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実は以前にも一度乗ったのですが、その時は私の体調がイマイチで、殆ど写真も撮っていなけりゃ、何やら記憶がえ~かげん……(-_-;)
11時ちょうどに桜井駅を発車する便の二両目(実は二両編成です)、本日(12月1日)は万葉美人が二人でガイドをしてくれました。
明日香村の劇団『時空』の看板女優の二人です。
確か以前には若菜ちゃんと勝さん(大ベテランの俳優さんです)だったっけ。
まほろば線(旧桜井線)の沿線には、大神神社、大和(おおやまと)古墳群、大和神社、石上神宮、帯解寺などの史跡がありまして、最寄の駅に差し掛かると、由来や位置を教えてくれます。
このイベントも余すところ2日と8日、9日の三日間のみ。
奈良や桜井方面に行く方で、この日に当たっているようならば、是非ともJRで。
奈良発は9:04と13:37、桜井発の便は11:00と15:40の二便ずつでガイドしてくれるそうです。
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いつもながらに、こちらの現地説明会は雨天気味の事が多いですが、この度も例には漏れておりませんσ(^◇^;)
それでも説明が始まる頃には、何とか雨が上がり、天気予報通り、寒いの何のと……
今回の調査の場所としては朝堂院(ちょうどういん)の東第一~第二朝堂の前辺りなので、宮が機能している時には、朝庭(ちょうてい)の一部となっているので、礫敷きが検出されてしかるべき、という訳で今回も上層の遺構面にはコブシ大の石が敷き詰められていました。
礫敷きの上には、古い瓦を敷いた平安時代くらいの道もありましたが、一部に小判状にへこんだ場所がありまして、これを半裁したところ、新聞記事などでも取り上げられた、おびただしい木屑の発見と相成りました。
分厚いところで10cm程度の堆積が有ったそうです。
何れもチョウナやヤリガンナなどで削った物なのだそうで、整地土に掘られた穴に捨てられているので、明らかに造営時の産物です。
宮の造営時といえば、昨年に西側で見つかった建物群の続きが、やはり下層で三棟分見つかっています。
一つは正方位に乗っていないので、更に古い物と考えられますが、いずれにせよ整地層を重ねて行く途中で建てられた掘建て小屋です。
そして同じエリアに直径3メートルにもなる土坑がありまして、壊れた瓦などが出土したので、物を廃棄していたのかもしれません。
この埋土の中からは、ゲンゴロウ(動物遺体)なども見つかっていて、水が溜まっていた可能性も指摘されています。
今回の調査区の北端では、以前の調査でも確認されていた大きな窪地の南端が部分的に確認されていて、朝堂院の北東隅にはかつて沼状の地形があり、そこを埋め立てて造成をした事も判明しています。
この類の自然地形を埋め立てるというのも、かなりの労力と土量を有する物ですから、生半可な造営事業ではなかった事が良く分かります。
これを十六年で放棄してしまうという、当時の国家権力の大きさにも魂消させて頂けました( ̄▽ ̄)。o0○
そんなに昔からやっていたかなと思うのですが、毎年大体の施設が11月半ばの土日の二日間を当てているようです。
そういう訳で今年は17、18日が鑑賞無料日になる施設が多い状況です。
ところで何となく毎年、行く施設が決まって来ているような気がしております。
昨日は『橿原考古学研究所付属博物館』と『香芝市立二上山博物館』に行き、奈良市に用事があったので、夕方から『県立美術館』の特別展を拝見して来ました。
そして今日はと申しますと、まずは『桜井市埋蔵文化センター』の展示室に久々に行って参りました。
この埴輪は小立古墳の出土だったかな、頭部しか見つかっていないのですが、なかなか可愛い御馬さんです。
ここも可能なようで、職員の方が説明をしている傍らで、ストロボを焚きまくって写真を撮り続けている方がいたりしました。
大抵はストロボや三脚は禁止なのですが……
この土馬(どば)は桜井公園からの出土で、奈良時代初期かそれ以前の物だと思われます。
平城宮近辺で見つかる大和式の土馬に比べると何となくリアルですが、この頭の位置だと馬というよりも牛に見えるようなσ(^◇^;)
ここでは現在、特別展『蹴鞠』が開かれています。
その展示でようやく分かったのですが、常設展に並んでいるこの騎馬女性の像、どうやらポロに興じているようです。
下げている右手にはスティックを握り、上げている左手は手綱を操っているのかもしれません。
スティックや馬のハミや鏡板は別材で作られていて、今は失われているという事なのでしょう。
京都の蹴鞠保存会の方々による蹴鞠の実演は、これまで何度か見た事があるのですが、こちらの知識が見事に無い事は、展示を見てよくよく分かりました(・.・;)
蹴鞠を行う人を『蹴足』と呼ぶのだそうで、そんな事すら知らなかった……(-_-;)
ところでこれは常設展で見る事のできる唐三彩の馬です。
盛唐時代の三彩陶器の殆どは明器(墓に入れる副葬品)なのだそうで、博物館などで時々見る事のできるこれらの馬も、亡くなった方のあの世での愛馬として一緒に葬られたようです。
主は生前、実際にこのように見事なアラブ種の斑馬に乗っていたか、それは想像するしかありませんが。
二日間の内の日付は指定できるけれど、確か時間は開催側が割り振ってくれるそうで、届いた返事には11月11日13時となっておりました。
週間予報が発表された時から11日は雨……その予想を違わずに、この日は朝8時過ぎから雨(;_;)
それでも土砂降りでも雷雨でもなかった事は幸い、昼前くらいに家を出て西ノ京に向かいました。
初層の前で説明を受けて、素屋根内部の七階部分まで一斉に上がり、そこでの説明が数分、自由に見学できる時間は十数分というところです。
ちなみに薬師寺の塔は三重塔ですが、それぞれの層に裳階(もこし)が着くため屋根は六層、更に巨大な相輪が乗るので、素屋根は七階建てとなります。
ここに見えている軒の組手は初層屋根の物ですが、かなりの痛みが見て取れます。
軒などに限らず、塔の要たる芯楚の破損も大きく、内部に大きな空洞ができている状況だそうで、この度の修理は塔の全部を解体して行うと聞いています。
下ろした瓦は奈良時代のものから、先の昭和の解体修理時の物までありまして、四方を護る鬼瓦も鎌倉時代から昭和の物まで並んでおりました。
これらの瓦、梁や柱、垂木などの木材も可能な限り再利用し、損傷箇所は補強を行い、破損の大きな部分は新たな素材に取り替える事になります。
解体に伴ってそれらの調査も進められ、予定としては平成三十年に完了となっています。
初回は4倍以上だったというので、少しは当選しやすくなっているようです。
この類は回を重ねると次第に倍率も下がるようで、高松塚古墳の壁画修復の見学など、ここ最近は定員に多少の余裕があるくらいだそうです。
そういう訳で、次の見学会に向けて、県の文化財保存課のインフォメーションをチェックしておく事と致しましょう(^^ゞ
ところで、正倉院の屋根の方はどうなってるのかな~?
こっちは宮内庁の管轄だけどね。
春日大社の酒殿の檜皮葺き替えは、先週に見学して来たし、他にも橿原市や大和高田市などでも、指定建造物の修復中だし、県の文化財保存課も忙しそうです。
さすがに最後の土日ともあって、ミュージアムショップや常設展も、いつに無く混雑しておりまして、今年も盛況振りが窺えるというところです。
ところで文書類を眺めて見ますと、毎年ながら有名人の名前が出てきまして、何やら嬉しくなるものです。
今年も造東大寺長官や次官の名前や自著が見えました。
ただし、初代長官たる『市原王』の場合は、天平宝字二年の伊賀国柘殖郷(つむえごう)での、土地売買に関する文書に名前が現れております。
十町ほどの土地を東大寺に売り渡しているのですが、この土地、西南角が『藤原夫人』の土地に接しているようで、何やら柘殖郷と皇家の関係が伺えるような(~_~)?
他には『佐伯今毛人』『坂上犬養』(ただし、自著はなし)『高麗大山』などの名前を見る事が出来ました。
最後の方で、奉写一切経所の報告の断簡を接いだ文書が出ておりました。
ここでのテーマは、明治以降に『神護景雲二年御願経』とされていた経文の多くが、宝亀六~七年に書写された『今更一部一切経(いまこういちぶいっさいきょう)』だという事が判明したという研究成果の一環です。
内容は写経生からの成果報告でして、最後に勘会した事を示す『勘 大伴浄人』の署名が幾つか見えています。
この御仁は宝亀年間の写経所での中間管理職というところでしょうか、写経生に同様、正史にはまず現れない人の一人です。
正倉院文書には、そういう有名人が何人もいるのだそうです。
もっとも有名な御仁は『上馬養』さんです。
ところで宝亀六年といえば、良弁大僧都は二年前に遷化していますから、既に『親王禅師』の勢力がかなりのものとなっているのでは……
この写経事業にも、親王禅師の意見というか陰が深く射しているような……たあいのない妄想?( ・◇・)?(・◇・ )?
舞楽の演目の『萬歳楽(まんざいらく)』も『延喜楽(えんぎらく)』も、おん祭のお旅所祭で行われます。
時間の関係か今回の舞楽は『振鉾(えんぶ)』は省略、まずは左方の『萬祭楽』から行われました。
解説書によりますと、~隋の煬帝が楽正白明達に作らせたもので、鳳凰が萬歳と唱えるのを舞いに表したものといわれている。慶賀の際には必ず舞われる荘重閑雅、品位の高い曲である~と書かれているように、上演機会も多くいので、案外、見た事のある方も多いかもしれません。
まあ、私などが解説をしても要領を得ないでしょうから、いつものように四の五の言わず、画像を上げる事と致しましょう。
そして、この特徴的な決めポーズ、色々な方の写真で目にするように思えます。
万葉植物園での舞いは、若い方や女性の舞人も多く出演するそうで、『延喜楽』は四人伴に女性でした。
『萬歳楽』も三臈、四臈は女性でしたが、いつもながらに全く違和感なく舞われていました。
なかなかに勇壮で分かりやすいと言いますか、曲も軽快だし、見ていても面白い舞です。
この日は天気は良かったのですが、風が少々あって寒い日で、『長慶子』が始まった頃に見回せば、先程まで出来ていた後ろの方の人垣は、かなり疎らになっていました。
その辺の事は機会がありましたら(^_^;)
そういう訳で、昨日の続きです。
11月3日は毎年、春日大社の『万葉植物園』で舞楽会が行われるのですが、今年は『春日古楽保存会』の創立80周年記念の奉納演奏会が行われました。
この保存会が設立したのは昭和七(1932)年だそうで、雅楽は勿論、おん祭で行われる田楽や細男(せいのお)なども合わせて伝承保存に努め、ここから現在の『南都楽所』が出来たのだそうです。
例年の『春日若宮おん祭』の時には、日が暮れた後に『田楽』は行われ、『細男』の頃にはかなり暗くなっていますので、このように明るい時にこれらの芸能を拝見するのは、かなり稀な事になります。
昨年のおん祭りは『別願の舞楽』を二曲加えたために、一時間くらい早く『お旅所祭』が始められたので、かなり明るい時間に見る事が出来ました。
その時の記事はこちらに(^_^)
今回は更に明るい上に、いつもなら側面や背面から見る芸能を正面から見られるというサプライズです(v^ー°)
『田楽』とは言いますが、舞や軽業を行うというよりも、その振りをするという儀礼的な行為です。
『刀玉』『高足』『一臈刀玉』『立合舞』などが立て続けに行われまして、こちらの画像は『田楽』の『一臈刀玉』、小刀をお手玉のように投げ上げてキャッチする業を披露してくれます。
『立合舞』はシテとワキが並んで口上や謡を口ずさんで、扇をかざして舞います。
いずれも素朴ながら、珍しい芸能と言えるでしょう。
『細男座』の奉幣も、やはり変わったものなのだそうで、その様子も披露されたのですが、相変わらずの不勉強が祟りまして、何所がどのように珍しい所作なのか全く分かっておりませんσ(^◇^;)
総勢六名が舞台に並び、一例の後に後ろを向き、目から上だけを出して顔を白い布で覆います。
右端の二人が布の下で笛を吹き、真ん中の二人が袖で顔を隠すようにして、舞うというよりも舞台を回るような所作をします。
全体的に妙に地味で静かな舞いなのですが、小鼓の舞だけはかなり面白い動きが見られます。
『田楽』にしても『細男』にしても、おん祭の時以外には基本的、見る事が出来ないので、このような公演は極めて貴重だと言えるでしょう。
ちなみにおん祭の芸能で、他の時に行われそうにないのは『神楽式』くらいでしょうか。
とは申せ、こちらは金春流の方々による三番叟の省略バージョンというところですから、先の二曲程に異例とは言えないかもしれません。
そして、しつこく続く……次はようやく舞楽(~_~)
『明治祭』は昭和初期には『明治節』と呼ばれていたそうで、かつての『天長節』だという訳です。
とは申せ、明治天皇は江戸時代末期の御生まれですから、誕生日も旧暦で9月22日、新暦に換算すると11月3日になるのだそうです。
このような訳でこの日、諸所の神社で『明治祭』が行われるのだそうです。
そして主な儀式は御廊の内ですので、ほぼ見えませんが、『饗饌』や『徹饌』の時は、楽が流れますので何となく分かります。
楽人の方々が長らく低頭をしていたのは、恐らく『宮司祝詞奏上』の時だと思われます……見えませんので、違ってたらすみませんσ(^◇^;)
国立博物館では『正倉院展』の真っ最中なので、春日大社の参拝者は何時もよりも多いのですが、神事が終わって神職の方々が退場する頃には、幣殿の前には結構な人が集まっていました。
この人たちが待っているのは、この後に行われる奉納舞楽ですが、本日の演目は『胡飲酒(こんじゅ)』でした。
この後、13時から『萬葉植物園』にて『春日古楽保存会創立80周年記念奉納演奏会』が行われました。
そちらはまた、カテゴリーを変えましてm(__)m
『奈良ひとまち大学』でにゃら町(奈良町)の散策をした後、東大寺の金鍾ホールでの講演会に行って参りました。
にゃら町の事は、いずれゆっくりと散策して、何か記事を上げたいと思っております。
もっと色々、面白い物が探せそうなので(^_^)v
ちなみに画像は、マルシェ会場にいたせんと君と観光客の妙齢美人。
女性の顔が映らないようにと写真を撮ったのですが、チョッとこちらを向いてしまいました……(゜.゜)
さて、東大寺での講演会は、三年計画での法華堂の須弥壇修復に伴う報告の一環でして、今回は修復の経過を編集した画像で見せてくれた後、本尊の不空羂索観音像の宝冠の非破壊調査に関する報告が行われました。
非破壊検査と申しまして、主に玉類がメインになるのですが、この殆どはガラスです。
そしてガラス玉の殆どは鉛ガラスだそうです。
ガラス以外では、硬玉、瑪瑙、水晶、琥珀、真珠などが使われ、それを繋いでいるのは銀製の針金で、前の部分につけられた化仏や金具なども銀製鍍金(アマルガム法による)です。
飛鳥池工房での出土品などにも見るように、律令期には官営工房でガラス球程度の物は量産されていたようです。
日本の古代のガラスと言いますと、ペルシア・ローマ系のソーダガラスと、中国系の鉛ガラスに分かれると思いましたが、奈良時代くらいの製品は、輸入品でない限りは鉛ガラスのはずですから、宝冠の玉が鉛ガラスである事は、至極当たり前に思えます。
そうしますと、どうしてわずかながらソーダガラスが含まれるかが、問題となってきます。
これは伝世品と考えるのが妥当なのかもしれません。
ソーダガラスが現れるのは主に古墳時代、この時代の物と考えられる玉類として、硬玉の勾玉と水晶の切子玉が宝冠に使われています。
報告者の先生方は特に示唆されていなかったのですが、東大寺(というよりも金鍾寺)建立よりも以前、平城宮を建設するに当たって、あの辺りの前期古墳を幾つか削平していますから、その主体部から出土した玉類がどこかに保管されていても、全く不思議ではありません。
この可能性は随分以前から言われていまして、決して斬新でも何でもないのですが、今回の調査で科学的に素材や成分が分かった事で、更に可能性が強くなったのかもしれません。
誰もこれを言わなかったのは、美術史と科学の専門の先生だったためでしょうか?
考古屋でもいたら、絶対に言いそうな気が……σ(^◇^;)
ところで下げられた勾玉の内に一つだけ、水色のガラス製(1/3くらい欠けてます)の物があるのですが、これはどちらのガラスだったのかな……ちゃんと聞いていなかった(~_~;)
ところでどうして、ガラスに鉛だのソーダ(炭酸ナトリウム)なんぞが混じるかと申しますと、珪砂(石英砂)の融点を下げるための触媒なのだそうです。
どうも、こういう理系の知識に疎くていけません(・.・;)
法華堂や諸尊の修復はこの後、来年の春まで続き、初夏には再び御堂に御本尊を始めとした仏様が戻って、修復完了の法要の後に拝観が再開される予定との事でした。
にゃら町の事は、いずれゆっくりと散策して、何か記事を上げたいと思っております。
もっと色々、面白い物が探せそうなので(^_^)v
ちなみに画像は、マルシェ会場にいたせんと君と観光客の妙齢美人。
女性の顔が映らないようにと写真を撮ったのですが、チョッとこちらを向いてしまいました……(゜.゜)
非破壊検査と申しまして、主に玉類がメインになるのですが、この殆どはガラスです。
そしてガラス玉の殆どは鉛ガラスだそうです。
ガラス以外では、硬玉、瑪瑙、水晶、琥珀、真珠などが使われ、それを繋いでいるのは銀製の針金で、前の部分につけられた化仏や金具なども銀製鍍金(アマルガム法による)です。
飛鳥池工房での出土品などにも見るように、律令期には官営工房でガラス球程度の物は量産されていたようです。
日本の古代のガラスと言いますと、ペルシア・ローマ系のソーダガラスと、中国系の鉛ガラスに分かれると思いましたが、奈良時代くらいの製品は、輸入品でない限りは鉛ガラスのはずですから、宝冠の玉が鉛ガラスである事は、至極当たり前に思えます。
そうしますと、どうしてわずかながらソーダガラスが含まれるかが、問題となってきます。
これは伝世品と考えるのが妥当なのかもしれません。
ソーダガラスが現れるのは主に古墳時代、この時代の物と考えられる玉類として、硬玉の勾玉と水晶の切子玉が宝冠に使われています。
報告者の先生方は特に示唆されていなかったのですが、東大寺(というよりも金鍾寺)建立よりも以前、平城宮を建設するに当たって、あの辺りの前期古墳を幾つか削平していますから、その主体部から出土した玉類がどこかに保管されていても、全く不思議ではありません。
この可能性は随分以前から言われていまして、決して斬新でも何でもないのですが、今回の調査で科学的に素材や成分が分かった事で、更に可能性が強くなったのかもしれません。
誰もこれを言わなかったのは、美術史と科学の専門の先生だったためでしょうか?
考古屋でもいたら、絶対に言いそうな気が……σ(^◇^;)
ところで下げられた勾玉の内に一つだけ、水色のガラス製(1/3くらい欠けてます)の物があるのですが、これはどちらのガラスだったのかな……ちゃんと聞いていなかった(~_~;)
ところでどうして、ガラスに鉛だのソーダ(炭酸ナトリウム)なんぞが混じるかと申しますと、珪砂(石英砂)の融点を下げるための触媒なのだそうです。
どうも、こういう理系の知識に疎くていけません(・.・;)
法華堂や諸尊の修復はこの後、来年の春まで続き、初夏には再び御堂に御本尊を始めとした仏様が戻って、修復完了の法要の後に拝観が再開される予定との事でした。
いい加減に書き始めれば少しは気も晴れるかと思うのですが、最初のシーンがしっくりと来なくて、全然進んでおりません。
一層の事、官軍が近江から凱旋してきた辺りから話を始めましょうかね。
この遠征に山部王と蔵下麻呂は参加しているけれど、種継や雄田麻呂、縄麻呂は都に残っている事になっていたはず、和気清麻呂辺りはどうしましょうかね。
そもそも、この人にしても種継にしても、授刀衛府にいるという設定にして問題ないのかなぁ(゜.゜)
こういう事を考えている内は、結構、建設的な気分でいられるのですが、チョッと違う事を始めると雑念ばかりのマイナー思考に傾くような……
験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
万葉仮名というのは漢文の要素も入ってくると、何と読んで良いものやらさっぱり分かりません。
そもそも私は万葉集をまともに勉強した事は、ついぞありませんし(^_^;)
験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
神亀四年に大宰帥として赴任した大伴宿禰旅人(淡人)の『酒を讃むる歌』十三首の筆頭に詠まれている、大変有名な歌です。
歌の意味は、そのまま……詰まらん事考えとらんと、酒でも飲もうや~って。
この時の大伴卿の官界での立ち位置を説明するのは省略しまして……
さて、この時代、既に清酒はあったはずなのですが、筑紫では濁酒が一般的だったのでしょうか?
『坏』という字は『つき』と読みますが、木偏ではなくて土偏です。
これは、いわゆる『かわらけ(土器)』で飲酒するのが一般的だったためです。
今でも木製の物は『杯』、土製の物は『坏』の字を当てて区別をする場合があります。
そして『かわらけ』は野焼きで大量生産品、使い捨てで燈明皿などにも転用されたりもします。
律令期から中近世まで、あちらこちらでこれでもかと言うほど出土しておりまして、現在でも御祭りなどで使う例も見られます。
この画像の『星うさぎ』は葛城市の『梅乃宿酒造』が販売している発泡日本酒です。
本当は『月うさぎ』の方が好きなのですが、ちょうど売っていなかったので……(-_-)
それにしてもTwitterとやらが、滅茶苦茶に調子悪い……画像も上がらないし、画面表示も良く分からないから、当分の間放って置きましょうっと(--〆)