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そのような訳で、結構、大勢の人達が見学に来ておられました。
まずは調査概要や経緯、遺跡の性格や歴史、実際に見つかった遺構などの説明は室内で行われました。
ここは修学旅行生などにお坊さんが講話をする場所です。
実は東側僧房の大房という建物が建っていた事が調査で判明していて、その場所に復元したのがこの建物です。
北から南を見る方向で写しているので、左側が東になります。
画像ほぼ中央にある寄せ棟の建物が食堂(じきどう)で、その前(北側)にある長細い十字の建物が、今回の調査対象となった『十字廊』です。
『薬師寺縁起』には『食殿(じきでん)』という名称で見え、食堂に付随する建物だったと推測できます。
このジオラマ、説明会で頂いた資料に載っていた伽藍配置図と一部違う部分がありますが、位置関係は大体このようなものです。
長年、境内として使われていたり、田畑も広がっていたりで、基壇はほぼ削平され、礎石も当然ながら運び出されています。
それでも礎石の据え付け位置ごとに壷地業(つぼじぎょう)を行っているので、その痕跡を見れば柱の位置は分かります。
そして基壇化粧の羽目石の列と、雨落ち溝の石敷きが所々に見つかっているので、基壇の規模をたどる事もできます。
現在判明している規模は、東西廊が44.4m(11間)×8.1m(1間)、南北廊が8.1m(1間)×21m(4~5間)以上というところです。
『壷地業』と書いたプレートの置かれた浅い穴が、礎石を置いて柱を立てていた位置です。
その奥に『羽目石』の列が東西に五つ分、南北に一つ、ちょうど直角に組み合わされて据えられています。
ここの基壇外装は地覆石(じふくいし)を置かず、溝を掘って羽目石を埋めて立てる方式をとっています。
伽藍の回廊でも、このような方法を用いているそうです。
ちなみにこれらの羽目石、本来はもっと高さが有ったようで、後世の開墾や整地でここまで削られてしまっているようです。
瓦は創建期の物から近現代までと幅があり、土器も奈良時代から中世までの物が多いようです。
こちらは須恵器の円面硯で、見えているのは台の部分ですが、装飾的にあけられた孔の周囲にヘラ書きで雲のようなラインをあしらったモダンな意匠を見せているのが、極めて珍しいそうです。
時代的には奈良時代の後半か平安時代の初期くらいでしょうか。
東西廊の南側などは、江戸時代以降の溝が雨落ち溝の位置を踏襲するように走っています。
新しいところでは、現代の送電線や排水の土管などでも破壊されているようです。
このような状況でも、かなりの成果が上がっている事で、薬師寺という古代の国家寺院の偉大さ(?)に何とも敬服を致します。
それよりも何よりも、融けきれない大雪を押しても現地説明会を開いていただいた事に感謝いたしますm(__)m
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JRまほろば線の巻向駅のすぐ西側の地区では、昨年までの調査で、中軸線をそろえる建物が三棟並んでいるのが確認されています。
今回の調査では、線路を挟んで東側、36、5m離れた地点で四棟目の建物跡が見つかった事が主な成果でしょうか。
上の画像に見える白い柱群も同じ時代の建物になると考えられますが、微妙に方向が合っていません。
二棟の建物以外にも、二条の東西溝、一条の南北溝、東西と南北の柱列が一条ずつ検出されています。
これらはいずれも、ほぼ正方位に乗っているので、二棟の建物よりも新しいと思われます。
中軸線を合わせる建物群は、以前の調査で3世紀中頃から後半と考えられているので、今回出た建物よりも溝の方が新しい事は推測できます。
正方位に乗る遺構としては、以前の調査でも柱列や溝が幾つか見つかっているので、この地区では5世紀くらいまで人が住んで、何らかの営みを続けていたようです。
ここからは、このような弥生後期(庄内期)の土器が出土しています。
遺構は川が埋没した後の層から切っていますので、この時代よりは新しいという事になります。
調査はこの先も続き、遺物の検討も殆ど済んでいないので、いずれは更なる発見があるのではと期待しております。
大阪には中之島公会堂や綿業会館など、京都にも同志社大学や旧京都府庁のような有名な近代建築がありますが、奈良も実はかなり負けておりません。
昭和9年に建てられました。
明治維新以降、お雇い外国人のジョサイア・コンドルなどの建築家が、日本人の弟子を育てて、洋風や和洋折衷の建物を数々建築しています。
ところで日本の大工さんという方々には、大変器用で有能な方が多いのだそうです。
例えば、大工だった吉村松太郎は、見よう見まねで近代建築の生駒宝山寺の獅子閣を造ったとの事。
こういう土台の元に、コンドルの弟子として育った人も多いとか。
奈良国立博物館を設計した片山東熊や、東京駅の設計を手がけた辰野金吾などがその代表です。
明治から大正に活躍した辰野金吾博士が手がけた建築は、大和高田市にもありました。
高田市民なら大抵知っているのが、現在の近鉄大和高田駅の正面のオークタウンや背後のマンション群の前身です。
ここにはかつて、大日本紡績の高田工場がありました。
赤レンガの外壁や高い煙突を持つ重厚な工場群ですが、残念ながら今では全く面影も残っていません。
さて、大和高田市にも、あまり知られていないながらも、幾つか評価に値すべき建物があります。
旧産業銀行高田支店(その後、南都銀行・現在は森川商店)、旧吉野銀行高田支店(現モリモト電気)などが代表でしょうか。
特筆すべき建物で、設計者が武田五一と岩崎平太郎という、昭和5年に完成した個人所有のお屋敷もあります。
しかし、あまり公にはしたくないという持ち主の意向だそうで、現在は公開はされていません。
武田五一は関西建築界の父といわれた人で、京都府立図書館や京都市役所などを始として、大阪市営地下鉄の心斎橋駅など、御堂筋線の諸駅の設計でも有名です。
現在、NHKの朝の連ドラに出て来ている建築家の先生は、この方がモデルだそうですが、別に大声でいつも怒るような事はなかったそうです。
一方、岩崎平太郎は役人出身の建築家だそうで、奈良県内に多くの建物を残しています。
大和高田市のモリモト電気は、この方の設計です。
橿原市の畝傍高校の校舎や、奈良市の旧南都銀行手貝支店(現在は観光案内所)もそうです。
これら以外にも登録文化財として認定されている建物は多数あります。
ところが登録文化財となりますと、持ち主や非営利団体などが申請して認可されれば登録されます。
大多数が個人の持ち物で、補助金も殆ど出ないので、所有者が代替わりなどで取り壊すと決めてしまえば、禁止する手立てもないという事で、最近でも幾つかの建築物が既に無くなってしまっているそうです。
これらの建物を保存したり活用したりするには、もっと市民に存在を知ってもらう必要があります。
壊して立て直すのも、一時的な地元活性には繋がるでしょうが、ある物を活用するのも、これからの時代に必要な事なのでしょう。
上代、中世ほどに古くなくても、近現代の魅力的な文化財はかなり身近にある、この事をもっとアピールして行きたいものです。
毎年、2月の第一日曜日に行われますので、今年は2日でした。
早朝は雨でしたが午前中にも早い内にあがり、昼前からは日が差して来て、御祭の時間にはすっかり晴れて暑いくらいの気候です。
境内は案外狭いので、この時間では勿論入れません。
13時50分に祭の行列が控え所から出て来るという事で、その付近で見させて頂く事と致しました。
この通りも結構狭いので、行列も見学者も少々入り乱れて神社へと向かいます。
それ以上に人の多さで、登るのも至難という感じですねσ(^◇^;)
境内は既にギッシリと人で埋め尽くされているはずですから、諸役の入場もそれなりに大変です(^_^;)
ここから約一時間、境内での神事、そしてかの有名な芸能(?)が行われます。
この模様は三年前の記事を参考にm(__)m
この杖で見学者を容赦なく引っ叩くのもこの御祭の特徴で、大声を上げて追いかけられている子供達を眺めて笑っていると、別の方向から叩かれるなどという事もあったりします。
そして、サービス新旺盛な翁も登場。
ちなみに申し上げますと、お多福さん以下全員、若い男性が演じています。
じゃなけりゃ、あの有名な奇祭に笑ってはいられませんからねσ(^◇^;)
本当にこのブログに上がっている画像は、着物を着た人か作業服姿が多いですが、本日も直垂や水干だらけですσ(^◇^;)
儀式中も薄曇程度で風もなく、いつになく暖かかったのでトラブルは無いかなと思いきや……スピーカーの状態が良くないようで、解説の声があまり聞き取れません(゜-゜)
ともあれ、蟇目の儀です。
一瞬、同じ画像かと我ながら思ってしまいましたが、射手の人達が変わっています。
昨年までは七人くらいで三つのグループに分かれていましたが、今年は二グループ十人が見事に並びました。
やはり、これだけの人数が並んで射ると、とても爽快な眺めです。
それにしても、今年は随分と急ぎ気味に次第が進んだような?n(ー_ー?)ン?
何でも、この後に結婚式が控えているとかで、時間が少々押しているとか(^_^;)
今年もようやくブログの更新をしたと思ったら、しつこく舞楽です……まぁ、あまり見てくれる方もおられないと思いますが。
とにかくこの三連休が絶不調、こちらも出かけようか否かと迷っていたところです。
いつもの年ならば、かなり余裕を持って出かけるので、カブリツキも良いところで見ている事が多いのですが、今年は直会殿(なおらいでん)の後の方で大人しくしておりました。
周囲は韓国から来ている若い人たちで、実のところ、最初の神事や管絃の演奏は馴染みがなさ過ぎて退屈そうで、チョッと可哀想にも見えました。
何よりも正座の習慣がないので、座っているのも大変そうσ(^◇^;)
私は小一時間くらいなら、今も平気ですけどね。

それはともかく、本日の演目は管絃が『太食調音取(たいしきちょうのねとり)』と『合歓塩(がっかえん)』
この曲、舞楽になると『太平楽』の急として使われるのだそうですが、私は耳が良くないのか、どうも曲だけ聴いても何なのかおぼえられない(~_~;)


舞楽はいつものように『振鉾三節(えんぶさんせつ)』
左右の舞人が舞台を清めるために鉾を振るいます。
そして右方舞の『長保楽(ちょうぼらく)』
おん祭では、この舞と『地久(ちきゅう)』を一年交替で行いますが、昨年はこちらの舞でした。
舞人も同じなのかな?
一臈と二臈は同じ方ですが、四臈は違うみたい、三臈が分からないですね。
二枚目の画像の若い方が三・四臈なのですが。
しかし、蛮絵装束は良いですね~(^。^)
殊に右方のこの青い色が好きです。
走り舞は左方の『胡飲酒(こんじゅ)』
南都楽所では久々に見たような気がします。
文字通り、胡人の王様か将軍が酔って良い気分で舞っている様を表すそうですが、繰り返される上を仰ぐ動作を見ていると、どうも酔っ払いとはかけ離れているような。
今日の奈良市内は気温も低く、天気も優れず、午前中には雪が舞うくらいでした。
直会殿の内にも大きなストーブがつけられ、私はこの近くで立って見ておりましたので、チョッと暑いくらいでした。
ともあれこうして舞楽始式も終わり、今年も南都楽所の演奏と舞を堪能できる事を期待しておりますm(__)m
とにかくこの三連休が絶不調、こちらも出かけようか否かと迷っていたところです。
いつもの年ならば、かなり余裕を持って出かけるので、カブリツキも良いところで見ている事が多いのですが、今年は直会殿(なおらいでん)の後の方で大人しくしておりました。
周囲は韓国から来ている若い人たちで、実のところ、最初の神事や管絃の演奏は馴染みがなさ過ぎて退屈そうで、チョッと可哀想にも見えました。
何よりも正座の習慣がないので、座っているのも大変そうσ(^◇^;)
私は小一時間くらいなら、今も平気ですけどね。
それはともかく、本日の演目は管絃が『太食調音取(たいしきちょうのねとり)』と『合歓塩(がっかえん)』
この曲、舞楽になると『太平楽』の急として使われるのだそうですが、私は耳が良くないのか、どうも曲だけ聴いても何なのかおぼえられない(~_~;)
舞楽はいつものように『振鉾三節(えんぶさんせつ)』
左右の舞人が舞台を清めるために鉾を振るいます。
そして右方舞の『長保楽(ちょうぼらく)』
おん祭では、この舞と『地久(ちきゅう)』を一年交替で行いますが、昨年はこちらの舞でした。
舞人も同じなのかな?
一臈と二臈は同じ方ですが、四臈は違うみたい、三臈が分からないですね。
二枚目の画像の若い方が三・四臈なのですが。
しかし、蛮絵装束は良いですね~(^。^)
殊に右方のこの青い色が好きです。
走り舞は左方の『胡飲酒(こんじゅ)』
南都楽所では久々に見たような気がします。
文字通り、胡人の王様か将軍が酔って良い気分で舞っている様を表すそうですが、繰り返される上を仰ぐ動作を見ていると、どうも酔っ払いとはかけ離れているような。
今日の奈良市内は気温も低く、天気も優れず、午前中には雪が舞うくらいでした。
直会殿の内にも大きなストーブがつけられ、私はこの近くで立って見ておりましたので、チョッと暑いくらいでした。
ともあれこうして舞楽始式も終わり、今年も南都楽所の演奏と舞を堪能できる事を期待しておりますm(__)m
昨日に続いてUpしそこねた画像を記事と共に。
本日は、毎年十月二十二日に四天王寺で行われている『経供養』です。
場所は聖霊院です。
かつては非公開だったので『椽(えん)の下の舞楽』という別名で呼ばれる舞楽法要です。
本坊を出た色衆や楽人は、13時過ぎに入道場します。
伽陀(かだ)、集会乱声(しゅえらんじょう)に続く、鳳輦出御(ほうれんしゅつぎょ)で奥殿の御扉が開けられます。
奥殿は画像の右側にある八角堂で、その中に鳳輦が納められているようですが、一般参列者の席からは角度的に見えません。
そして最初の舞楽の『振鉾』です。
この後、一舎利と二舎利が高座に登られ、諷誦文(ふじゅもん)と願文をそれぞれ読まれます。
この間に舞台上では、次の舞楽が行われます。
今年は『打毬楽(たぎゅうらく)』です。
打毬はホッケーのような競技で、奈良時代にはかなり流行って禁止令まで出たと記録に残っています。
四人の舞人は、中央に置かれた玉を打つ仕草を繰り返して舞います。
その後、舞台上では衆僧によって『唄(ばい)・散華』が行われ、楽人が幕舎より出て舞台の周りを巡る『大行道』を行います。
次の舞楽は『狛鉾(こまほこ)』
渤海から伝わった右方の平舞で、船の櫂を操る様を現しています。
この後は『梵音・錫杖』、そして両舎利が高座を降りられ、最後の入調(にゅうじょう)の舞楽となります。
『蘭陵王』
最後に奥殿の御扉を閉めて法要の終了となります。
そして入場と同じように、楽人を先頭に帰って行かれました。
入退場に使う門は『猫の門』と呼ばれ、破風の下に猫の彫刻が置かれています。
今の門は太平洋戦争の空襲の後に再建されたものですが、それ以前の江戸時代の門の彫刻は、かの左甚五郎が担当したと言われ、日光東照宮と並ぶ『眠り猫』の彫り物だったそうで、夜になると遊びに出かけたという伝承まで残っているとか。
本日は、毎年十月二十二日に四天王寺で行われている『経供養』です。
かつては非公開だったので『椽(えん)の下の舞楽』という別名で呼ばれる舞楽法要です。
本坊を出た色衆や楽人は、13時過ぎに入道場します。
伽陀(かだ)、集会乱声(しゅえらんじょう)に続く、鳳輦出御(ほうれんしゅつぎょ)で奥殿の御扉が開けられます。
奥殿は画像の右側にある八角堂で、その中に鳳輦が納められているようですが、一般参列者の席からは角度的に見えません。
この後、一舎利と二舎利が高座に登られ、諷誦文(ふじゅもん)と願文をそれぞれ読まれます。
この間に舞台上では、次の舞楽が行われます。
四人の舞人は、中央に置かれた玉を打つ仕草を繰り返して舞います。
渤海から伝わった右方の平舞で、船の櫂を操る様を現しています。
入退場に使う門は『猫の門』と呼ばれ、破風の下に猫の彫刻が置かれています。
今の門は太平洋戦争の空襲の後に再建されたものですが、それ以前の江戸時代の門の彫刻は、かの左甚五郎が担当したと言われ、日光東照宮と並ぶ『眠り猫』の彫り物だったそうで、夜になると遊びに出かけたという伝承まで残っているとか。
画像フォルダを整理していますと、シコタマ写して来たのに、どこにも上げていない画像があふれています。
そういう訳で、普段から更新をサボっていたためにUPし損ねた画像を、今更ながらに掲載してみます。
まずは四天王寺の『篝の舞楽』
何時行われたのかと申しますと、毎年のように八月四日です。
この行事は盂蘭盆会に先だつものとして、法要とは関係なく、舞楽の演奏会の趣旨で行われます。
そのような訳で主催も四天王寺ではなく、天王寺楽所の雅亮会になります。
『振鉾 第一節』
あまりに以前の事で、細かい内容を忘れましたので、主に画像を上げる趣旨と致します。
『振鉾(えんぶ)第三節』
『桃李花(とうりか)』
『林歌(りんが)』
出番を待つ舞人たち
『甘州(かんしゅう)』
例年ですと、最後に走舞が一曲あるのですが、今年は平舞だけでした。
どうやら今年は風も弱かったので、篝の火の粉にさいなまれる事もなく見ておりました。
それにしても、相変わらず伶人が多くて、演奏には迫力がありすぎます。
最初の舞は、日中に行われた競馬の勝敗によって決まります。
今年は右方が勝ったそうで、『納曽利(なそり)』が先に奉納されました。
現在では勝負舞は、競馬による『蘭陵王(らんりょうおう)』と『納曽利』だけですが、かつては流鏑馬の勝敗で『散手(さんじゅ)』と『貴徳(きとく)』、相撲の勝敗で『抜頭(ばとう)』と『落蹲(らくそん)』の順番が決まったそうです。
今年は舞楽の舞人がかなり入れ替わっていると聞きましたが、この二曲もそうなのだと思います。
『納曽利』は昨年までのベテランの方に比べ、まだ慣れておられないという感じでしたが、これから大いに期待したいです。
『蘭陵王』の舞人は、よく平舞で一臈を務めている方だと思いますが、やはり御見事(^_^)v
左方舞らしく切れが良いです。
この長く重く難しい舞を務めているのは、ここ最近は春日大社の藤岡禰宜です。
大柄な方なので、実に迫力があります。
今年の舞人は、やはり春日大社の千鳥権禰宜。
『延喜楽』も『長保楽』も舞われておられましたので大活躍ですね(^。^)
どちらの舞も若い方々が勤めておられるそうですが、舞台の雰囲気に負けずに舞っておられたと思います。
それにしても、いずれの画像も見るも無残ですみません……もう少し良いカメラで写せば画像だけはクリアになると思うのですが、腕はまぁ、如何し難いかなσ(^◇^;)
そして『落蹲』が終わるや否や、芝生席からは退去を願いますという事になり、『還幸の儀』の準備に入ります。
学生の頃には泊りがけで来ていたので、何度か若宮社までお供をさせて頂いたのですが、今では終電との争い?のため、若宮様よろしく17日中に家に戻っております。
それにしても今年も寒かったですが、雨にも風にもたたられず幸いでした。
変わって翌日は雨天、子供達の奉納相撲は中止で、『後宴能』は室内で行われたそうです。
三節目なので左右の舞人がいるのですが、陣取っていた所があまりに舞台の真横だったので、右方の方しか写っていない状態ですね(・.・;)
この後、『萬歳楽(まんざいらく)』、『延喜楽(えんぎらく)』と続くのですが、画像はシッチャカメッチャかのブレまくりなので省略……(・_・)
いずれも頻繁に行われる舞なので、このブログのどこかに画像はあります……オ(--〆)イ(ーー;)ッ
優雅な印象の平舞の内でも、曲も舞いもテンポ良く変化も大きい、なかなかに男性的な舞だと私は思っております。
ところで奇妙な事に、出手(ずリて)もなしにワラワラと舞人四人が続けざまに登場してポジションに着き、いきなり破の舞が始まりました。
こういう省略の仕方は以前にも見た事があるのですが、時間短縮のために行われるのでしょうか。
そして退出時も、ソサクサと去って行きました……(^_^;)入手、あった?
ちなみに昨年は『地久(ちきゅう)』が奉納されまして、この二つの舞は隔年で行われる事になっているそうです。
今までに何度かほざいておりますが、南都楽所の蛮絵装束は左右とも綺麗です。
左方はややくすみ気味の金茶色、右方は深めの縹色(はなだいろ)の生地に、刺繍で対の獅子が刺繍されています。
舞人のメンバーを拝するに、身長や体形、風貌(?)なども写り良く揃っているように拝察致します。
さすがはおん祭です、などと、周囲の方々と駄弁っておりました。
このように平舞はベテランや中堅の人達が御奉仕されているのですが、後半の走舞のメンバーがかなり交替しているという事でした。
『神主舞』(二人舞)が一曲と、『諸司舞』(四人舞)が二曲奉納されます。
これは諸司舞ですね。
前に下がるものを払うような、この所作、今までも何度も見ているはずなのですが、これが何段かと問われると、さて……四段以降です、片袖脱いでますからσ(^◇^;)
相変わらずいい加減なまま続く……(^_^)/~