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蘇利古の舞が終わると、六時堂から一舎利と二舎利が御出ましになり、堂と石舞台の間に置かれた高座に着かれます。
そしてそれぞれ、諷誦文(ふじゅもん)と願文を唱え、法華経の読誦に入ります。
石舞台上では、左方舞楽の『承和楽(しょうわらく)』が始まります。
年号がタイトルになっている事から分かるように、これは八世紀末に日本で作られた曲です。
舞の後に最初の行事鐘が打たれ、法要の一区切りとなります。
そして舞台の対岸の御供所から八部衆や童舞の子供たちが出て来て、手渡しで御供物を御堂へと運ぶ『伝供(でんぐ)』が行われます。
再び行事鐘が打たれ、舞台には『菩薩』が登場します。
続いて『獅子』。
菩薩にしても獅子にしても、かつては伎楽的な舞だったと考えられますが、今は内容は不明となっています。
二人の菩薩、二頭の獅子は、大輪小輪(おおわこわ)という舞台を回る所作を繰り返します。
続いて番(つがい)の童舞が行われます。
最初は左方の『伽陵頻(かりょうびん)』、五人の男の子が鳥の羽を背負い、金色の天冠には桜の花をかざし、手にした小さな銅拍子を打ち鳴らして、飛び跳ねるように舞います。
右方の童舞は『胡蝶(こちょう)』、この舞も平安時代に日本で作られました。
四人の男の子が蝶の羽を背負い、銀色の天冠に山吹の花をかざし、手にも山吹の小枝をもって舞います。
この後に三度目の行事鐘が打たれ,四箇法要が始まります。
しつこく続く。
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4月22日、12時半に衆僧や楽人らは本坊を出発し、途中で二手(左方・右方)に分かれて石舞台に向かいます。
錦の天涯を掲げられ、金襴の遠山模様の袈裟をつけている方は一舎利の管長猊下です。
右方(西側)から舞台に向かいます。
二舎利は左方(東側)から入って行きます。
伶人らは左右の楽舎に入り、衆僧らが左右に分かれて石舞台の上や六時堂前に並び、その間を長者らと両舎利は進んで六時堂に入られます。
西側に並んだ『胡蝶』の舞人は四人の男の子で、この身長差が見事です( ̄▽ ̄)
両舎利が入堂されると、舞台上の僧侶らが惣礼伽陀(そうらいかだ・法要の開始を告げる声明)を行い、続いて六時堂に入られます。
『集会乱声(しゅえらんじょう)』が奏せられた後、左右の幕舎より鉾を手にした舞人が登場し、『振鉾(えんぶ)三節』が舞われます。
この舞は舞台を清める儀式を兼ねているので、舞楽の最初に必ず行われます。
雑面(ぞうめん)を付けた諸肩を脱いだ5人の舞人による右方の舞です。
『蘇利古』の舞が始まりますと、六時堂の内では聖徳太子の御影の帳が上げられ、手水を捧げる儀式が行われています。
ここまではまだ、法要の始まり部分です。
法要は夕方まで続きますので、ひとまずはこの辺で。
そういう訳で続くm(_ _)m
狂言師の大蔵彌太郎師の御指導で、春日大社の神職さんや一般の方々が本格的に狂言を演じられます。
上の画像は『以呂波(いろは)』、お祖父さんが孫にイロハを口伝えで教えていて、ちょっとしたハプニングが起きるお話。
主人が太郎冠者に用事を頼むのですが、面倒臭いと思った太郎冠者は足に痺れがあるから無理だと張ったりを言い、最後にはそれがばれてしまうという、お約束的なお話。
太郎冠者も主人も、小学生くらいの子供さんが演じています。
川を渡るに当たって、主人が太郎冠者に負ぶれと命じるのですが、アカギレなので無理と断ります。
すると主人は自分が太郎冠者を負ぶってやると言い出して……(゜_゜>)
こちらは春日大社の神職さんが演じています。
田んぼに渡された鳥避けの鳴り物を鳴子と呼ぶか、遣子と呼ぶかで喧嘩を始めた二人が知人に判定を頼んだ挙句……という内容のお話ですね。
こちらも神職さんたちの熱演です。
何故なのか画像が無いのですが『千鳥』は若い女性が演じていました。
つけの貯まった酒屋から、如何にして酒を無心するか、太郎冠者の奮闘のお話です。
花見に興じる8人の神職さんの見事な共演、皆さん実に芸達者です。
このほかに、プロの狂言師の方の仕舞もありまして、なかなか本格的な舞台でした。
鎮花祭は毎年、4月5日と同じ日に行われます。
来年は日曜日、今年のように天気が良ければ、また見に行きたいものです。
御本殿から見て北北西の方向、若草山の山麓に抜ける道の途中にあって、普段はあまり目立たない御社です。
昔より病気平癒に霊験あらたかとされ、瑞垣の上から突き出たイブキの巨木や、布で拭き清めると子宝に恵まれる石がある事などでも知られています。
御祭神は素戔嗚命、大巳貴命、奇稲田姫命の三柱です。
普段は観光客も通り過ぎてしまう御社ですが、毎年4月5日は『鎮花祭』で多くの人が参拝します。
しかし、この場所で奉納される社伝神楽が、御本殿などとはまた違った雰囲気で、大変人気があるようです。
この内、最初の『神のます』は二人舞、『宮人』と『千歳』は四人舞です。
花の咲く頃には疫神もやって来るといわれ、春の最初に花を鎮める御祭が各地の神社で行われます。
こちらの鎮花祭も正応元(1288)年より行われているそうです。
場所はこのように、『第一次大極殿』の真正面ですが、こちらのメイン遺構は少し時代が下がって奈良時代後半になります。
この後、この巨大な建物は、遷都と共に恭仁宮に移築され、再び都が平城に帰って来た後は、山背国分寺の金堂として喜捨されます。
かつての敷地には、『西宮』と続日本紀に書かれた宮殿が建てられ、称徳女帝の頃には内裏として使われた事が見えています。
更に後の平安遷都後、平城太上天皇が同母弟と大喧嘩の揚句、ここに宮殿を建てて暫らく済んでいた事も有名です。
この図面の赤い線で示された遺構が『西宮』に関するもの、茶色が第一次大極殿に伴うもの、青が平城太上天皇の時代のものです。
そして、中央やや下、黒枠に囲まれた長方形が今回の調査区です。
太目の破線のように、7基2条に並んだ遺構が幢竿の跡だろうと考えられています。
今回の調査では西から5基分が検出されています。
そして右側手前の四角い石が敷かれた南北溝と、その奥で直角に折れ曲がった東西溝や、右上の建物の一角が、平城上皇時代の遺構になります。
上の図面とは、上下関係が逆になっているので、何となく分かりにくいです(-_-;)
この朝庭は大極殿造成に当たって礫交じりの土を敷き詰めて整地し、西宮を造るに当たっても粘土を敷き、更に礫交じりの土で地面を成らしています。
大極殿に伴う移行ならば、下の礫交じり層から掘られている事が、断面で観察できるはずです。
ところで、3×1.5mの楕円形の掘り方が7つ、二列に並んでいるのですが、列の新旧は遺構の切り合い等がないため不明です。
ここにどのような旗が立っていたかというと、引き合いに出されるのがこの図ですね。
文安というから室町時代の中頃、後花園天皇の時でしょうか?
延喜式にもこれらに関する記述があるので、奈良時代には既にこのような旗やモニュメントが立てられたものと考えられます。
今回と同様の遺構は、第二次大極殿院や、長岡宮大極殿院でも見つかっていて、基底の部分だけが現地で再現されています。
藤原宮内でも同じような遺構が見つかっているはずですが、確か、大極殿に伴っていなかったように記憶しています……うろ覚えσ(^◇^;)
これらの旗を1/3のスケールで復元して、大極殿内に展示してありました。
写真を撮ったのですが、逆光やら人垣で、惨敗な写りでした(^_^;)
後ほど、少しはマシなのをUPできたら致しますm(__)m
以前、飛鳥資料館でも展示していたし、今度の東博のキトラ古墳展でも展示するかもしれません。
主軸を東西に向けた、全長は130メートルの前方後円墳で、今までの周辺調査で、古墳時代の前期前半に作られたと考えられています。
この測量図で見ますと、周囲の田んぼや畦の状況から、大きな盾形の周濠を持つのではないかとも推測されていますが、決定的な事は今のところ分かりません。
現在では二つの古墳の間に県道が通っていて、その事前の調査を10年ほど前に行っています。
その時にノムギ古墳の周濠は確認されているのですが、ヒエ塚古墳の方は分からなかったようです。
今回の調査では、後円部のややくびれ部よりの辺りに南北の調査区を設ける事ができ、周濠の規模や範囲の確認を行いました。
この写真の奥の丘が古墳の後円部で、調査区の南端から北を見ています。
落ち込みの深さは20cm程度しかなく、外側には後世に削られたらしい平坦部が見られます。
平坦部が外堤の名残と見ると、奥の浅い落ち込みが周濠の可能性が出てきます。
平坦部の外側には14、5mの谷状の落ち込み(二枚目の写真を参照)が見られ、これを外側の周濠と見る事も出来ますが、前期古墳では二重の周濠を持つ例はありません。
現代の配管を通すために撹乱を受けていますが、横長の基底石の上に人頭大の葺石が並んで残っています。
その手前の石の無い部分が基壇状の遺構で、その外側に周濠の残りらしき浅い溝が見られます。
このように調査範囲が極めて狭いために、遺構からははっきりした事が言えません。
溝から出土した土器は古墳前期から後期までと幅があり、あまり残りの良い物も見られません。
更には埴輪片が全く見られないので、墳丘テラス部などには埴輪がなかった可能性があります。
前期古墳では、墳頂部にだけ並べられる事もあるので、全くなかったとも言えないようです。
こうして見ても、墳丘全体が傾斜地にあるように見えるのですが、前期古墳で後円部が高いので、そのように見えるだけでしょうか?
もしも傾斜地に墳丘があるとしたら、水を湛えるような盾形の周濠よりも、狭い空堀のような周濠の可能性もありそうな気がします。
いずれにしても今のところは調査範囲が狭いため、決定的な事は分からないのが現状です。
高松塚古墳の墳丘全体に映像を写そうという試みは、2月22、23日と3月1、2日の四日間行われます。
そのような訳で早速に初日に行って来ました。
17:30から21:00という予定ですが、ここ最近の日没は17時45分くらいですから、暗くなるのは18時過ぎです。
墳丘の南側にこのような映像の映る台が置かれていて“インタラクティブ体験”が行われています。
この丸い画面を真上から見た墳丘として、現れている光やラインが実際の墳丘に投影されます。
子供達が操作している銀色の円盤が、画像に現れている地球や金星や星屑のコントローラーだそうですが、実際に動かしてみてもイマイチ連動の法則性が分かりませんn(ー_ー?)ン?
18時過ぎになって暗くなり始めますと、ようやく墳丘への投影が始まりました。
『よみがえる四神』の映像は約5分、その後に『インタラクティブ映像』が10分というインターバルで、繰り返しプロジェクションマッピングが行われます。
これは墳丘の北側の玄武の画像、石室が開いて壁画が現れるという演出です。
四神ですから、東では青龍、南では朱雀、西では白虎が現れます。
続いてチョッとリアルな朱雀が石室から飛び立つのですが、この映像は四方とも同じみたいです。
実際に見ていると迫力があって、チョッと奇妙な音楽もマッチしていると思えるのですが、写真や動画を撮ってみると、全然綺麗に映ってくれません・゚・(ノД`;)・゚・
レンズがもっと明るければ、綺麗に写るのでしょうけれど(゜_゜)
この日の晩は天気が良く、かなり冷え込みました。
会場では日替わりで『四神鍋』の販売が行われていて、初日は青龍です。
グリーンの揚げ餃子が入っていますがアッサリ系の味付け、暖かくて生き返りました(^_^)v
こちらは歴史公園館から古墳公園に向かう途中の地下道に、蛍光塗料で描かれていた絵です。
ブラックライトで下から照らすと、このように浮かび上がる訳です。
他には、公園館の前に草月流による四神のオブジェが、飾られライトアップされていました。
高松塚古墳公園の周辺には若干の駐車場もありますが、満車の場合は石舞台公園駐車場に止めて無料シャトルバスで行く事も出来るそうです。
近鉄の飛鳥駅から歩いて7分程度ですから、場合によってはこちらの方が便利かもしれません。
ご興味のある方はぜひお出掛けをm(__)m
そのような訳で早速に初日に行って来ました。
墳丘の南側にこのような映像の映る台が置かれていて“インタラクティブ体験”が行われています。
この丸い画面を真上から見た墳丘として、現れている光やラインが実際の墳丘に投影されます。
子供達が操作している銀色の円盤が、画像に現れている地球や金星や星屑のコントローラーだそうですが、実際に動かしてみてもイマイチ連動の法則性が分かりませんn(ー_ー?)ン?
『よみがえる四神』の映像は約5分、その後に『インタラクティブ映像』が10分というインターバルで、繰り返しプロジェクションマッピングが行われます。
これは墳丘の北側の玄武の画像、石室が開いて壁画が現れるという演出です。
四神ですから、東では青龍、南では朱雀、西では白虎が現れます。
実際に見ていると迫力があって、チョッと奇妙な音楽もマッチしていると思えるのですが、写真や動画を撮ってみると、全然綺麗に映ってくれません・゚・(ノД`;)・゚・
レンズがもっと明るければ、綺麗に写るのでしょうけれど(゜_゜)
会場では日替わりで『四神鍋』の販売が行われていて、初日は青龍です。
グリーンの揚げ餃子が入っていますがアッサリ系の味付け、暖かくて生き返りました(^_^)v
ブラックライトで下から照らすと、このように浮かび上がる訳です。
他には、公園館の前に草月流による四神のオブジェが、飾られライトアップされていました。
高松塚古墳公園の周辺には若干の駐車場もありますが、満車の場合は石舞台公園駐車場に止めて無料シャトルバスで行く事も出来るそうです。
近鉄の飛鳥駅から歩いて7分程度ですから、場合によってはこちらの方が便利かもしれません。
ご興味のある方はぜひお出掛けをm(__)m
修理のメインは屋根を綺麗にする事で、多くの建物は檜皮で葺かれています。
現在は内侍殿(ないしでん)の屋根の檜皮を葺き替えています。
この内侍殿は、御本殿の修理に際して神様に御移り願う建物として、『移殿(うつしどの)』とも呼ばれています。
回廊内の大杉に向かって左後方に建っていますが、今は覆い屋の内で見る事は出来ません。
この時には既に屋根の西側は葺き終わったので、一般の人たちにも見てもらえる状況となっていました。
ちなみに、私が参加したのは11日です。
このように神職さんもヘルメットをかぶって、屋根の間近まで案内してくれました。
梁や垂木には既に朱色が塗りなおされ、軒下から見える室内には、神様の座も用意されています。
檜皮の屋根というのは、最も贅沢な拭き方なのだそうです。
檜の樹皮をこのように何枚も重ねて、竹の釘で留めて行くのですから、膨大な量の皮が必要となります。
油分が多いので水に強く、軽いのが最大の利点だそうですが、有機物だけに3~40年程度しかもたないので、そのつど葺き替えが必要となります。
このような訳で、春日大社では参拝される方に、寄付金という形で檜皮一束の御奉納をお願いしています。
私も思い出した時にしておりますが、そのつどオリジナルのクリアファイルをいただけます。
また4月か5月にデザインが変わるそうなので、その頃にまた奉納させて頂こうと思っております。
南北に長めの独立した丘陵の上に造られています。
馬見丘陵の一角なので古墳の多い地域と思いきや、周囲は既に住宅地と化しています。
一番高いところにある前方後円墳の存在は以前から分かっていたのですが、3年前に画文帯神獣鏡が出土した3号墳と、重なるように造られた4号墳が見つかり、今回調査した2号墳の存在も分かって、全部で7つの古墳がある事が分かりました。
この画像では少し分かりにくいですが、背面カットによって掘り込まれた周濠が、かなり良く残っています。
出土した須恵器などから、7世紀中頃に造られたと考えられます。
丘陵の南端に南向きに開口した横穴式石室ですが、鎌倉時代くらいまでは石室に自由に出入りできたようで、石室内から出て来た遺物は元の位置を留めておらず、後から混入した物も多いようです。
これは奥壁側から入り口の方を見ています。
手前の大きな石は天井石の一つと考えられます。
左右にわずかな石材が残っていますが、かなり破壊されているのが分かります。
玄室が長さ4m、幅1.9m、羨道は5mを測ります。
羨道部ではその下から、割られた須恵器の甕や高杯が多数出土しています。
白いブロック(凝灰岩片)の入った土が、甕の破片の上に乗っているのが分かるでしょうか。
これら須恵器は、遺体埋葬の前の儀礼に使われて壊された物だと思われます。
上が南側で、トレンチの端が墳丘の端になります。
ところで、石室に使用されている石材ですが、画像では色が飛んでしまってはっきりしませんが、赤茶色に白い筋の入る輝石安山岩という石だそうで、殆ど加工していないようです。
この石は4kmほど離れた王寺町の明神山で取れるのですが、古墳の石材としては硬すぎるので、まず使われません。
ちなみに隣の広陵町にある牧野古墳(ばくやこふん)は、花崗岩で石室が造られていますが、これが普通です。
2号墳の物と思われる遺物には、大刀、刀子(とうす)、琥珀製の棗球(なつめだま)、木棺に使われたらしき鉄釘、土師器、須恵器などがあります。
平瓦も十数点見つかっているのですが、使用法は不明だそうです。
文献資料などによれば、このあたりには皇室の所領があったようです。
石室の規模から見ても、かなりの地位の人が埋葬されたと考えてもおかしくありません。
発掘担当者も、被葬者が皇族である可能性を示唆しておられましたが、このあたりの事は割愛させて頂きますm(__)m