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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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本当ならば、お城の石垣になるべき身が……『浄瑠璃寺』を出まして、恭仁宮跡の方へ向かおうと、道を北上したのは良いのですが、JR加茂駅の前の道を前を走っていた車にくっついて、何も考えずに左折してしまいました……曲がる必要ないです、直進すればすぐに恭仁大橋だってのに(T_T)

そういう訳でさっさと引き返せば良いものを、そのまま木津川に沿って西に向かってしまい、真新しい鳥居のある『勝手神社』というお宮さんの駐車場に一旦乗り入れました。
これも御縁だと、やはり新しそうな春日作りの立派な御社に参拝して帰ろうとすると、道の向かいに『残念石』と書かれた古い木の看板が目に付いてしまいました。

今は河原の残念石(T_T)

何が残念なのかと申しますと、時は江戸時代初期、徳川の世になって大阪城の改築を命じられた藤堂高虎が、石垣を建造するための石をあちらこちらから求めたそうです。
加茂地域でも大野山から花崗岩を切り出して、木津川を運ぼうとしたのですが、何かの都合で河原のこの場所に放棄されてしまったのだそうです。

ここは木津川市大野、楔の跡や臍穴も生々しい巨石がゴロゴロしています。
大阪城内にも結構あって有名らしいのですが、小豆島にはかなりの数が放置されているそうです。
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ここがお寺の門です。浄瑠璃寺に行ったのは、さて何年振りでしょう。
最後に行った時は、間違いなく春でした。
早咲きの桜が咲いていまして、そこから岩船寺まで石仏めぐりをしながら歩いて行きましたっけ。
う~ん、大昔の事だわ(~_~;)

ところで浄瑠璃寺を詳しく
紹介しているページによりますと、こちらには少し前まで、案内犬の「じんべい」君がいたそうです。
今は、このようなキジトラの猫さんがいます。
この子は女の子、駐車場の近くから門前まで、観光客の方を先導するように小走りにやってきまして、このように門の前に座ってポーズもとってくれました。
こちらでは親子で猫さんがいるようで、お母さんらしいキジトラさん(この子にそっくり)と、兄弟らしいキジトラ白君と赤トラ白君もいました。

本堂は塔と池を挟んで向かい合います。こちらのお寺の別名は『九体阿弥陀寺』、細長い本堂には九体の阿弥陀如来がおられます。
正面は十一間、その内の九間はそれぞれ一体ずつの阿弥陀様の正面に対応していまして、この堂全体が九体の仏の厨子となっているのだそうです。

ところで浄瑠璃寺の名前は、東方にある浄瑠璃浄土に由来しているのでしょうか。
西方浄土には阿弥陀如来がおられますが、東方の浄土には薬師瑠璃光如来がおられます。

これが浄瑠璃浄土の三重塔です。
そういう訳で池を挟んだ向かいの三重塔の御本尊は薬師如来です。
こちらは秘仏で、毎月八日に開帳されるそうですが、ただ今は修復を終えて、本堂の方に厨子ごと移されていました。

秘仏と言いますと、ここでもっとも有名な仏様は『吉祥天女』ですね。
確か1月は1日から15日までの御開帳だと記憶しておりまして、イソイソと出かけた次第です。
鎌倉時代に御生まれになった、お美しい方です。
3月21日から5月20日まで、10月1日から11月30日にも御開帳なので、また機会がありましたら会いに行こうかと思っています。

さて、こちらにはもう御一方秘仏の大日如来がおられます。
こちらの開帳日がなんと、1月8日から10日の三日間だけとの事で、(゜.゜)、こいつは春から縁起が良い。
灌頂堂におられるそうで、そちらに行きますと、どういう訳かキジトラ白の男の子が仏間に控えていて、拝観に来た方々の膝や肩に乗って甘えておりました。
私が大日さんに対面している間も、ずっと膝の上で喉を鳴らしておりました。
この子達の存在もポイント高いですよ、こちらのお寺さん。
そういう訳で、今度誰か遊びに来たら、車出すから行くぞ~!と誘うべきかなσ(^◇^;)
右の社殿の前に、カワラヒワの番がおりました……それだけの事(゜.゜)いい加減、今日くらいは大人しく家で仕事をしようと思っていたのですが、どうも何かに呼ばれているような気がして(こういう事を書いていると、我ながらかなり危ない奴に思えてくる……(ーー゛))、ちょいと出かけようとマイカーに乗って北上致しました。
何となく行こうとしたのが、どういう訳なのか『八嶋御陵』でして、それなのに橿原バイパスを降りてからも東に行かずに、そのまま北に向かってしまったので、奈良公園の方に進路を変えまして登大路の渋滞を抜けて奈良坂に向かえば、やっぱりここに着きます。

これ何処かって、『奈良豆比古神社』です。
古いお守りを返して、新しいのを買おうと思ったのですが、宮司さんはお留守の様でした。
そしていつもの狛犬は、珍しい事に涎掛けをしておりませんでした。
こういう姿を見るのは、もしかして初めてかな?

ここまで来たのだからと向かったのは、京都府木津川市加茂町の『浄瑠璃寺』です。
確か十五日まで秘仏の吉祥天女像の公開をしているはずと目星を点けておりましたので(^^ゞ
そしてそこから『恭仁宮跡』に行きまして、更に『海住山寺』にも行ってしまい、更に『恭仁神社』まで行ってしまいました。
『八嶋御陵』はどうなったかって……奈良市内に戻ってきた時は既に17時を回っていまして、日が暮れるどころか暗くなり始めてました。
今から度胸試しに行く気もないので、また機会を改めまして(・・?

加茂盆地を見下ろしてそういう訳で、この性懲りも無いパノラマ画像は、海住山寺から見た加茂盆地です。
ここへ行った目的の一つは、恭仁京の一帯を眺めてみたいというところだったのですが……このお寺は真南に展望が開けてない(*_*;
この方向は多分、南西です。
だって生駒山が見えますからσ(^◇^;)
手前に横たわっている丘は何なんだ?
もしかして岡田国神社の裏山と違うのか??

と、わざわざ南山城まで出かけて何をしているのやら(~_~;)
この辺のレポートでもボチボチ上げてゆきますか……『修禅寺』も忘れてるのに?
おまけに明日は(既に今日)は、春日大社の『舞楽始め式』だよ!!
一月半ぶりの三室戸寺です。
八十四年ぶりという
秘仏開帳は、今月一杯という事ですが、もう1つ「観音様の足の裏を拝する」会という特別拝観も、宝物殿にて行っています。
そういう訳でして、高麗寺恭仁宮の現地説明会の後に、イソイソと出かけて参りました。

返り咲きでしょうか、それとも秋咲き?上狛駅からJR奈良線で、そのまま宇治駅まで行けば良いので、結構近いはずです。
三室戸駅は宇治駅の一つ手前ですし、歩いても行ける程度の距離ですから……と思ったのですが、ちょいと誤算(*_*;
実は三室戸駅はJRではなく京阪電車なのですね。
JR宇治駅と京阪宇治駅の間は、宇治橋をはさんで約一キロはあるんです。
それでも三室戸寺までなら約二キロ、天気も良い日だったのでフラフラと歩いて行く事と致しました。

そういう訳で割合に早めに寺には到着いたしました。
ただ今、紅葉の見ごろに差し掛かって、観光客の方々も大勢来ておられました。
石段の途中には画像のような白い石楠花が、赤い紅葉を背景に咲いておりました。
石楠花というと四月から五月始めに咲くのが普通なのですが、この種類は果たして秋咲きなのでしょうか、それとも返り咲き??
そういえば高麗寺の近くの田んぼの畦には、シロツメクサやムラサキサギゴケが咲いていましたっけ。

阿弥陀様の脇侍ではあるのですが……そして件の足の裏を拝する事のできる観音様ですが……
この写真、試しに宝物殿を写して見たのですが、なんとまぁ、不謹慎な……このように仏像が写っておりました。
マナー違反と分かっていながら載せるんじゃないって?
しかし、雰囲気くらいしか分からない写真ですσ(^◇^;)

大和座り(正座)した足の先が衣の裾から出ていまして、綺麗に彫られた足の指も拝む事ができます。
この観音様は阿弥陀仏の脇侍なので、勢至菩薩とペアになっているのですが、勢至様の方の足は出ておられないのだそうです。
毎年十一月中、このような御姿で公開されています。
平安末か鎌倉初期の仏像だそうですが、木芯乾漆のように見えるんですよね……玉眼も入っていないし、もう少し古いんじゃないのかなぁ?
背後に掛けられた十二天の画像は室町時代の仏画だそうで、仏様も色も綺麗です。

飛鳥時代に作られたという御本尊の観世音菩薩も再び拝して参りまして、それでもまだ三時過ぎ、そのまま帰るにはチョッと早い?
そこで向かった先が、駅からここまで来る途中にありました『源氏物語ミュージアム』です。

私が源氏物語に詳しいとは、誰も思われないと思いますが、事実全然詳しくありません(ーー゛
それでも平等院辺りまで戻るよりも、ずっと近かったもので(-_-;)
まぁ、初めて行ったので、決して悪くはなかったです。
上映されていた『橋姫』という映画が特に良かったです。

物語はあくまでも『宇治十帖』なのですが、宇治橋の守り神たる橋姫に扮した白石加代子さんが凄かった……(~_~;)
大体私ゃ、『宇治十帖』は嫌いなんですけどねぇ……あの二人の野郎(貴公子か?)が、どっちもどっち、好き勝手に遣りたい放題、惚れた腫れたで三人の姉妹の運命を滅茶苦茶にしてくれたような話……こういう事書くと、また誰かの怒りを買うようなε-( ̄ヘ ̄)┌
それでも見ていて泣けてくるんです……画像が綺麗で請っているのは勿論のこと、演出というか切り口が巧いんですわね。
野郎(だから貴公子だ?)よりも姫君の方に焦点を当てているのが、なんと言っても物語としての説得力があり、宇治橋姫という超越した存在の目から見ているのがとても良いです。

こういう具合に決して悪くはなかったですが……展示内容からして再訪するのかと聞かれますと、多分、誰かに付き合わない限りはしないと思います(+_+)
神楽殿の上の月昨日は昼間から京都に出かけておりましたので、夕方には奈良に帰って『采女祭』にでも久々に行こうかななどと考えておりました。
ところがバスで祇園に差し掛かった時、『八坂神社』の鳥居の前に『観月祭』と書いた看板を見てしまって、衝動的に下りてしまいましたわ(~_~;)

そもそも仲秋のこの夜、チョッとした名所では『観月会』くらい行っておられましょう、八坂さんに限る事無く。
そういう訳で暗くなるのを待っておりますと、十八時十五分から京都女子大学の管弦楽アンサンブルの演奏が始まりました。
ところが予定していた曲が短かったため、時間調整に同じプログラムを二度繰り返させられて、メンバーには気の毒だったのか、逆に嬉しかったのか……まぁ、せっかく練習したんだろうしなぁ、発表の機会は多いほうが良いのかね。
その後に神事が始まり、献詠歌、管弦・舞楽、筝曲、太鼓演奏と続くようなのですが、私は神事が終わったところで退散して参りました。

それにしても京都市内のバスというのは、すいている事の方が稀なのではないのかと思うほど、常にすし詰めで走っておりますねぇ……んな訳ない?市バス赤字なの??
祇園から京都駅行きのバスがちっとも来やしない……どうせ来ても乗車拒否されそうな人の群れなので、烏丸まで歩くかと四条通を西に向かいました。
祇園なんぞ歩くのって正月以来だなと、別に急ぐでもなしに観光客をしながら、途中の『目病み地蔵』だの祇園祭の『お旅所』などを覗きつつ行きました。
繁華街をふらつくのは元来嫌いじゃないせいか、久々に歩いた物珍しさも手伝ってか、割合に短い距離に感じましたわ(^^ゞ

大政奉還のお陰で、京都は江戸時代を残す町になったと言いますが、残された文化財の建物や庭のみではなく、四条辺りの繁華街にもその片鱗が各所に見えるのが面白いです。
江戸時代に詳しくなれば、私ももう少し京都という街に愛着を感じられるのかもしれませんね。
桧皮葺が美しいです。恭仁・紫香楽ツアーで一箇所忘れておりました。
紫香楽から京田辺辺りまで、帰りは広い国道を行こうと307号線をひたすら西に走っておりました。
信号も殆どなく、結構すいていたので、どちら様も平気で80キロ近い速度で流しておりまして、かなり気忙しかったです。
ところが宇治田原町の中心部辺りに来た時、急に渋滞が始まりまして、二進も三進も動かない状況……事故でもあったのかしら?
少し進んだところに旧道との交差点があったので、渋滞よりも多少細い道をチンタラ行く方がマシかなと、そこを左に入ってしばらく行くと右手前方に鮮やかな赤い鳥居と、うっそうとした社の杜が見えました。

それがこちらの『御栗栖神社』です。
綺麗な境内で、またもや溜息モノですわ……なんて開放的な場所なんだ。
時々、境内に入った途端、何か篭っていると思うものがあるのですが、こちらは掃除をしたばかりなのか、随分と清々しい感じです。
本殿は一間社の流造り、決して古い物ではなさそうですが、白木に桧皮葺、既に灯りも燈されて良い雰囲気に見えました。

御祭神は天津彦根命、宝亀元(770)年に栗林の傍らに御社を建てたのが始まりだそうです。
この神様は天照大御神と須佐之男命が誓約(うけい)をした時に生まれたそうで、山城国の守護神だと解説にありました。
そして栗林は、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)がこの地にやって来た折、村人から献上された焼き栗や煮栗を土に埋め、戦に勝つ事ができたならばこの栗が芽吹けと願をかけたところ、見事にその通りになったのだそうです。
なるほど、大海人皇子もここで誓約をした訳ですね(゜.゜)

さて、この後に恭仁宮跡の方に旧道を抜けて行ったのですが、とにかくすごい道でした(+_+)
狭いのならまだしも、アップダウン、カーブも激しいし、途中にガードレールもない箇所も多々あって、もしも対向車が来たら避ける場所がない……(ToT)
幸いにして対向車は全くなかったのですが、後方から二輪がずっとくっ付いて来ていて、かなり鬱陶しかったです。
そちらは小回り聞くだろうけど、こっちはそうも行かないんだぞ、少しは自重しろよな(-"-)
やはり相楽郡に多い建物配置です。本日は興福寺の南大門の現説に行ったり、奈良町に行ったりしておりましたが、取り敢えずは昨日までの続きで恭仁・紫香楽ツアー(?)の続きです。

恭仁宮跡を出た頃には既に日は沈んで薄暗くなっておりました。
この史跡は国道から一本北側の細い道に面しているので、そのまま国道に合流する所まで車を転がして行く事と致しました。
……と、途中で『恭仁神社』という看板がありましたので、暗くなるまでもう少し時間が有ると、参道に車を乗り入れますと右手に駐車場がありました。
名前を聞いた事があるし、割合に大きな神社みたいです。
石段を登って行くと、拝殿の前に舞台、その左右に氏子の仮舎のある、相楽郡独特の建物配置の境内に着きました。

出ました、一間社春日造り御賽銭を差し上げまして拍手を打ちつつ、さて、ここはどなたが御祭神なのかなと見回しますと……??
拝殿からチョイト回りこんで見ますと、このように立派な御社が覗いているではありませんか。
この造りといいサイズといい、間違いなく春日移しです。
多分『恭仁神社』は、先日に春日移しの御社のある神社を調べている時に見た名前なのでしょう。
綺麗に塗りなおされていますが、屋根は檜皮葺きのままですし、千木の姿も実に綺麗です(~_~)
こりゃまた、近い内に再訪して、明るい時にゆっくりと見に来ねばと思いつつ、更に周囲を眺めますと……

社の横や後方に石灯籠が幾つか立っておりました。
天満宮』と刻まれていますので、菅原道真公が御祭神ですね。
納得しつつ別の灯籠を見ますと『御霊大明神』?
う~ん、やっぱり天神さんか?
それとも末社に御霊神社があるのかしらと、再び拝殿の前に回りますと、ようやく解説の看板を見つけました。
石灯籠には『御霊大明神』の文字
祭神  崇道天皇
    藤原太夫人
    菅原道真公


あきまへんわ……つい、笑いが出てしまって(~_~;)
以下、解説によりますと

もともと菅原道真公を祭った村社天満宮で本殿は、文久三年(1863年)に奈良春日若宮の社殿を移築したものである。
 昭和四十年に、現在の恭仁京のあとに鎮座していた御霊神社と併合し神社名を恭仁神社と改められた。
 祭神は、御霊神社から遷座された崇道天皇及び藤原太夫人ともともと天満宮に鎮座の菅原道真公の三神である。(後略)


もう勝手にしてくれ……とのボヤキと共に、やっぱり近い内に再訪の可能性ありそうだわと確信するうめぞーでした。
今年度の『高麗寺』の現説、車で行ってやろうかしら(^_^;)
ちなみに今日、奈良町に行ったのはこの一連の流れもあってでした……その前に『寧估庵』にも行きましたけれどね。
こっちの写真はまた改めてσ(^◇^;)
既に夕暮れ天平十二年の十月、筑紫では戦役が起きているというのに、聖武天皇は四百騎もの兵力を伴い、伊勢行幸に出かけます。
そして十二月の半ばに山背国相楽郡恭仁郷に整備しつつあった宮に入ります。
やがてこの場所で朝賀を行い、国分寺建立の詔を発し、兵器を運ばせ、も移し、五位以上の者は平城に住む事を禁じます。
そしてついには、この場所に大極殿回廊も移築させ、『大養徳恭仁大宮』(やまとくにのおおみや)と号して都と定めます。
しかし十四年に入り、甲賀へと通じる東北道を開き、近江国甲賀郡紫香楽村離宮の造営を命じた辺りからおかしな雲行きになって行きます。

これらの動きはどうあれ、ここがかつて恭仁宮の有った場所です。
こちらの画像は恭仁宮とは直接に関係ない、『山城国分寺』の塔跡です。
紫香楽での造営活動や甲賀寺での盧舎那仏建立が架橋に入ると、恭仁京の造営は中断されるようになり、都は難波に移ったり紫香楽に行ったりと、恭仁は都として見限られるようになって行きます。
そして天平十七年、天皇は平城京に帰る事となり、恭仁宮大極殿山城国分寺の金堂として施入される事となりました。

いずれも2m近い大きな物です。この金堂跡は、基壇と国史跡に指定された後の石碑と、端のほうに三つ四つ残された礎石くらいしかありません。
おまけにその内の二つは既に動かされて、ベンチのようにやってきた人が休憩に使ったりしています。
逆に残りの良いのは、東側の芝生広場の一角に残る塔跡の礎石です。
先に紹介致しました『甲賀寺(近江国分寺)』の礎石に比べますと、かなり大きく造りも丁寧です。
山背国は藤原北家が勢力を広げていた国で、国司も北家関係の人が多いはずです。
一方、近江はといいますと、武智麻呂以来の南家支配は奈良朝後期になっても続いています。
この辺りを考えても、どちらの国分寺もそれなりの威容を示して造営されたのだと思うのですが……
それにしても度々思うのですが、ここの塔芯礎って舎利穴がないんですが、国分寺ってどこもそうでしたっけ(・・?
はっきり言って何も無い田んぼです(ーー゛)このところパノラマ画像ばっかり作ってますねぇ……それも下手くそ(ーー゛)
確か4枚を継ぎ合わせております。
この何も無い田畑が何かって?
これは滋賀県甲賀市の有名な『宮町遺跡』を遠望したところですね。
遺跡を見に行くと往々にしてこういう事はあります。
教育委員会の看板くらいはあるのですが、やっぱり何が何やら状況ですね。
山の中の小さな盆地に、本来ならば離宮として計画され、何か思うところあって高御座を移し、朝賀まで行う事となり、都が難波に移ろうが天皇はここに居座っていたという、遷都宣言はなくとも実のところ都に等しい場所となりましたのがここです。

高架下の小さな社の杜にありました。この小さな社は新名神高速道路の高架の下辺りにあります。
高架を立てる工事の事前調査で、このすぐ近くで宮町遺跡にまっすぐ続く切り通しの道や建物跡を検出しています。
この場所は宮町遺跡甲賀寺跡との中間点に当たるのだそうで、何らかの役所的な施設があったのだと考えられているようです。

その『新宮神社遺跡』の解説の看板が道端にあったので、車を停めて眺めていたついでに、その遺跡の名前の元になったこちらにもお参りして来ました。
少々古びた看板によりますと、御祭神は橘諸兄公だそうです。
左大臣橘朝臣諸兄は、恭仁遷都の推進者の一人です。
果たして諸兄公にしてみますと、決して都として望んでいなかったこの狭苦しい紫香楽の地に祭られる事が本望なのでしょうか……などと、ついいらぬ事を思う次第です(゜.゜)
ここにも神社がありますが……木津川市から和束町を抜けると、滋賀県甲賀市に至ります。
国道307号線に入ってそのまま東へ向かいますと、狸だらけの陶芸の里に至ります。
狸を両側に見送りながら更に行き、牧東という交差点で左に入りますと、間もなく左手にこの史跡が現れます。

入り口辺りに車を停めまして、コンクリート張りの参道を上がってゆきますと、中門跡に着きます。
そこから階段を更に上がりますと、この画像のような金堂跡があります。
礎石を眺めて見ますと7間×4間、割合にオーソドックスなサイズです……国分寺だとしたらの話ですが(^_^;)

国分寺式の伽藍配置です。この史跡はかつて、『紫香楽宮』の跡に『近江国分寺』を立てた場所だろうとされていました。
しかしここよりも更に北の『宮町遺跡』で、官衙配置の建物跡が検出されまして、宮跡はこちらだろうと言われるようになりました。
では、ここは何なの?
天平十五年十月、聖武天皇恭仁宮において『大仏造営の詔』を発せられ、甲賀寺が造営される事になります。
その『甲賀寺』の場所がここになるのだろうと、今は大筋で言われています。

礎石配置は、ほぼ完全に残っているそうです。しかし一番上の画像の礎石を見ますと、大きさはかなりありますが、国家プロジェクトの許に造営された寺院と考えるには、あまりに造りが雑に思えます。
畿内では割合に身近に、奈良時代くらいの寺などの礎石を見る事ができますが、もっと綺麗に加工されて、更に大きな物の場合が多いはずです。
そしてこの金堂のサイズでは、本尊は丈六仏くらいが相応しいでしょうか、少なくとも大仏さんは納まりません(^^ゞ
果たして甲賀寺の御本尊は、どのくらいの大きさで計画されていたのでしょうか?

『続日本紀』を読んでいますと、盧舎那仏の体骨柱を立てる記事はありますが、堂などの造営は見えません。
現在、東大寺大仏殿に行きますと、大仏さんは一段高い場所に蓮華座を置いて座っておられます。
体骨柱はそのような須弥壇となる予定の基壇の上に立てられて、本尊が出来上がった後に御堂を建てる計画だったのでしょう。
もしかしたら、この礎石配置の金堂から北の部分、講堂の辺りに須弥壇を置き、更に周辺の僧房も含む広い平坦地全体を本尊が安置される金堂にと考えていたのかもしれません。

僧房跡のパノラマと申せども、それはあくまでも東大寺で見るような、未曾有の盧舎那仏を建立しようとした場合です。
それでもこの史跡の寺跡が乗っている丘を全体に活用すれば、東大寺に匹敵する大きさの寺院を造る事は可能なのだそうです。
しかしそれも、相次ぐ天災、人災によって造仏造寺を中断せざるを得なくなり、天皇は天平十七年に平城の都に戻ってきます。
この後に寺地は再整備をされ、現在見るような伽藍配置の国分寺もしくは、それに匹敵するような寺院が造営されたのかもしれません。

と、まぁ、私はここを純然たる『甲賀寺』だとは思っていない訳なんですわ。
甲賀寺の後に造られた『近江国分寺』で良いのではないのでしょうか。
国分寺か否かは別にしても、やっぱり大方の意見でも、聖武天皇の甲賀寺を再利用した寺と考えているのだと思うのですが(@_@;)
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