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これは京都三大祭の一つ『葵祭』の最初を飾る神事で、毎年、5月3日に行われます。
近畿地域で行われる騎射というか流鏑馬となりますと、ここと三重県の多度大社くらいしかないので、毎年とても盛況です。
今年も有料席でも取れたら取ろうと、11時半くらいに購入者列の最後に並び、待つ事一時間余、何とかゲットして、二の的と三の的の間くらいの中途半端な位置で眺めておりました。
それにしても、今年は更に馬場殿が遠い……・゚・(ノД`;)・゚・
諸役がお祓いを受けて、門を入っていったところで退散して、暢気に御茶屋で申餅を食べておりました。
今年は案外近くで、長官代と一の射手の開始宣言を眺め、またも意味不明に動画なんぞを撮ってしまいました。
騎射はほぼ、動画を撮って遊んでおりました。
それにしても、三の的エリアにまで下がってしまうと、埒のロープで、一の的が殆ど見えない(T_T)
しかし、音を聞いていれば的中か否かは良く分かります。
今年は例年になく的中率が良かったように思えました。
天気も良くて、熱くもなく寒くもなく、散々に楽しんで帰って参った次第です……が、二の鳥居を出た辺りで驟雨?
儀式がつつがなく終了した後ですから、これも良しと致しましょう??(゚_。)?(。_゚)??
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今年も29日の昭和の日の奉賛祭で、久米舞を拝見してきました。
大伴氏と佐伯氏がこの舞を勤めたようで、大伴氏二名が弾琴、佐伯氏八名が大刀を持って舞ったと、職員令の雅楽寮に関する古記録に見えているようです。
ちなみに現在、橿原神宮では四人の舞人によって舞が行われています。
菟田(うだ)の 高城に 鴫(しぎ)わな張る 我が待つや 鴫は障(さわ)らず いすくはし 鷹(くじ)等障り
前妻(こなみ)が 肴(な)乞(こ)はさば 立稜麦(たちそば)の 実の無けくを 幾多聶(こきしひ)えね
後妻(うはなり)が 肴乞はさば 斎賢木(いちさかき) 実の多けくを 幾多聶えね
この後に舞人は抜刀し、和琴の音だけにあわせて大刀を打ち振るいます。
大刀を鞘に収めた後、『伊麻波予』が歌われ、舞人は四人並んで袖をひるがえして舞います。
今はよ 今はよ ああしをや 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
神武天皇即位前期には、これらの歌以外にも『久米歌』とされる歌が出てきますが、どうしてこれが選ばれたのか良く分かりません。
いずれにしても現在、宮内庁や橿原神宮で行われる『久米舞』は江戸時代に復興したものだそうで、古記録に見える舞や歌は、室町時代に廃絶してしまったという事です。
春日大社の『百々手式(ももてしき)』も、そのような行事の一つとなりつつあります。
御奉仕下さるのは、小笠原流の弓馬術礼法を継承されている方々で、奈良だけでなく西日本各地からの参加をいただいているそうです。
ちなみに御宗家は神奈川県御在住との事です。
百々手式に先立って、若宮社で『蟇目(ひきめ)の儀』が行われました。
こちらのでの蟇目は的ではなく、若宮社の細殿(ほそどの)の屋根越しに射るという変わったスタイルで行われます。
杜に向けて放たれた矢は、行方を見定める役目の方がいて、しっかり回収してくれるとの事。
我ながら撮ってどうするんでしょ(・・?
『百々手式』は御本殿回廊内の『林檎の庭』で行われます。
しかし、この場所は決して広くはないので、五人ずつ三組に分かれて実施されます。
まずは最初の組(『前弓』というそうです)が登場。
射手は階段のテラス部、的よりも高い場所から狙うので、かなり難しそうです。
男性陣はいつものように片肌を脱いで弓を引きます。
このように片袖を脱いで、一人が二筋ずつ射ます。
本来は十人が十手(一手は二筋の矢を射る事だそうで)射たので、合計百手として『百々手式』と呼ばれます。
的役の人達が、射られた矢を回収して、各組の介添役の人に渡し、それぞれの射手に返します。
この一連の動作にも、決められた作法があるそうなので、そちらにもぜひ注目して下さいとの解説です。
そのような訳で、後弓の時はこのように林檎の木で殆ど射手が見えておりませんでした。
ちなみに林檎の花は既に散っておりました。
二年前には満開だったのに、今年は咲くのも散るのも早いですね。
御本殿の周囲では、山藤の花も真っ盛りに咲いて、連休初日は大層良い日になりました……と、やや意味不明に締めくくるm(__)m
十天楽(じゅってんらく)という、聖霊会にのみ奏される曲が左右の楽人によって奏され、御供(ごく)所から石舞台上を経て六時堂までの間を、菩薩、八部衆、迦陵頻(かりょうびん)、胡蝶(こちょう)などの諸役が並んで、手渡しで御供えを送って行き、最後に迦陵頻と胡蝶の一臈の舞人が堂の階段を登り、僧侶に渡して宮殿(くうでん)の聖徳太子御影の前に供えます。
どちらも残っている曲が奏される間、『大輪小輪(おおわこわ)』という、舞台を回るだけの所作を行います。
この後は番(つがい)になる童舞(まらべまい)、左方の『迦陵頻(かりょうびん)』と右方の『胡蝶(こちょう)』です。
四天王寺では、どちらも男の子が付け髪をして舞ってくれますが、これがとにかく可愛い(^_^;)
特に『迦陵頻』は大抵、小学校低学年くらいの男の子が勤めます。
四人して背中の鳥の羽に振り回されるように飛び回っていまして、見ていてもつい笑みがこぼれる次第です。
今回の『胡蝶』は割合に背の高い子達が、しっかりと舞ってくれました。
こちらは、大体いつも五人舞です。
童舞が終わると三度目の行事鐘が打たれ、『四箇法要(しかほうよう)』の開始となります。
そういう訳で、しつこく続くのですが、この調子じゃいつ終わるんだε-( ̄ヘ ̄)┌
そして舞楽法要の幕開けとなります。
最初の演目は『振鉾(えんぶ)』三節。
一節目は左方の舞人(オレンジ色の装束です)が、二節目は右方の舞人(緑色の装束です)が、三節目は左右の舞人が鉾を振るって舞台を清める舞を行います。
右方の舞楽『蘇利古(そりこ)』は、一般的には四人舞いだそうですが、四天王寺では五人で舞う事が恒例化しているそうです。
ちなみに私は、四天王寺以外ではこの舞を見た事がないので、常より五人舞だと思っておりました(~_~;)
舞が行われている最中、六時堂内に安置されている聖徳太子の御影の帳が上げられる『御上帳(みじょうちょう)』と、御水を奉る『御手水(みちょうず)』の儀式が行われているそうです。
堂内の奥の方での儀式のため、一般の人の拝観場所からはまず見えないので、殆どの人は『蘇利古』の舞に集中しているところでしょう。
いずれにしても、この舞を最初の供養舞とするため、聖霊会には欠かせない舞なのだそうです。
そして堂前で礼拝をして、一舎利は西側(御堂に向かって左側)、二舎利は東側の高座(こうざ)に登ります。
一舎利が『諷誦文(ふじゅもん)』を、二舎利が『願文(がんもん)』をそれぞれ唱え、法華経八巻の読誦をされるのですが、これらの声はほぼ聞こえません。
この時、舞台には四人の左方の舞人が登場し、舞楽『萬歳楽(まんざいらく)』が舞われています。
いずれにしても唐楽の代表として、御祝いの時にはよく舞われる舞で有名です。
この後、舞人が舞台を降りると、南側に置かれた『行事鐘(ぎょうじしょう)』が打たれ、法要は次の段階に移ります。
今年は“昭和伽藍復興五十年記念”という事で、四箇法要(しかほうよう)の内、散華の後に『梅の木行道』を行うという特別な様式になるそうです。
そして門を出てすぐの辻で、左方と右方に別れて六時堂の横を回り込み、池も越えて、正面から石舞台に上って舞台前庭儀(ぶたいぜんていぎ)を行います。
衆僧が舞台の上の両側に並び、その間を左右の楽人や長者役、八部衆の面を下げた人々、更には天蓋や傘を差しかけられた一舎利と二舎利が渡って、六時堂に入場します。
その後に舞台上で行われる惣礼伽陀(そうらいかだ)で、法要の開始が告げられます。
桜は有名ですが、お寺の方はかなりマイナーで、多くの観光客が御参りに来るのは、春の桜の時期と秋の彼岸花の時期くらいでしょうか?
境内には859年に造られたという大師の入定岩屋があります。
ところで堅恵大師って、ここの創建の他にどのような業績のある御方なのでしょう(~_~;)
ともあれ千年桜以外にも、境内では白山桜や紅枝垂桜、山梨の花も満開で、華やいだ様子を呈しています。
見慣れた染井吉野に比べると花は小さく、散り際にも白いままのようです。
樹齢は900年を越えるとされていますが、今なお満開に花をつけている様子は実に見事なものです。
今がまさに満開、今日の暖かさで少し花弁が舞い始めていました。
この辺りは標高が高いせいか、千年桜を尋ねる途中でも、白山桜や枝垂桜、八重桜が見頃で、染井吉野もまだまだ咲き残っていました。
次は記事を変えて、すぐ近くの『伊豆神社』の様子でも。
神事の後に行われた寸劇は、この様子を面白おかしく見せてくれます。
審議の対象となった問題の多くは、このような事だったようです。
ところで、この劇で問われる真偽は各人の来歴の事ではなく、寺院の仏像が傷つけられたので、その犯人を捜すというものです。
そして怪しいと思われる三人の人物が引き立てられ、公開の元で『盟神探湯(くがたち)』を行う事になります。
それでも審判者は早くしろと促します。
最初の人(白い衣装、山辺白人さんかな?)は思い切って湯に手を入れるて火傷をするのですが……実はこの人の罪は仏像を傷つけたのではなく、病気の母親のために御供えの饅頭を盗んだというものでした。
そして三人目(青い衣装、物部青人さん?)、相変わらずああでもないこうでもないと言いながら、さっさと手を入れろと審判者の中臣氏に促されます。
結論を申しますと、犯人はこの人でした。
この人は物部氏出身だそうで、やはり仏像を崇拝する人たちを否定的に見ていたようです。
衣装から窺うに飛鳥時代で、まだ仏教が正式に認められたか微妙な時代でしょうから、この人の罪は器物破損くらいのものでしょうかn(ー_ー?)ン?
こうして御芝居も終わりまして、氏子の方々が参列者に笹の枝を配ってくれました。
皆様も手ではなく笹を湯に浸し、色が変わらなければ嘘をついていないと思って下さい。
まあ嘘も方便、誰にしろ一つや二つは秘密もあるでしょうからお気軽にと、皆さん、珍しい神事に進んで参加をされていました。
笹は各人持ち帰って、御祭して下さいとの事。
このように寸劇を行うようになったのは、この十年位の事のようで、劇団の人が参加するようになったのも、つい最近の事だそうです。
今年は午前中に雨だったせいか、チョッと人出がさびしいかなという様子だそうですが、狭い境内、御近所の人や観光客、外国からのお客様も来られて、無事に神事も終了致しました。
もらった説明書によりますと、盟神探湯は古代の裁判方法として、日本書紀の允恭天皇四(415)年の条に見えるそうです。
祭は明日香村の豊浦と雷の大字の方々が氏子として行っていましたが、もう少し見ても分かり易く面白い物にしたいと、考古学者で有職故事を研究している猪熊兼勝先生にプロデュースして頂き、衣装も調えて、境内の『立石』の前で寸劇を交えて神事を行っています。
今日はとても風の強い火で、午前中には雨も降っていたために気温も上がらず、かなり寒く感じる日でした。
こちらは『飛鳥坐神社』の飛鳥宮司が宮司を兼ねているようです。
『立石』の前に据えた釜では湯が沸騰し、宮司がその中に米と酒と塩を注ぎ、笹の葉を浸して参加者に御祓いをします。
その後、猪熊先生からお話を伺い、明日香村の劇団『時空』による寸劇が行われます。
では寸劇の様子はまた改めてm(__)m
今年は本日、4月1日(月)~7日(日)までで、昨年と同様に夕方からはライトアップが行われ、最終日は恒例の参道パレードをもって締めくくりとなります。
勅使祭の後、扇舞や国栖奏(くずそう)の奉納があるようです。
さて本日は、18時よりライトアップの点灯式が行われるというので、早く帰って来たのを幸い、散歩がてらに出かけてみました。
御本人の御言葉によりますと、国産みの神話からカムヤマトイワレヒコが橿原に入って国見をする物語を、記紀などに見える歌謡でつづるという事でリサイタルが始まったのですが……
この方はここ何年か和歌劇という名前で、このようなリサイタルを行っておられまして、歌の途中で物語を語ってくれます。
語るというのか騙るというのか……この内容、かなり誤解を招くというか、無理があるというか、とにかく頭の中が???????????になります(-_-;)
まあ、この方の和歌劇を聞きに来る人は、あつかわれるテーマに多少とも造詣を持っておられると思いますので、ベタに信じはしないでしょう……と、希望的観測(-_-)
『まほろばファンタジア』というタイトルがつけられていましたが、内容を見てみますと、まさに『神武東征』です。
筑紫を発って難波から上陸した神日本磐余彦が、生駒で敵に阻まれて一旦撤退しますが、日を背負う形で熊野より上陸し、山中で高天原の神の剣を授かり、ヤタガラスに導かれて大和に入るというストーリーのようです。
楯の壁は破壊され、赤と青の光が飛び交い、再び日輪が画面を覆い、次には岩を砕く剣が現れ、三本脚の鴉の飛翔が続きます。
剣は更に壁を切り崩すと、金色の鵄が光に向かって飛び立ち、やがて幔幕の間から現れる宮室に吸い込まれ、最後は満開の桜に画面は変わります。
この3Dマッピングは6日まで、毎晩18時30分から行われるので、機会のある方には是非ともおすすめです。
なお6日には19時からタケカワユキヒデさんのコンサートもあるそうです。
そして参道パレードは7日の13時30分から、今年も天気に恵まれますようにm(__)m