- 2025.04.20 [PR]
- 2011.12.28 春日若宮おん祭『お旅所祭』…忘れた頃に(・_・;) その壱
- 2011.12.18 春日若宮おん祭『松の下式』の『日使』
- 2011.11.23 橿原神宮 新嘗祭
- 2011.10.09 奈良豆比古神社 翁舞
- 2011.08.14 大仏殿にて
- 2011.07.24 伝香寺地蔵尊着せ替え法要
- 2011.05.22 春日大社にて
- 2011.05.14 当麻寺 練り供養
- 2011.05.08 春日大社 菖蒲祭
- 2011.05.06 薬師寺 最勝会
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まあ、まだ11日ですわね。
何せ一昨日まで、ずっと自主的缶詰状態だったので、三連休も外出をほとんどしませんでした。
締め切り間近だと騒ぎつつも、せっかく、行って来たので、画像だけでも上げましょうかと思いまして……(-_-;)
“ほど”というのは、“きっちり”という訳ではなくて、“だいたい一時間くらい”なのだそうで、この辺りは祭の進行状況によって、多少のズレはありますよと、前もって神職の方が仰っておられました。
そのお陰で前半の神事芸能が、かなり明るい時間から始まりました。
一般の人たちがお旅所に入れるのは、『神楽』が終わった後ですので、『東遊』から近くで見る事が出来ます。
ところが、その時刻には日は殆ど沈んでいて、こちらの画像のように、右方のだ太鼓の向こうに傾いた日が見えるような事はありません。
明るいんです(゜.゜)
『田楽』と申しますと、鎌倉幕府の執権が田楽狂いだった云々というように、鎌倉時代以降の芸能かと思いきや、おん祭が始まった時に既に『春日田楽』は奉納されていたそうです。
起源ははっきりせず、農神に五穀豊穣を願う芸能だとか、農作業を行う人々に見せた娯楽芸能だとか、『散楽』から転じて民間芸能になったなどの説があるそうです。
この『散楽』は『散楽戸』という役所が芸人を抱えて、公式セレモニーなどでも演じられたと考えられますが、平安時代のごく早い時期に『散楽戸』は廃止され、芸能を行った人たちは民間に流出してしまいます。
この『散楽』が、民間での芸能として残って行ったのが『田楽』ではないのかという訳です。
これは『せいのお』と読みます、“ほそおとこ”ではありません(^_^)v
『細男』は神功皇后の伝説として語られていて、志賀島の海人の阿曇磯良(あづみのいそら)の姿を現しているとか云々……どうも、私はこの類の地方伝承にはかなり弱くて(~_~;)
解説書に寄れば、筑紫の浜で会った老人から、「細男舞を舞えば、磯良という者が海中より現れ出で、干珠、満珠を献上する」と言われたので、舞わせたところ、顔に貝殻やら海草をくっつけた顔で出て来たので、覆面をしたとか何とか……
舞を舞ったら磯良が現れた、その姿を現したのが『細男』の舞、では、最初に舞われた『細男』はどのような舞……(・・?
いずれにしても、少なくとも『日本書紀』にはこの事は記されておりません。
そして九州での伝説と春日社が、どのような因縁で結びつくかは、かなりややこしい背景がありそうで、それこそ調べ始めるとドつぼどころか、玄界灘にはまりそうですわε-( ̄ヘ ̄)┌
かくして戯言ともに続く……( ̄▽ ̄)。o0○
久々に何か書こうとした揚句が、既に『おん祭』です。
『春日若宮おん祭』と言えば、奈良では毎年最後を飾るもっとも大きな御祭です。
奈良の御祭は『ちゃんちゃん祭』に始まって、『春日若宮おん祭』に終わると言われるだけあって、奈良市の繁華街では、クリスマスなんぞかすんで、こちらがメインという感じ?
祭自体は15日から始まり、それ以前の準備は夏頃からこまごまと行われているそうです。
祭典当日は17日で、この日は日付が変わってから、18日の直前までの終日、様々に御子神様への御奉仕が行われます。
17日の始まりと供に若宮社を出た御子神様は、神職らに先導されて暗い中を御旅所に入ります。
これが有名な『遷幸の儀』で、ここ最近は富に見学に来る人も多く、メディアでも取り上げられるようになりました。
御旅所の御仮屋に神様が入られると『暁祭』が行われますが、これが大体、午前1時頃から一時間程度、この後に神様も神職も御休みになりまして、夜が明けた後に祭りは再開します。
この人々は、若宮様に芸能を御覧に入れる、いわばご奉仕をする芸人で、これより盛装して御旅所に向かう様子を示していますので、華やかですが決して御祭の主役ではありません。
今年はこれを沿道の人の頭越しに眺めつつ、早々に『影向の松』のところに向かい、『松の下式』を拝見する事と致しました。
昔々、藤原氏の氏長として関白藤原忠通が、祭の執行のために向かっていた旅の途中で病気となり、急遽、御付の楽人に“この日の使い”を代行させた事から『日の使い』と呼ばれるようになったのだそうです。
風流行列の内で唯一、黒い束帯を身に着けている騎馬の人物ですので、すぐに分かります。
ちなみに先頭の方で黒い衣冠で馬に乗っているのは、奈良市長やおん祭の会長ですので、お間違えなきように……結構、間違えている方がおられるようですのでσ(^◇^;)
ではまた項を改めまして、御旅所祭の事でも……
十一月二十三日は勤労感謝の日ですが、全国の神社でも『新嘗祭』が行われている事かと思われます。
皇居でも天皇陛下が新米を神に奉げる行事が執り行われるはずですが、今年は体調が思わしくないとの事で、皇太子殿下が代行されると先日のニュースで言っていましたか。
それにしても今日は朝から曇り空、昨夜までの天気予報では昼前から雨と言っていましたが、朝の天気予報は曇りに変わっていて、所により昼過ぎから夕方まで雨だとか。
多分大丈夫でしょうと10時半過ぎに家を出て、いつものように散歩がてらに歩いて行きました。
新嘗祭の神事は11時から、内拝殿には既に出席者の方々の多数が席に着かれ、暫くすると外庭から禰宜装束の神職方々が外院に入って来られました。
式典はいつもの通り……神殿に参拝して、御扉を開き、御供物を奉げ、祭主が祝詞を奏上し、久米舞が奉納されます。
『新嘗祭』自体が地味なのか、見に来ている人もいつも通りの少なからず多からずという数で、七五三参りの家族連れも御参りついでに眺めて行くという様子ですね。
そして殆どの人は、久米舞が終了したところでいなくなってしまいます。
何せこの後の、玉串奉納が長い……σ(^◇^;)
そして再び外院に戻って来ますと、玉串奉納も終わって、拝殿の御扉を閉めているところでした。
既に見学をしている人は、数人しかいない状況です。
そして祭主挨拶……今年の昭和祭もそうでしたが、このところ宮司さんが祭主をされていないような?
かなり高齢の方なので、無理はされないのかな??
そして神職の方々が退出されると、式典は終了です。
雨は大丈夫でしたので、私はその後、いつものように神武天皇陵に参って帰って来ましたが、その頃にはポツリポツリと降り始めていました。
今はまた止んでいますが、空模様はいつ振り出してもおかしくない様子です。
さて、どちらの『新嘗祭』も無事済んだのかな?七五三のご家族は晴れ着を濡らしてしまわないように……休日となると、天気が崩れがちのこの頃ですからねぇ(゜-゜)
奈良豆比古神社の『翁舞』は、毎年十月八日に行われます。
どういう訳か、観光案内では19時からと書かれているのですが、私が初めて見に行った十数年前にも昨夜にも、20時から始まっています。
招待者には国会議員の馬渕氏も来ておられまして……「あれ誰だっけ、奈良市長?」などと、頓珍漢な事をのたまうている観光客の方もおられました(^_^;)
20時になると拝殿にかけられた床を通って、神主さんを先頭に囃し方の笛、小鼓(二名)、大鼓、地謡、三番叟、脇(二名)、千歳(子方)、太夫が登場し、本田に参拝した後にそれぞれの座に着きます。
まずは千歳(せんざい)の舞、そして太夫(たゆう)の舞となりますが、千歳は小学生の男の子が勤め、太夫には途中で二人の脇(わき)が加わり三人舞になるのが有名です。
写真などで紹介されているのは、この三人の翁面を着けた太夫の舞ですね。
ところで……私は『三番叟』の類に全く無知でして、翁(太夫)の舞がどのようなものだったかが思い出せません(・_・;)
祝言の歌の後に舞を舞うくらいは分かっているんですが……気のせいか、ここの太夫、種を蒔いていたような??
『式三番』の翁舞に、こんな所作あったっけ???
三人の翁が着座すると、三番叟(さんばそう)が登場して前舞を行います。
この舞は一番動きも派手で、見ていても分かり易いと言うか、所作も面白いものですね。
この後に三番叟は一旦席に戻り、三人の翁は退出します。
三番叟は黒い尉の面を着け、千歳は鈴を持って共に舞台の中央に進み、どちらが次の舞を行うかの問答を始め、三番叟の鈴の段が始まります。
舞に使われる面は室町時代の物が多く残っているそうで、少なくとも室町時代の初期には舞が確立していた事は分かるのですが、享保年間に記された『奈良坊目拙解』には、かなり眉唾な事が書かれているようで、桓武天皇の御世に春日王の病気平癒のために二人の息子がこの舞を始めたのが、これらの舞の起源だとか云々……
伝承をどこまで信じるかはともかく、少なくとも大和の申楽座が『式三番』を確立する以前より、これらの舞が行われたのは確実なのだそうです。
同様の祝言の舞が、中央権力などと結びつく事によって昇華した『式三番』と、地方芸能のままで存続されて来た『翁舞』の違いが現れているという事なのでしょう。
それを比較できるだけの知識があれば良いのですが……ε-( ̄ヘ ̄)┌
8月13日、東大寺大仏殿にて行われました法要の正式名称です。
法要の趣旨に対して、私ごときが云々するのもおこがましい……ともあれ参加をしてまいりました。
この日から15日まで、大仏殿の夜間拝観の日、受付の始まる18時30分には、19時からの一般拝観を待つ人の列が既に中門前にでき始めていました。
それを脇に見ながら回廊の途中にある門から入って大仏殿に向かえば、スリッパに履き替えて上にお上がり下さいとの事。
今までも何度か、金堂(大仏殿)内での法要に参加した事があるのですが、余程の賓客でない限り上がれるものではないと思っておりましたので。
かつて友人も、大学の先生に引率してもらって上がらせて頂いたと言っておりました。
かくしてこれで、頭の中が多少ぶっ飛びまして、本来の法要の趣旨を半ば忘れているような状況と相成りました……不謹慎です、いつもながら(・_・;)
だって、ずっと見たかった蓮華座の線刻画がすぐ目の前にあるのですから。
おまけに座った場所、最も残りの良い辺りです。
これが反対側でしたら、ほぼ残っておりませんから、ありがたやありがたや( -」)φ
その頃には、一般の参拝者で金堂内もかなり混雑をしていましたので、来週に帰省する時の土産などをチョイト買いまして、早々に基壇の石段を降り始めますと、正面の燈籠に火が入っておりました。
正面に回って何気なく見上げますと……金堂の正面の窓が開いて、毘盧舎那仏の御顔が見えるではありませんか。
てっきり、15日の『万燈供養会』の晩だけだと思っておりましたので、少々驚きました。
何せ、いつ開くのと人に聞かれた時、8月15日と1月1日のみと答えてしまいましたので……
15日の万燈供養には行けないので、こちらにもありがたく思いながら、『燈花会』の火を横目に見て、博物館や興福寺を通って岐路に着きました。
途中で、ムササビが松の木から木へと飛んで行くのを見ました。
こいつら、昼間はまず見かけないからなぁ……以前に見たのも、何年か前の『燈花会』の晩だったなぁ(゜.゜)
毎年公開されるのは散り椿の花の咲く3月12日と、地蔵盆の7月23日の二日だけだそうですが、イレギュラーに公開されることもあるようです。
ちなみに大抵の地域では8月23、24日が地蔵盆のようですが、奈良町では7月23、24日が多いと聞いています。
奈良町以外では帯解寺でも、同じ日に地蔵会式が行われています。
本当に裸体に作られています。
そのため、別に作られた衣や袈裟を身に着けておられます。
そして毎年、地蔵会のこの日に新しい衣へのお着替えの法要を行います。
今年は土曜日でしたので、例年よりも参加者は多いようで、観光客の方も結構おられました。
ってのか、私もその一人ですσ(^◇^;)
まずは光背が外され、右の御手に持った錫杖も外されますが、この錫杖は真ん中から二つに分かれます。
この御地蔵様は鎌倉時代に作られたので、当然ながら寄木造りです。
着替えの時には、如意宝珠を持った左手を外させて頂いておりました。
そして昨年の衣を全て脱がれた後は、新しい物を着て頂くという流れになります。
衣の色は毎年変わると聞いていますが、今年は明るい黄色です。
それにしても相手が仏様とあってか、着替えを行うのも、かなり気を使うのか大変そうに見えました。
御地蔵様は着衣を整えて行くのに、御住職はと見れば……既に着崩れています(・_・;)
法要の後、焼香を済ませた参拝者はお守りを頂けたのですが、もしかしたらこの中身が昨年に着替えた衣なのかもしれません。
私も頂きましたが、袋を開いて見るような不信心な事は致しません(・_・)
そうすると、今年脱いだ衣は来年のお守りになるのかな(?_?)
春日大社では、毎月1、11、21日に旬祭を行っています。
その内、21日は一般の人も参列ができるという事で、今月は土曜日に当たりましたので初めて行って参りました。
集合が9時半という事で、家を朝の8時に出ました……普段と殆ど変わりませんね(-_-;)
初めて内拝殿(御廊)の内に入りました!
瑞垣のすぐ向こうに御本殿の桧皮屋根が覗いているのがすごい……
目の前を御神饌が運ばれて行くのを見て、ついつい感激してしまいました。
第一の膳はお神酒に箸、米に餅、第二膳は干魚、昆布、野菜、ぶと(揚げ菓子です)、第三膳は果物……これらの御盆を神職の方々が目の高さに掲げて、次々と手渡しで送って行きますが、これがかなり大変そうです……御盆の上の御供物はかなりの量ですし、装束は狩衣、足元はあの厚底スリッパみたいな木沓ですから(~_~;)
神事ですから写真は勿論厳禁……だと思います、特に注意も受けなかったのですが、皆さん、常識で分かっておられるようですし。
今日は土曜日なので、参加者が多いとの事、先端科学技術大学院大学の学生さんも大勢いらしていました。
毎度思うのですが神職さんの御話は、結構面白いです。
あの広い春日大社の境内、教えてもらわなければ気がつかない事や、見ていても意味が分からない事が、ここぞとばかりある事が良く分かります。
今日(既に昨日)は興福寺の『薪御能』の日でして、午後二時から若宮社の方で『御社上(みやしろあがり)の儀』があるという事で、そちらに行って見たのですが……奉賛金4千円、また値上がりしてない?(ーー;)?
そういう訳で諦めました(/_;)
そして引き上げる途中、参道で麻酔矢が後ろ足辺りに刺さった雌鹿がおり、鹿愛護会の人たちが経過を見ているのに行き当たりました。
怪我をしている鹿を保護しているのかと思いきや、子連れの母親だそうで、母子共々に鹿園で暫く保護管理するのだそうです。
何せ子連れの母鹿は気が立っていて、人が近付くと攻撃的になるのでトラブル防止策だとの事です。
練習からして人目に慣れるというコンセプト?
どの方も既に慣れているのか、あまり人目もカメラも気にする間もなく、真剣な面持ちで取り組んでいましたので早々に引き上げて、今日も春日の杜の大王に会いに行くうめぞーでした。
この後は奈良国立博物館の特別展と常設展(結構、展示が変わっていましたか)をみて、18時過ぎくらいに駅へと向かいますと……県庁の前あたりから謡いや鳴り物が聞こえてくるじゃぁありませんか。
これって『羽衣』だよねぇ……興福寺は南大門の復元工事中なので、今年も登り大路沿いで『薪御能』を開催しました。
脇正面の逆側(つまり謡方の背後)に無料鑑賞ゾーンがあるとの事で回ってみますと、この程度なら見えますわねぇ、という状況でして……また足が止まったわσ(^◇^;)
そういう事で、大蔵流狂言『つくづくし』と宝生流能『鵺(ぬえ)』を拝見しておりました。
『鵺』って世阿弥作でしたっけ?
五番目物の割には、妙に物悲しい内容なのですよね、ってのか、五番目物は案外、そういう話が多いかもしれませんわね。
原案は勿論、源三位頼政の鵺退治に由来しているのですが、鵺の側から物語が語られるので、何とも奇妙に複雑な心境になって来る話です。
……にしても、アイ(狂言方)の里人は、かなり食わせ物のキャラクターです。
ワキの僧侶が宿を請えば、御触れで禁じられてるからダメだと言う、あっちに御堂があるからそこに泊まればと、毎晩化け物が出る場所を教える。
僧侶が無事と見れば、由縁を話した挙句におだてあげて供養を頼むって……だから、今日も謡曲のストーリーに突っ込まなくても良いから……ε-( ̄ヘ ̄)┌
こういう事をしていたので、早く帰るつもりがしっかり二十二時の帰宅となった、それだけの事です。
それよりも、何時仕事するんだ、我ながら(--〆)
五月十四日は中将姫の御命日だそうで、毎年この日に当麻寺では『練り供養』が行われています。
中将姫と呼ばれている女性は、藤原南家の右大臣豊成の娘とされ、若くしてこの当麻寺で出家し、やはり若くして亡くなっているようです。
そして伝説では、この寺にて蓮糸で曼荼羅を織ったとされています。
この辺りの物語、折口信夫の『死者の書』をはじめ、謡曲『雲雀山』や浄瑠璃などで有名でしょうか……ってのか、この辺で勘違いされているような気もしますが(ーー;)
実のところ、私の周辺にはこの法要を見に行った事があるという人が殆どおりませんで、どのような状況なのかニュースや新聞記事でしか知りませんでした。
おまけに今年は土曜日に当たるので、絶対に混雑する事も窺えますし……(-_-;)
実際、いつもの年よりもかなり混雑していると、ご近所らしい人が話していました。
練り供養自体は、各地のいくつかの寺院でも行われているようですが、その元祖がこちら『当麻寺』で、既に千年を超える歴史があるのだとか。
何年か前に菩薩の面や装束も新しくしたそうで、昔とは別の趣きで良いものですよと、やはり御近所の方らしい御婦人が話しておられました。
これには尼僧姿の中将姫の坐像が乗せられていますが、御簾がかけられているために、御姿は殆ど見えません。
そして僧侶や楽人、お稚児さんに続いて、二十五菩薩が介添え役の人に手を取られて、まさにゾロゾロとやって来ます。
これが行きは常に逆光状態で、写真はフォトレタッチで修整しませんと、色も飛んでしまって全体にぼやけた感じになってしまいます……修正して何とか、ここに載せたという状況です。
逆に、通り過ぎた後姿は西日を浴びて鮮やかなものです。
それが二番目の、菩薩の後姿ですね。
ところでニュース映像などで良く見る、踊るようにして歩いて来る菩薩は阿弥陀三尊の脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩だけです。
そして西に帰ってゆく時には、観世音菩薩の捧げ持つ蓮の花の上には、中将姫が乗っておられるという事になっています。
隣にいた二人の若い女性達が、この格好は絶対に如来じゃないねと囁き合っていました。
私にもそう見えます(~_~;)
それはともかく、仏画などに良く見られる、二十五菩薩と阿弥陀如来の来迎の様子を、このように表している訳です。
それを頭に入れておきませんと、何か変なパレードに見えない事も……と、今日も罰当たりな事をいう奴でした(*_*)
浄瑠璃などでは、この女性がまだ子供の時に孝謙天皇の前で琴を弾き、それが見事だと褒められたために中将の位をもらったとあるようですが……奈良時代の後期に、女性にそのような位を授ける事は絶対に無いでしょう。
ちなみに父親が中衛や近衛の中将だったかと申しますと、こちらの事実も無いようです。
私には未だに、この藤原南家の媛君にこのような名前がついた意味が分からずにいます……ってのか、この媛君の本名が伝わっていないのですから何とも申せませんが。
今日は午前中に大阪の住吉大社でふらついていて、そのまま当麻寺に来たので結構疲れましたわ……そして明日は京都だわ^_^;
いい加減、遊び歩いとらんで仕事せいって(-.-)
連休遊び倒し(?)の最終日は春日大社です。
昨年後半から妙に春日大社づいてます?
お蔭でこのところ舞楽と言えば雅亮会(四天王寺)よりも南都楽所(春日大社)です。
五月五日は朝から端午の節句にちなんで『菖蒲祭』
舞殿の柱にはさり気無く花菖蒲(アヤメ科)と蓬の葉が飾られていますが、この日にお風呂に入れるのは菖蒲はサトイモ科の植物です。
しかし、柄付きスポンジみたいな菖蒲の花では、それこそ華が無い……見た目も艶やかな花菖蒲で代用しています。
神事は参列者に御祓いをした後に御本殿の御扉を開き(多分……だって見えないし^_^;)、御供えを献じまして、華道の先生による献花、祝詞の奏上、玉串を捧げまして、撤饌、御扉を閉めて神職の退場と言うところだと思います……だって見えないんだもの(^^ゞ
供献と撤饌の時には、楽が流れますので何となく分かります。
神事は基本的に非公開、この後に行われる舞楽を見ようと参拝の人達は舞殿の外に並んでおります。
この間、背後で若い神職さんが「賽銭箱の前は、御参りする方のために御空け下さい」をひたすら繰り返していました……結構大変な役目かも(~_~;)
今年は『還城楽(げんじょうらく)』でした。
タイトルからすると、戦いに勝った将軍が凱旋するような内容に思えるのですが、舞を見ておりますと全く違うストーリーです。
走舞(わしりまい)の内でも、これほど分かりやすい(?)舞は無いかも知れません。
蛇を食用としている人種が、蛇を見つけて喜ぶ……見も蓋もない表現ですみません。
最初は舞人が一人で序を舞っているのですが、途中で出て来た人が、その後に密かにとぐろを巻いた蛇を置きます。
暫くして気がついた舞人は露骨に喜びまして(上の画像)、徐々に間合いを詰めた後、一気にゲットします。
そして右手に撥、左手に蛇をつかんで狂喜乱舞(?)してくれます。
実を言えば私、この日の舞は『蘇莫者(そまくしゃ)』かと密かに期待しておりましたが……
先月の二十二日に法隆寺で『聖徳太子1390年御遠忌』の法要があったのですが、舞楽四箇法要の途中から土砂降り……中断の後、殆どの行事が中止となりまして、この中に舞楽『蘇莫者』もありました。
南都楽所では基本、十年に一度の法隆寺の大会式の時にしか『蘇莫者』は奉納されないとされています……が、七年前(申年)の舞楽始め式で拝見しましたわ。
今年中にどこかでリベンジで行われないかしらと、密かに期待をしているうめぞーでした。
更に午後からは万葉植物園にて『子供の日萬葉雅楽会』がありました。
また記事を改めまして<m(__)m>
この法要は朝廷からの勅使を迎えて行われたそうですが、戦国時代に兵火で講堂が焼失してからは途絶えてしまったそうです。
それから五百数十年、平成十五年に大講堂が再建され、この法要も復活しました。
この辺りの事は、昨年の記事にも書きましたね。
結構盛り沢山な法要と申しましょうか、まずは四箇法要(しかほうよう)が行われた後に、表白(ひょうびゃく)や勧請(かんじょう)が行われ、講問論議(こうもんろんぎ)となります。
村上さ~ん、今日も良い御声ですね~……ってなところです( ̄▽ ̄)。o0○
ところでこちらの法要、行道のみならず堂内でも天理大学雅楽部の学生さん達の演奏がありまして、四箇法要の唄(ばい)に合わせて管弦が行われていました。
これを聞いていて、篳篥が人の声を表すという言葉の意味が、よく分かりました。
今年の勅使役は志野流の蜂谷宗玄氏だそうです。
すみません、流派の御名前も宗匠さんの御名前も初めて聞きましたσ(^◇^;)
この後に行われました番論義(ばんろんぎ)は、二人の少年僧によって行われます。
昨年に行きました興福寺の『慈恩会』でも、この試問は行われていましたが、やはり何を言っているのか全く分かりませなんだ(T_T)
それでも「今一度申せ」の言葉に、そこかしこから微かな笑い声がしていました。
もう一度、あのヤヤコシイ質問を繰り返さなけりゃならないのね……(~_~;)
法楽の最勝王経の読経も終わり、最後の惣礼(そうらい)の後に講堂を退出した時は既に二十時過ぎ、暖かい夜で助かりました。
薬師寺の伽藍も先月くらいからようやく、ライトアップを再開したようですが、六月にはついに東塔の解体修理が始まるそうで、予定としては平成三十年までは覆い屋に囲われてしまうそうです。