしかありませんって。
やっぱり、鎌倉仏はすばらしいです。

大阪府立近つ飛鳥博物館で明日まで行われている春季特別展『継体大王の時代です。
継体大王の時代って何時?と聞かれますと、取り敢えずは6世紀の初めと答えておけば、特に間違いはないでしょう。
この展示のサブタイトルは――百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け――でして、こちらの博物館は古墳時代をメインに展示を行っているので、当然の事ながら後期古墳の出土遺物がメインです、というか、ほぼそればかりです(^^ゞ

すごいなぁと思ったのが、継体天皇(継体大王)の故地と、そこに造られた古墳からの出土品の共通性でして、こいつが一つ二つの出土品のみではなく、幾つも製品に渡って見る事が出来るというところです。
例えば『捩り環頭大刀』、そして『広帯二山式冠』、『三葉文楕円形杏葉』、『十字文楕円形鏡板』、更には『尾張系埴輪』、『千里系須恵器』、『金属製梔子玉』、『埋木製棗玉』なども、継体政権を支えた人々に関係する遺物と考えられるそうです。
そしてこれらの出土状況を六世紀前半と後半で比べてみますと、何となく地域的な推移が見られる事も分かっています。
前半には近畿地方でも北部、近江尾張にも分布し、後半には主に大和摂津に分布しているそうです。

これが何を表すかといえば、政権を支えた勢力の力関係でしょう。
前半に力を持っていたのは、北部周辺の在地首長たち、割合に小さな古墳の主です。
一方後半に勢力を伸ばすのは、かつてより大和を根城にした大豪族でしょうか。
大王は、この双方を自らの勢力として抱えていた事は間違いありません。

この動きを『日本書紀』の記述や従来の研究成果に照らし合わせて見ますと、まさに継体天皇の崩御の後の息子たちの相続争いに合致するようです。
六世紀後半、継体朝を支えた大伴氏をトップに立てた勢力は、欽明大王を担ぎ上げる蘇我氏の配下に出し抜かれ、近江の息長氏や東海の尾張氏なども追い遣られて行きます。

さて、ここからはどうでも良い話σ(^◇^;)

私が昔書いていた話に出て来る越のヲホドという人は、調子が良くて押し出しの強い口八丁の男前……みたいなキャラクターでしたか。
このヲホドが、生真面目で朴念仁の根暗な葛城忍海弟彦狩野というキャラクターと、妙に仲が良いらしいと白髪太子がぼやいておりました。
私が書いていた与太話は、雄略朝から清寧朝を経て、いきなり継体朝になだれ込むという、かなり奇妙な展開でしたので、最大のキーパーソンの一人たる葛城狩野は、葛城氏のみならず、吉備氏、息長氏、大伴氏、蘇我氏にまで影響を与えるような、複雑で忙しい生い立ちを持っております。

しかし、研究者にとっては、継体天皇だろうが大伴金村だろうが蘇我稲目だろうが、プロフィールは重要なのでしょうが、キャラクターはあまり必要ないようです。
実際のこういう人達は、何に歓喜し、何に憤慨し、何を求めて苦悩したものやら……
かつては豪華絢爛だった遺物を眺めていても、想像以外の何も出来ない無能者のうめぞーでした。

ハシブトガラス大阪の『藤田美術館』で今日(既に昨日)まで『歴史を彩る 教科書に載る名品』という春季展を開催していました。
私がようやく重い腰を上げたのは昨日の事……何せつい最近まで、この春季展の事をすっかり失念しておりましたので(~_~;)
久々に『
曜変天目茶碗』が出ておりまして、こいつが一番の目的でしたが、他にもどこかで見たことあるような展示品が目白押し……というほどに広い美術館ではありませんが、私立の美術館としてはかなり充実した展示でした。

実は私、この美術館に入ったのは初めてでして、かつての『萬野美術館』や『出光美術館』(今はどちらも閉館)のような規模の施設を想像していたのですが、もっとクラシックと申しますか、かなりレトロでややこじんまりとした施設です。
ここの雰囲気は『
大和文華館』というよりも、法隆寺辺りの宝蔵にチョッと似ているかな?
このレトロさがかえって良い味を出しております。

秋季展では快慶作の『地蔵菩薩立像』が展示されるとの事で、これもまた忘れずに行かねば(^^ゞ

何処の礎石でしょう……ところで上の画像は何かと申しますと、美術館の庭に建っている多宝塔の九輪にとまっていた烏です。
この辺りと申しますか、隣の藤田邸跡の公園がねぐらになっているらしく、やたらと烏が多いです。

そしてこの画像は何かと申しますと、道を挟んだ向かいにある『太閤園』の庭園にあった石です。
『太閤園』といえば、大阪でもかなり有名な結婚式場……っちゅうか料亭かな?あまりに縁が無いから、良く分かっておりませんわσ(^◇^;)
ティーラウンジに入って、庭を拝見しただけですが、あっちこっちで結婚披露宴が行われておりまして、花嫁さんだけで三人も見てしまいました(^.^)
庭園内にはいったい何処から持って来たのというような石造物等が、品良くあちらこちらに配されています。
私が一番気になったのが、この画像の礎石です。
蓮の花をかたどっていますし、直径が一メートル近くありますから、かなりの規模の寺院の物だと思われます。
おまけに火を受けたような色をしているし……まぁ、大阪にしても京都にしても、町は何度も大火に遭って、大寺院が焼けるような事態も多々あったでしょうからねぇ。
それにしても、何処のお寺の礎石なんでしょう(・・?

まずは、日々の戯言に拍手を頂き、大変ありがたく存じますm(__)m
これからも、ある事無い事、虚言、暴言、妄想、暴走交えて、性懲りもなく書き連ねるかと思いますが、ぬる~い目でお付き合い頂ければ幸いです 再m(__)m拝

さて、話変わりまして、奈良文化財研究所の飛鳥資料館で『キトラ古墳壁画四神 特別公開』が六月十三日まで開かれています。
後半になると忘れそうなので、特に予定の無い本日の午後に行って来ました。
HPの方で待ち時間のお知らせもしているので、チェックしてみたところ、昼過ぎで待ち時間なし。
そこから少ししてから出かけたのですが、資料館の前に着いてみても、入り口の待ち時間掲示は0分となっておりました。
しかし、すぐ前の駐車場(有料)は満車でした(~_~;)
昨年の『青竜・白虎』の時も同じような状況、そして私の取った行動は昨年に同様σ(^◇^;)

いざ会場内に入っても、普通の博物館の特別展なら、この程度は混雑しているという具合の人出でした。
いつもの常設展示の部屋を見事に片付けて、かなりゆったりとしたスペースで、青竜、玄武、白虎、朱雀の順で展示されていました。
今回が初めての展示となる朱雀ですが、実物はかなり褪色していて、実のところ写真などの方が鮮明に見えます。

それにしても初めて『白虎』や『玄武』が展示された時には、最高で二時間待ちが出たというのに、かなり話題性も下火になったって事でしょうか。
高松塚古墳の壁画修理の公開も、平日は定員割れしていたそうですしねぇ。
……で、石上神宮の七支刀の公開はどうなんでしょう?
何せ平日しか公開しないし、事前申し込み制だし、何年か前に奈良国立博物館で特別公開しているから、決して初めてという訳でもないしねぇ……(・_・;)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

お天気情報

-天気予報コム-

最新コメント
[02/06 賀茂史女]
[02/05 うめぞー]
[02/02 賀茂史女]
[01/30 うめぞー]
[01/30 マム]

ブログ内検索

メールフォームです
今日の参考に

Copyright ©  -- うめぞー、思案中 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by 押し花とアイコン / Powered by [PR]
 / 忍者ブログ