忍者ブログ

うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

HOME Admin Write
選択したカテゴリーの記事一覧
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

昨日から藤原百川と縄麻呂の会話を考えているのですが、何といっても素直さなんぞ微塵もない右大弁と中納言、二人ともストレートにものを言いやしない(--〆)
自分で書いていて、イマイチ何の比喩で言っているのか分からなくなって来る……
そして挙句の果てには、百川が疲れる会話だと言い出す始末(ーー;)

この二人に間接的な命令を出している黒幕は、考えてみれば先朝の太政官の№3だったと気がつきました。
それから考えると、どうしてこの御仁の評価は殆ど無いも同然なのだろうと、今もって不思議です。
まぁ、文書屋がそれをするとは思えない節もあるのですがσ(^◇^;)

さてと、これからますます、ややこしい話を掘り起こさなければならないのですが、こいつを次に起きる事件にどう絡めましょうかね。
この辺がうまく行かないと、説得力が全くない話になってしまい、今までに素人作品などで散々に読まされた存在理由不明のキャラクターが出来上がってしまいますわ。
女性人の内の最大のキーパーソンに対してそのような扱いは、絶対にしたくないのが私の心情ですから……
PR
相変わらず内容と画像は関係ありません。
これは畝傍山にいた蜆蝶、写したのは秋の彼岸の頃、蝶々にやたらと出会うような日でした。畝傍山にいた蜆蝶

では……『続日本紀』宝亀二年八月八日に、外従五位下丹比宿禰乙女(たじひのすくねおとめ)の位記(叙位の辞令)を毀(こぼ)つという記事が見えています。
乙女という人は神護景雲三年五月に、忍坂女王県犬養姉女が乗輿(称徳女帝)を厭魅した云々と、訴えて来たのですが、ここに至って証言が誣告と知れたために、このような処置になったと処分の内容が記されています。

この事件、不破内親王(女帝の異母妹)が我が子を皇位に就けようとして、これらの女官と共に呪詛を行ったという事になっているのですが、これは果たして忍坂女王姉女が呪詛に無関係なのか、呪詛事件そのものがなかったという事なのか、はっきりとは書かれていませんが、不破内親王に関しては何も触れていないので、恐らくは前者なのでしょう。

また宝亀三年三月二日、井上皇后の廃后事件の背景を示す宣命が出されています。
ここに登場する人物は裳咋足嶋(もくいのたるしま)という人で、皇后が粟田広上安都堅石女(あとのかたしめ)と共に呪詛を行ったと自首して来たとあります。
宣命では、自首した足嶋には外従五位下の位を賜り、自首しなかった二名は遠流にすると結んでいます。

この八ヵ月後の十一月三十日、神護景雲三年の呪詛事件に連座した安倍朝臣弥夫人を赦す云々という記事と、十二月十二日には厨真人厨女(不破内親王)の属籍を復するという記事が見えています。

どうも事件の根っこは同じような所にあるのだと、勝手に思っているのですが……ここに登場する人物は、やはり全員が女性なんでしょうか?
私はそのように思ってしまっているのですが、女という字がついている名前は女性だとしても、裳咋足嶋と安倍弥夫人の二人は果たして女性なのでしょうか、それとも男性なのでしょうか?
この時代の女性の名前は、本当に分かり難くていけません。

一応、全員女性だという事で話を進めているのですが、もしも足嶋が男性だったら、ストーリー展開は多少変わって来るんだろうなぁ……
ホテイアオイ 本薬師寺にてまたもや、藤原縄麻呂がどこかに失踪しようとしてるんじゃないのか……(・_・;)
開成親王がとんでもない事を言い出して、ようやく話が核心に入ってきたものの、これより百川がタッグを組むはずの縄麻呂が、全然、話に絡もうとしないじゃないの(ーー;)

さて、問題。
この御仁、宝亀二年に中納言になって、これから更に出世をすると思っていたのですが、案外ここからのスピードが遅いような気がするんですが、どうしてなんでしょう。
この後、宝亀十年に亡くなるまでの動きが『続日本紀』の上では、殆ど見えないんですよね。
かろうじて、亡くなる年の九月に中衛大将に任命される記事だけです。
この時には、中納言勅旨卿侍従はそのままとすると見えているので、どこかで勅旨卿には任命されているようでして、『公卿補任』にはそれが宝亀四年と記されています。
この年には恐らく東宮傅にもなっているので、山部親王の立太子に則しての任命なのかもしれません。

それなのに、何となく昇進が滞っている印象を受けるのはどうしてなんでしょうねぇ……同じ年に亡くなっている百川は、それなりに昇進しているのに。

昨日から、ツジツマ合わせなどを兼ねて、以前に書いた話を読み流していたのですが、ここじゃまだ、縄麻呂の事が殆ど出てこないんですね。
こいつを書いた時には、ここまで胡散臭いポジションにいる人だとは気がつかなかったためですが。
そして百川の事を誰よりも常識人と書いてある……そうすると、縄麻呂の評価は何になるのでしょうねぇ(゜.゜)

ところで、この話に出て来る早良親王が、とんでもなく悪党に思えて仕方ありませんわ、自分で書いておきながらσ(^◇^;)
おまけに、この御仁、式家の種継や北家の小黒麻呂と並ぶ、遷都派の一人だと……書いた本人がすっかり忘れておりましたわε-( ̄ヘ ̄)┌
まぁ、こいつもいずれ、前面書き直しですわ( ̄▽ ̄)。o0○
音燈華 赤膚焼きの燈火器奈良の夏の野外イベントではお馴染みの、赤膚焼きの燈火器です。
この画像は先月の17日に奈良国立博物館の前庭で行われた『音燈華SPECIAL LIVE』の時のものです。

これを始めとして、書いていない記事がやたらにありますが……畝傍山散歩もあったっけ(゜.゜)
記事はあまり書かずに、画像だけ上げようかな、これからはσ(^◇^;)

それにしてもですよ、開成親王が出て来ると、山部親王のテンションがやたら上がるんだが、これって単に私のテンションが上がっているだけだよな……(ーー;)
この二人がしゃべりだすと、他に百川がいようが、種継がいようが、まったく忘れられた状況になってしまいますわ。
とにかく開成親王、情報通すぎるのが一寸問題かも知れません……坊主の前では誰もが口が軽くなる、などと行っておりますがσ(^◇^;)

ところで二人の会話の中に出て来る親王禅師(早良親王)のポジションが、かなり曖昧かもしれません。
まだ何も記録がない分、稗田親王辺りの方が立場や状況を決めやすいのですがねぇ。
大体、宝亀二年現在、この御仁は東大寺にいるのか?それとも大安寺にいるのか?
調べるの面倒だわ……東大寺要録とか、どこかにテキストがあったかなぁε-( ̄ヘ ̄)┌  
春日の杜の大王と鹿さ~て、それにしても何度も書き直しばかりしているから、遅々として進みません。
既に100枚(400字詰め換算)は超えているはずですが、核心の部分にちっとも入って行きやしませんわ。
百川もそろそろ、疑問をすっきり晴らしたいんじゃないかと思うんですが、とにかく作者がつまらない情報の隠蔽をしておりますので( ̄▽ ̄)。o0○

結局、右大臣(吉備真備)はどっかに失踪しちまって、変わりに娘やら和気公の姉弟が出てきたりで、何とな~く登場人物も代わってきてしまいました。
まぁ、そりゃ良いのですけどね、山部親王の登場割合をかなり削っているつもりなのに、やっぱり、この御仁を抜きでは話が進まないためもあって、出て来た時には、ここぞとばかりにとんでもない事を言いまくってくれます。
本当に口数の多い連中ばかりで……
それにしても開成親王や種継が大人しすぎるのは何故?

ところで本日、今更ながらに悩んでいるのが、斎宮の卜定のタイミングです。

「しかし、何事も皇后の思うようには行かせぬ。何せ大嘗祭が終わり次第、伊勢斎宮を卜定せねばならぬ。神祇官が何の建前を言おうが、天皇の御心は既に決まっておられる」

などと、山部親王は挑発的な事を言っておりますが、大嘗祭と斎宮卜定の順番って決まっているのかしら?
巷の噂では斎宮の候補は天皇の娘の酒人内親王と孫の五百井女王、この選定に漏れた方が中務宮の正妃になる……なんて言われていちゃ、親王としても傍から横目で見ている訳にゃいかんわな……σ(^◇^;)
何の呼び名が分からないかと申しますと、部下が上司を呼ぶ時です。

部下は右兵衛少尉(しょうじょう)の和気公清麻呂、上司は右兵衛督(かみ)の藤原朝臣百川、場面は宝亀二年閏三月、右京にある百川の屋敷で……

もしくは、
部下、近衛将監の和気公清麻呂、そして上司、元近衛少将山部親王、左京北一条の屋敷で……こちらのパターンにしたら得に問題はないです。
臣下が親王を呼ぶのなら「親王様」とでも呼ばせておけば、特に差し障りはないでしょうから。

三嶋大社夏祭の流鏑馬先のパターンだと、清麻呂は百川に何て呼びかければ良いんだ?
「督殿」かなぁ……
これも「こうどの」と読んで良いのでしょうねぇ……
書いてから疑問に思えてきて、その辺(正倉院文書とか)を眺めているのですが、こんな日常会話的な用例はチョッとやそっとじゃ出てきませんわね(・_・;)

今日の画像は三嶋大社の夏祭の流鏑馬。
この的はかわらけですが、本来の物はどうやら紙で出来ているようで、矢が突き刺さったままになっておりましたし、何よりも音で的中したか否かが分からない(゜.゜)
昔から、こうだったかしら?本当に久々に見たので、殆ど記憶がないです……
ところで今月は、鶴岡八幡宮の流鏑馬だわね……見に行くだけの暇も金もないわ・゚・(ノД`;)・゚・
久々に家で書いていますが、とにかく暑いです(~_~;)
どこかに涼みがてら、モバイル持って出掛けようかしら……で、場所によっては知人がいたりして、そこで別の話で盛り上がって、全く仕事にならなかったり?

それにしても百川らはまだ、宝亀二年三月の人事異動をグダグダ言っております。
左右の大臣が空席となったので、太政官人事が大きく変わる訳ですが、藤原氏にとっては北家永手亡き後の氏長(うじのかみ)のポストにも関わって来ますので、かなり大きな問題なのですね。

まあ、年功序列的に軍配は式家良継に上がっているのですが、チョイト振り返って、その前年の先帝崩御の時に状況……
要は、ここで問題となるのは、八月四日の皇嗣選定会議の出席メンバーですわ。
太政官のメンバーかと思えば、抜けている人がいるし、参議にすらなっていない人物が入っていたりで、一部の派閥による意見操作だという観点は、この際は云々せずに、藤原氏の人々を見てみます。

まずは南家、参議・民部卿・従三位縄麻呂
そして北家、左大臣・従一位永手
さらに式家、参議・兵部卿・従三位宿奈麻呂(良継)、近衛大将・従三位蔵下麻呂
しかし京家……誰もいない(゜-゜)

既に参議の南家縄継北家魚名式家田麻呂がおりません。
白壁天皇の政権下においては、この連中、既に除外というところなのでしょうか?
ここに出てきた藤氏のメンバーで、三月十三日の人事異動で昇格しているのは、
縄麻呂(43歳)が中納言宿奈麻呂(良継・56歳)が内臣魚名(51歳)が大納言です。
参考までに他の人の年齢を申し上げますと、縄継が45歳、田麻呂が50歳、蔵下麻呂は38歳、百川は40歳です。

なら燈花会にてこのトップ争い、いったんは式家がリードしていますが、北家南家も決して負けたとは思っていないでしょう。
それにしても思うのは、白壁天皇の御世に式家は優遇されているとは思えないのに、何故、この会議の時に二人の人物が名前を連ねているかですわ。
この会議の指導権はやはり永手が握っていたのか?
永手式家の連中、どの程度に連携があったのかなぁ、それ以上に永手は異母弟らをどういう目で見ていたんだろう……今まであまり考えていなかったわ(゜_゜>)

ところで何か忘れていると思ったら……『ペルセウス座の流星群』のピーク、一昨日の晩というか昨日の未明でしたわ・゚・(ノД`;)・゚・
本日の画像は、先週見て来た『なら燈花会』より。
孟宗竹に大小の穴を開けて、節の部分にロウソクを入れたランタンです。
これが滅茶苦茶に綺麗なのですが、写真を撮ると惨敗状況で……ε-( ̄ヘ ̄)┌
 
百済寺(広陵町)の三重塔私の現在のネット環境は、ADSLでも光ファイバーでもなく、WiFiというやつです。
別にゲーム機もスマートフォンも使っていないのに、何でかと申しまして、ネットブックをセカンド機に使っている以外に、深い理由もありません。
こいつの接続状況が、時々思い出したようにヘタってくれます。
大昔のダイアルアップかってくらいに、何やら考えまくっていて、時々表示できませんと、ブラウザに誤らせている始末……(ーー;)
何か特に今夜は、リカバリーする前のこのパソコンの状況を髣髴とさせてくれますわ(゜_゜>)

それはさて置き、ただ今の悩みは藤原百川と縄麻呂、この二人が果たして悪党になってくれるのかです。
今の話の主要登場人物の内で、一番の曲者は間違いなく白壁天皇なのですが、この人ですら、三十代の頃の話ではその要素がってのか、自覚が大してないんですわ。
周囲は多分、この御仁は要注意人物だと思っているかもしれないのですが(ー_ー)!!
これが五十過ぎて太政官入りすると、藤原永手と真楯の兄弟と裏で何をやっているものやら……完全に確信犯(゜д゜)

この傾向は、息子の方がさらに顕著かも知れませんね
末はスケベ爺になる予定の御仁が、何の好青年を演じているんだ……ってのは、やっぱり私の書くキャラクターには定番化したパターンか、もしかして(・_・;)

そもそも、藤原縄麻呂のキャラクターが定まっていないのが、大きな問題でしょう。
山部親王からは「蛙に似ている」と言われ、百川からは「むしろヤモリだ」と呟かれ……
私のイメージでは大沢たかおさんだったりして……これでまた、誰かを怒らせたなσ(^◇^;)

今日の画像は、奈良県北葛城郡広陵町にある『百済寺』の三重塔です。
鎌倉時代の再建、重要文化財に指定されています。
歌、数闋(すくえつ)訖(おは)りて、河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂以下、和舞(やまとまひ)を奏(つかへまつ)る』

楽人は春日大社の神職さんたちです。今までに何度か取り上げました神護景雲四年(宝亀元年、770年)の三月、河内の由義宮行幸での歌垣に見える記事です。
河内国は由義宮(元は弓削行宮)が造営されたため、国府の替わりに河内職(かわちしき)が置かれ、称徳天皇のお気に入りだったらしい藤原雄田麻呂が、前年に河内大夫に任命されました。

この時の雄田麻呂の役割を私は勝手に、舞人の一人だろうと考えておりましたが、考えてみれば『奏る』と書かれているので楽人の可能性も充分あるのですね。
平安時代などにも宴の場で、公達が自ら舞人を勤めるような場面もありまして、管弦に限らず舞いも教養の一つだったのでしょうから、まぁ、どちらの可能性も否定は出来ないとは思うのですが……
場面としては舞人の方が面白いとは思うのですが、この時の雄田麻呂は三十九歳、果たしてどちらが相応しいものなのやら。
もしも楽人の一人を務めるのなら、さて、何を奏してもらいましょうか。
やはり弾琴か笏拍子あたりかな……(~_~;)

あぁ~、それにしても全面書き直しだわ……相変わらず縄麻呂の役割が決まらない・゚・(ノД`;)・゚・
称徳・道鏡政権下での藤氏の№2は誰なんだろうと、昼間から何となく考えておりました。

南家の豊成右大臣に返り咲き、その後を北家の永手が続いていますが、これは天平神護元年までの事です。
豊成の薨去後のトップは右大臣に就任した永手で、その後を追うのが年子の同母弟である大納言真楯なのですが、真楯が亡くなった後は誰なんでしょう。
官位から見ますと、式家の蔵下麻呂が従三位なのですが、この人の破格の出世は天平宝字八年の乱での功績によるもので、政治的な手腕はまた別物です。
そういえば、以前にここのどこかの記事で、奈良時代に若い三位などいないと書いたような気がするのですが、蔵下麻呂は三十そこそこで従三位になっているので、例外中の例外だと思います。

それはさて置き八年の乱の後、官位で見て行けば式家の宿名麻呂が正四位上となっで一歩リードしていますが、この人は同時に大宰帥にも任命されていますので、地方に一旦出されているようです。
そうすると次に続くのが、先日から問題にしている南家の縄麻呂となります。

この人は豊成の正妻の息子なので、考えてみれば藤原南家嫡流筋です。
あまり表に出て来る印象の無い人ですが、若い頃から侍従を務め、永手以上に女帝の近くにいる人かもしれません。
この人も式家の雄田麻呂と並んで、矢鱈に官職を兼任しています。
天平神護二年に近江守に任命された時の兼任官を見てみますと、参議民部卿勅旨大輔侍従となっています。
まぁ、藤氏のこの世代のエリート達は、大抵が二つ三つの職を兼任していますが、縄麻呂雄田麻呂は特に多いように見受けられます。

何かやはり、この二人って共通点があるような気がするんですよね。
もしかして後世の伝承に見える、百川(雄田麻呂)が行ったという陰謀の何割かは、この人がやった事もしくは、かなりのウェイトで関わっているなんて事はないのでしょうかねぇ……
考えてみても、あまりに縄麻呂という人の正体は、『続日本紀』などには書かれていないんですよね……
内室、息子、娘の一人も分からないのですから、本当に捉えようがない……
もう少し、周辺を見回して何かヒントでもないか探してみませんとε-( ̄ヘ ̄)┌

……にしても、真鯛の荒だきの食べすぎで胸焼けがする( ̄Д)=3
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

お天気情報

-天気予報コム-

最新コメント
[02/06 賀茂史女]
[02/05 うめぞー]
[02/02 賀茂史女]
[01/30 うめぞー]
[01/30 マム]

ブログ内検索

メールフォームです
今日の参考に

Copyright ©  -- うめぞー、思案中 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by 押し花とアイコン / Powered by [PR]
 / 忍者ブログ