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今年の12月17日は一日中曇りだったので、急に日が翳ったという印象もなかったですが、篝に火が入ると暗さを少しばかり実感します。
保存会の会員になっていますと、ここから芝舞台の横のエリアに陣取って見る事が出来ます。
再三申しますが、春日大社での『東遊』は男の子達によって舞われます。
「や 宇渡浜に 駿河なる宇渡浜に 打ち寄する波は 七種の妹 言こそ佳し」
この駿河歌一段の最後の部分で四人の舞人が登場し、舞は二段より始まります。
「言こそ佳し 七種の妹は 言こそ佳し 逢える時 いささは寝なんや 七種の妹 言こそ佳し」
「千早振る 春日の山のみかさ松 あはれれん れれんやれれんや れれんやれん あはれのみかさ松」
求子歌の最初の「春日の山のみかさ松」という部分は所により歌詞が変わるようです。
葵祭の時には「鴨の社の姫小松」でしたか、下鴨神社に歌碑か何かがあったような( ̄∇ ̄;)
翁役が、今年から若い方に変わっています。
この時間になると、完全に日が暮れています。
これらの説明は一昨年の記事とダブるので、興味のある方はそちらを参照にして下さい(--〆)おいっ
このように横着をして続く……m(__)m
それでも奈良文化財研究所の都城発掘調査部では、飛鳥藤原第179次調査の現地説明会を行ってくれました。
調査区の場所は、東第一殿の西側、藤原宮が機能していた時代には、セレモニーの場所として建物などは無い領域です。
そのような訳で、藤原宮時代の遺構を確かめた後は、一部を更に掘り下げて遺構確認をしています。
この周辺は今までも調査を行っているので、大まかな状況は予測できます。
宮の時代には礫を敷いた広場として存続され、その下層では造営の時の遺構が幾つか見つかっているので、今回もその続きが出るはずと、調査が行われました。
青いテープが並行して走っているのは、東西方向に検出された溝の輪郭を示しています。
この溝は礫で埋められ、朝庭の排水のための暗渠として機能していたようです。
調査員が指し示しているラインは、昨年の調査でも見つかった沼状遺構の岸です。
この遺構には多量の木片が埋められており、宮の造営時に製材した柱などの削りクズを捨てたのだろうと考えられています。
今回は、瓦溜りもこの遺構内で検出されました。
調査区全体では、少なくとも四つの大小の沼状遺構が見つかっていますが、部分的なトレンチ調査をした程度なので全貌は不明です。
それでも長年の間に、他の部分よりも地面が沈み気味になっているので、大まかなラインを推定する事が出来ます。
この溝はかなりの深さがあって、物資の運搬に使われたと考えられ、以前の調査で南西方向から延長部分が見つかっています。
本来は南北方向の溝だったのですが、延長部北側に大極殿院南門が造られる事になったので、東に外して掘り直をされた事も分かっています。
藤原宮の土地は、東から西、南から北へゆるく傾斜をしています。
かつては湿地だった場所も有るようで、宮の廃絶後に耕作地として利用されていた時期の野井戸が、あちらこちらで見つかります。
そのために排水にはかなり気を使ったものと思われます。
この画像の中央部を斜めに走っているピンクのテープがそのラインですが、畦の向こう側という事もあって、かなり見難くてすみません。
柱穴の間隔は約3メートルで、今回は18間54メートルを検出し、更に東に伸びるものと予想されています。
柱穴の径は約30センチで、深さは35センチくらいなので、柱は太いものでもなく、列の部分が周囲の礫敷きよりも若干高くなっているので、塀のような施設にでもなるかと思われますが、まだ結論は出していないそうです。
まあ、場所が場所だけに、遺構はかなり地味です。
天気も悪く、午後からはかなり寒くなって来たのに、現地説明会への人出はそこそこありました。
講座は事前にレクチャーで詳しい解説がありまして、実際に現地で本物を見て頂きましょうという流れです。
本来ならば祭が終わり次第、解体が始まるのですが、今回は講座の為に特別に解体を延長したという事です。
形は御本殿と同じ春日造りですが、比べてみると、かなり特異な建築物だという事が分かるそうです。
この画像で見ますと、階段や高欄が全て菰で覆われていますが、これのはっきりとした意味は分からないという事でした。
お旅所での祭事は夜間に行われるため、安全のため、クッションの役目を果たしているのかもしれないと神職さんがおっしゃっていました。
それぞれの柱や梁は臍(ほぞ)で組んで行きますが、屋根の垂木の先端は、藁縄で梁や桁に結び付けられています。
かつてはこれらの部材を毎年新調していたのですが、今は何年か使いまわしていて、現在の物は平成15年から使用しているそうです。
松は神聖な木として認識されているうえに、成長も早く群生し、割合に入手しやすいようで、毎年、大和国内の社領より、当番を決めて献上されていたようです。
また、建物周囲の生垣には、ナギの枝葉が使用されています。
春日山にはナギの群生があって、こちらでは神様の木として、榊以上に使用される例が見受けられます。
杉の板で下葺きをした上から、横に渡した割り竹の間に松の葉を挟んで葺いています。
御仮殿を離れて見た時、とにかく目立つのが、このボサボサとした緑色の屋根です。
松葉で見えませんが、屋根の上には勝男木が渡され、黒木の千木を釘で固定しています。
懸魚(けぎょ)は彫刻されていない六家系の板を、二本の木で押さえているという、極めてシンプルな作りですが、春日造りの様式はしっかり押さえています。
竹を組んだ上から、外側だけ土を塗った荒壁に、漆喰で三角形を並べています。
龍神や蛇神を示す鱗紋かとも思われますが、江戸時代の絵図を見ると、このようなはっきりとした三角形が現されているものはなく、近年に始められた装飾のようです。
ちなみに内部には土は塗られず、麻布を下げて、床には菰を敷いてあるという事。
仮の建物なので、前面には扉がありません。
お祭の時には御簾を下げ、鏡を三面掲げて、軒には樅の枝を掲げます。
樅の枝はこの時も掲げたままになっていました(二枚目の画像で分かりますか?)
春日大社の講座、今年は大晦日の大祓に関してが最後です。
新年も21日の旬祭講話から始まるそうで、来年も色々お世話になる事かと期待している次第です。
そういう訳で写真はかなり滅茶苦茶ですが、最初に奉納される御巫(みかんこ)さんの社伝神楽の時には充分な明るさがあります。
しかし、保存会の会員になっていても、この段階では芝生席に入れてもらえず、人垣の頭上にカメラを突き出して写真を撮っておりました。
二人舞の装束は、千早(というのかな、舞装束は)にオレンジ色の丸紋が散らされていて、なかなか素敵です。
この画像は一人舞の『松のいはひ』
金糸の刺繍を施した衣に、裾を引きずるほど長い緋袴、杉浦御巫長さんが務めておられます。
最初は徒手、次に檜扇を広げ、更にはこのように鈴を掲げて舞っていました。
私が神楽の類をまともに見るのは、おん祭と神楽始式の時くらいで、かなりの不勉強です。
考えてみれば、春日大社で御巫さんが社伝神楽を奉納する機会は、舞楽などよりもずっと多いのだと思います。
毎月、1日、11日、21日の旬祭では必ず行いますし、御田植祭や鎮花祭などのお祭でも、ご祈祷を頼んだ時にも然り。
これからは、もう少し機会を捉えて勉強しなければσ(^◇^;)
鳥居を入った南側(右側)の高い位置には、影向の松(ようごうのまつ)が生えています。
この下には頭屋児(とうやのちご)と呼ばれる二人の子供が、神様のお使いとして松の下式を見守っています。
この子達は、地面に足を着いてはいけないので、手前に写っている男性に肩車をされて、松の下を出入りします。
先行行列に続き入って来た日使(ひのつかい)の一行は、影向の松に向かって整列します。
日使赤い衣の陪従(べいじゅう)を二人従えています。
この人たちは南都楽所の楽人で、ここで短い曲を演奏します。
この儀式の間、続く巫女たちは鳥居の手前で待機しています。
これが案外時間がかかりまして、この間に続く人たちは、興福寺の側に折れて待機させられるようです。
猿楽の人たちは、松の下式を終えた後、お旅所の入り口で「埒明け(らちあけ)」の儀式を行ないます。
金春太夫が埒を閉じていた紐を切るのだそうですが、未だ見た事がありません(-_-;)
この後の行列は大名行列まで続き、かつてはその後で招待された他県など芸能者による奉納もあったのですが、最近は宝蔵院流鑓術の演武が行われていると聞いています。
更には流鏑馬の稚児たちもお旅所から一の鳥居まで戻り、稚児流鏑馬の奉納も行ってくれます。
これが十四時半くらい、お旅所では既に神事が始まっていて、私は昨年も今年もこちらを眺めておりました。
神事の流れは、基本、神様に御食事を献上し、宮司が幣帛を奉って祝詞を上げ、次に日使が奉幣をした後は、参列者による玉串奉納と続きます。
この間も、お渡りを終えた芸能者らが次々とお旅所に入って来て、拝礼をして持ち場へと去って行きます。
最後は流鏑馬を終えた子供たちと、演武を終えた鑓術の方々でしたか。
こうして、十五時半くらいよりお旅所祭が始まります。
今までも何度か書いておりますが、若宮社の御子神様は17日だけ御社を出て、お旅所で神遊びをします。
日付が変わる頃に御本殿を出御、これが遷幸の儀で、お旅所の御仮殿に入られた後は暁祭で、朝餉の御前を供え神楽を奉納します。
この後、朝九時に本殿祭で祭の無事を祈り、正午よりお渡り式が行われます。
参列の人々は県庁前の登り大路園地に集合し、ここから行列は出発します。
この女性は今年から加わった勾当内侍(こうとうのないし)、市議会の副議長だとか。
この後には、榊車、壷装束の女性達、騎馬の奈良市長やおん祭保存会の会長などが続きます。
平安時代、関白の藤原忠通が祭りに向かう途中に具合が悪くなり、付き従っていた楽人の一人が代理を務めた事より始まるとされていますが、現在は財界著名人が勤めておられます。
最後の二人が拝殿八乙女(はいでんのやおとめ)と呼ばれ、春日大社の御巫(みかんこ)さんが勤めています。
第三番「細男(せいのお)・相撲」、
第四番「猿楽」、
第五番「田楽」、
第六番「馬長児(ばちょうのちご)」、
第七番「競馬」、
第八番「流鏑馬」、
第九番「将馬(いさせうま)」、
第十番「野太刀」、
第十一番「大和士(やまとざむらい)」、
第十二番「大名行列」と続きます。
大名行列で担がれている駕籠ですが、いつもは人は乗らずに備品などを入れておくようですが、今年の南都奉行の駕籠には、昨年の日使を務めた岩谷産業の会長が、御奉行役で乗っておられました。
担ぐ人も乗る人も、かなり大変かも……
登り大路を西に向かう一行は、油阪の交差点で南に向かい、JR奈良駅前から三条通に入って東に進路をかえて、興福寺南大門で交名の儀を行い、一の鳥居から境内に入ってきます。
そして有名な影向の松(ようごうのまつ)の下で、松の下式が行なわれます。
奈良では一年の締めくくりとなる一番華やかな御祭で、本日15日は昼過ぎから『大宿所詣(おおしゅくしょもうで)』が行なわれます。
行列はJR奈良駅を出発、太鼓に先導されて、先頭は観光大使とミス奈良が花を添えていますが、一行のヒロインは四人の巫女です。
錦旗に続いて楽人、その後から輿に乗った巫女がやって来ます。
まずは辰市神子(たついちのみこ)、そして八嶋神子(やしまのみこ)、郷神子(ごうのみこ)、奈良神子(ならのみこ)と続き、最後は誰も乗っていない車が牽かれて行きました。
そして輿を担ぐ白丁は、航空自衛隊幹部学校の方々だとか。
『大宿所』とは、おん祭を差配した『大和士(やまとざむらい)』たちが潔斎とお篭りをした場所なのだとか。
この画像は、大宿所に供えられた『懸鳥』です。
かつては大和国内の大名が、兎や狸といった狩の獲物の奉納したのだそうです。
実は私、この神事を実際に見るのは初めてです(^_^)v
御湯立に御奉仕する巫女さんは、出る家が決まっていて、今では大和郡山のこの女性だけという事です。
後で知ったのですが、ここで使う御湯にはご利益があるとかで、容器を持参するといただけるのだとか。
そして、巫女さんが腰に巻いている藁綱は安産にご利益があるとも言っていました。
明日は宵宮祭、大和士と田楽の奉仕者方々の若宮社詣でも行なわれます。
そして17日が祭の本番、御旅所祭、翌日の相撲奉納と後宴の能をもっておん祭は終了となる予定です。
今年も寒いし天気も少し不安気味、さて、どうなりますやら(゜_゜>)
日本書紀に見える『白錦後苑(しらにしきのみその)』かといわれて久しい苑池(えんち)は、渡り堤を挟んで南北二つの池に別れます。
北池からは更に北へ向かって80mに及ぶ水路が伸び、それが西に折れ曲がって飛鳥川に注ぐという形を取っていた事が調査で分かっています。
南半分の詳細は、昨年の第7次調査で判明しています。
これらの調査で分かった遺構から作成したのが、上の画像の平面図や模型です。
これにより、中島から池に張り出したテラス状の施設があったと考えられています。
左の二本がその施設に当たりますが、更に並行して二本の柱があった跡が有るようです。
この画像では分かり難いのですが、柱は途中から色が変わっていまして、常に水面の高さが一定に保たれていた様子も窺えます。
ちなみに右側は、堤に埋められている木樋で、ここを開閉する事で北池との水位を調整していたようです。
二棟の掘立柱式建物と、南北方向の柵の一部が検出されていますが、いずれも浄御原期の遺構らしく正方位に乗っています。
池の水は豊富な湧水で確保されているようで、排水は北に向けて行なわれます。
その水路の一部を今回も検出し、構造が分かるようになりました。
上下二段構造で、上段の幅は13m、下段の幅は6mになりますが、上下を分けるテラス部の構造が、西側と東側では違っています。
画像の奥が東側ですが、石を並べて階段を造っています。
西側は砂利敷きですが、階段はありません。
水路の西側の高くなった土地でも、建物跡が見つかっています。
ここは土を盛って整地してあり、今現在も川の側から見ると高くなっているのが分かります。
宮地は南東の微高知に建設され、ここは川の段丘を利用して造られた池のある庭園です。
三年前に史跡・名勝地に指定され、いずれは指定地を全て公で買い上げて、苑池の様子を再現した公園を造る計画だそうです。
私は10日の午後に行って参りました。
瓦は既に全て下ろされ、相輪部も外され、この度は三重目の解体もほぼ終わっています。
この画像は初層部分、瓦を下ろされた裳階(もこし)と主屋の壁や組み物が見えています。
桁(けた)を支えている、四角い斗(ます)が原形留めていません……
その下の肘木(ひじき)には笹繰(ささくり)や舌(ぜつ)という部分があるようなので、奈良時代の部品のようです。
1300年の経年が、ここまで檜財を劣化させているという事でしょうか。
斗が外側に木口を見せるように置いてあるのは、古い時代の証拠だそうです。
こちらの肘木も、先程に同様、形からも創建当時の物だと考えられるのだとか。
下の足場に置かれているのが、三重目各所の部材です。
今までに何度も解体修理が行なわれ、破損した箇所を新たな部材で補って行ったのですが、それぞれの部材には、何所のどの部分で使用されていたのかが注記されています。
何でも全体で1200を越す部品があるそうで、これをしておかないと何所の部品なのかが分からなくなってしまうそうです。
修理が終われば、30m以上の上空に行ってしまう(かもしれない)、水煙(すいえん)を間近でマジマジと見る事が出来る、絶好の機会です。
やっぱり本物は迫力が違いますよ。
ところで、水煙や九輪の劣化状況はいささか厳しいようで、この後、念入りな劣化防止の科学的処置をして戻すか、いっそうの事、新たな物を上に上げるかの結論は、まだ出ていないのだそうです。
昨日に書き忘れました管絃の部の事でも。
催馬楽は歌がメインとなりますので、使用する楽器は笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、竜笛、琵琶、箏に加えて、笏拍子が鳴り物となります。
いずれも一名ずつの演奏者で、後の方々は歌人という訳です。
“更衣(ころもがえ)せむや さ公達や 我が衣(きぬ)は 野原篠原 萩の花摺や さ公達や”
蛇足に申しますと、公達にかかる「さ」は接頭詞、「野原篠原」は「萩」にかかる枕詞です。
楽曲が前後いたしますが、舞楽の部で『振鉾』の後に行われたのが『北庭楽(ほくていらく)』です。
切れの良い左方の四人舞いで、一臈の方以外は女性が舞っておられます。
『萬葉舞楽会』は、若手の人や、神事では舞人を務めない女性が、活躍する場になっているそうです。
神仏への奉納ではなく、舞楽に興味理解を持って見に来てくれる方々へのお披露目というコンセプトなので、観客を正面に見て舞うポジションを取ってくれます。
そして右方は『狛鉾』……“ほこ”の字は木偏なのですが、このIMEでは出て来ません(-_-;)
舞人が持つのは、武器ではなくて船の櫂なので木偏が正しいのだと思います。
こちらは四人とも女性舞人ですので、曲も装束も綺麗ですが、舞人も綺麗です。
一昨年の『光明皇后1250年御遠忌』の結願日でしたか、法華寺(尼寺です)が法要の御奉仕という事で、奉納の舞楽も『振鉾』以外は、女性の舞人が舞台に上がっておられました。
そういえば、あの時も『北庭楽』と『狛鉾』でした。
そして最後の走舞は、右方『還城楽(げんじょうらく)』
この舞、林邑八楽に入るくらいだから左方でしょうと思いがちなのですが、右方にもあるのだそうです。
そしてどういう訳なのか、常に右方で舞われる事の方が多いのだそうです。
これは『陪慮(ばいろ)』も同様なのだとか(゜_゜)
曲調が左方は只拍子(ただびょうし)、右方は夜多羅拍子(やたらびょうし)と、聞けばはっきり分かるのだそうですが、私の記憶では左方を見た事はないような……
南都でも四天王寺でも京都でも、『還城楽』の舞人は、『蘭陵王』の序で登場してましたからσ(^◇^;)
この度も面白がって動画を撮っておりました。
そいつを見返しつつも思うのは、南都楽所の『還城楽』は楽しいです。
殊に、蛇を見つけた後の間合いの詰め方が……あの大袈裟な素振りは、威嚇なんだろうか(・・?