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東院地区は『続日本紀』によると『東宮』『東院』『楊梅宮』と呼ばれた施設があったと考えられています。
そして今までの調査によると、六期間にわたっての建て替えが行われていた事が分かっています。
そのような訳で、ここで出て来る遺構はひたすらに切り合った柱穴となります。
毎度思うのですが、切り合いや穴の大きさや深さを比較して、どれがどれと対応し、時期の順はどうなっているのかを調べるだけで目が回ってきます……(@_@;)
この何年かで継続的に調査をして判明したそうですが、この辺りはまだ東院地区の中心部からは少し外れているとの事です。
この図でも分かるように、中心部は現在の『宇奈多理神社』の境内にかかっているようです。
今回の調査区で着目されたのは第6期の遺構で、南側で直角に折れ曲がる二条の柱列です。
第6期は光仁天皇の楊梅宮が作られた時期で、その中心部の回廊の北西端を検出したと考えられています。
単式回廊のようですが、幅は6メートルを測り、以前の調査で南側に更に伸びて54mに達する事が分かっています。
最初に幅の広い浅い溝を掘って区画をつくり、その内側に低く盛り土をして、周囲を平瓦で囲うような形を取っています。
今までに知られている瓦積み基壇とは構造も違い、低い上に基壇上に柱の跡も無いようなので、実のところ建物が建っていたかも不明です。
第3期は天平勝宝年間、孝謙天皇の頃と考えられています。
今回の調査区では、この時期の遺構はかなり希薄で、この遺構の性格は分からないようです。
この地区の北側と東側はまだ調査されていないので、来年度以降も東院地区の調査は継続するそうです。
東院地区でもっとも有名な施設は、もっとも南端にある、復元されている庭園ですが、ここの池に通じる水の流れなども分かっていないそうで、これからも少しずつ色々な事が判明する事を個人的にも期待している次第です。
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さてこちらは既に一週間前の三月十六日の事、正倉院の整備工事の一般公開に行って来ました。
第二回には行っていないのですが、今回で何が変わったかと申しますと、内部は明治時代に置かれたガラス入りのケースが完全に取り払われていた事です。
木材の色が新しいので、良く分かるかと思います。
ちなみに手前の柱の、少し古い色の添え木は大正時代の物だそうです。
1/10の模型が展示されていたので、そちらと見比べて感心しておりました。
やはり瓦を外し補強も済ませたためか、第1回に見た時のように軒のラインの湾曲は解消しているように見えます。
この画像の物は天平時代の丸瓦です。
平瓦にもこの時代の物が残っていて、四枚程度を一気に作る桶巻き作りの物と、一枚ずつ型に押し付けてる来る物とが見られるそうです。
軒丸瓦も軒平瓦も一番古くて鎌倉時代なので、創建期の天平時代の物は残っていません。
どの瓦でも一番多いのは、やはり大正時代のようです。
このデザイン、軒丸は良いのですが、軒平は何となく違う時期の瓦のような……
今回は奈良時代の東大寺式の軒丸、軒平瓦を参考にして補足するそうです。
神職らが神殿に神饌を奉った後は、勅使らが天皇陛下より預かられた『御幣物』を奉ります。
勅使が林檎の庭の座に着き、その前に白木の机を二つ並べ、それぞれに二つずつの御幣物の入った箱を置いて行きます。
そして進み出た宮司らがそれぞれを神前に運びます。
その間に、空になった御幣物を運んで来た櫃が回廊の外に運び出されます。
確かここで御祭文を奏上するのだと思うのですが……(゜_゜>)
その御祭文を宮司が受け取って、再び神前に運びます。
勅使らが直会殿の方に入ってしまうと、左右の馬寮の官人が回廊から出て来て、外に繋がれていた二頭の白い馬も『牽廻』のスタンバイをします。
この間、回廊内では招待者代表が玉串奉納か何かをしているようなのですが、そっちはほぼ見ていませんでしたσ(^◇^;)
そして楽の音が聞こえてきますと、程なく楽人らが現れ、続いて『和舞(やまとまい)』の舞人が登場し、まずは神主舞の前歌、更には諸司舞が二曲舞われます。
この時、勅使らは直会殿で『直会の儀』が行われているのだと思うのですが……何せそちらはまったく見えないもので(^_^;)
御勅使もこちらから退出されると、たいそう絵になるのですが(~_~)
この朱色の束帯の方は外記だと思います。
何年か拝見していますと、何となく神事の次第は分かってくるのですが、相変わらずの不勉強で、それぞれの意味するところや正確な流れが分かりません。
そのような訳で大した報告も出来まま、今年も無事に御祭に参加したつもりになって帰って参りました。
この13日、午前中はこれらの画像のように晴れていたのですが、午後からは徐々に曇り始め、13時過ぎには雨がポツリポツリとして来まして、夕方からは本降りとなりました。
夜には東大寺の修二会のお松明を見に行ったのですが、その時には暴風雨……なかなかに変化のある日でした。
3月13日、夜には荒天となったこの日ですが、午前中は大変良い天気で、風もなく暖かい勅使参向となりました。
今年の御勅使は堤公長 宮内庁掌典職です。
掌典職は厳密に言うと宮内庁職員ではなく、宮中の祭祀を専門に担当する、別組織の職員になるのだそうです。
定員は12人、全員が神職の資格を有しているのだとか。
ここでは、権宮司の奉仕で勅使と辨に御身を清めて頂き、権宮司が祓の祝詞を読むこの時点では、招待された方以外は二の鳥居の内には入れませんので、イマイチ何をしているのやら見渡せません(-_-;)
祓戸を出た一行は更に参道を進み、着到殿(ちゃくとうでん)に入られて『着到の儀』を行います。
これこそ鳥居の手前ではまったく様子が分かりませんσ(^◇^;)
着到殿は御本殿回廊の手前にある吹き抜けの建物ですが、正式に使用されるのは『春日祭』のこの時だけです。
これは、藤原氏の子孫の方とそれ以外の方では、回廊内に入る門が違うためだそうで、前者は剣先道を通って慶賀門(けいがもん・西回廊の一番南側にある門)より入り、後者は正面の南門から入ります。
今年の勅使は再び二の鳥居の方に向かって来られ、剣先道から入って行かれたので、藤原氏の出身だったようです。
ちなみに昨年の勅使も同様でした。
この後、春日の四座の神殿に神饌を奉るのですが、神饌は殆ど加工していない木の枝で作られた御棚の上に置かれ、かなり安定が悪いそうなのでので、二人がかりで御棚を掲げて石段を登るのがとても難しいと聞いています。
第一の御棚は勅使と辨が第一殿の前に、第二の御棚以降は宮司を初めとした神職の方々が運びます。
ここから暫らくは、本殿前での御奉仕となるので、回廊内の招待者にも見る事が出来ないようです。
そういう訳で、ひとまずは続く……(^_^;)
高市郡高取町といえば、今も見事な石垣を残す『高取城』や『土佐街道』沿いの町並みといった江戸時代の史跡のみならず、日本書紀や続日本紀に見えるよう、古代には東漢(やまとのあや)氏の本拠地としても知られています。
今までにも朝鮮半島の影響を多分に受けたオンドル式の床暖房を施した大壁建物の跡や、渡来系氏族の墓所と考えられる数々の古墳が見つかっています。
大壁建物(5~6世紀)は『薩摩遺跡』からも見つかっていますが、この土師器群はそれより古い時代の3世紀後半の建物や井戸から見つかったものだそうです。
ここからは、最近ニュースでも取り上げられた鏡を模した小さな土製品も見つかっています。
この前方後円墳は墳丘や外堤の残りも良く、近鉄の市尾駅からも近くて綺麗に整備もされているので、見学する価値が充分にあります。
6世紀の古墳としては結構大型で、石室も大きく、玄室の高さは5.9メートルを誇るそうで、この辺りに勢力を構えていた巨勢氏の首長が葬られたと推測されています。
ここ以外にも高取町には、石舞台古墳にも匹敵するほどの大きな石室を持つ古墳が幾つか存在しています。
『与楽鑵子塚古墳』や『与楽カンジョ古墳』は、東漢氏の墓所と思われます。
丘陵部の尾根筋に多く作られている古墳の大部分は小規模の円墳で、この大刀の出土した『藤井イノヲク16号墳』もその一つです。
ここは石や粘土で棺を納める郭を作らない、いわゆる木棺直葬墓ですが、棺を置く台にするために墓壙に六つの石を並べています。
大刀のほかにも鉄鏃や玉類が出土しているので、小さな割には有力な人の墓ではないかと考えられます。
こちらも木直墓で墳丘も小規模ですが、埋葬品のクオリティは結構高いようで、二面の鏡、鉄鏃、大刀、刀子などの鉄製品、玉類としっかり三種が揃っています。
このように高取町は、800基にも及ぶ古墳の存在が知られています。
この後も、興味深い発見があるのではと注目に値する地域といっても過言ではないと思われます。
ところで今回の展示に際し、昨日と今日、こちらの鏡のレプリカを作ってみようというイベントも行われました。
石膏で模りをするのかと思いきや、ビスマスと錫の合金を耐熱性のゴムの型に流し込むという、一寸本格的な手法で、出来上がりもかなり見事な物となりました。
ビスマスにしても錫にしても、ハンダの素材ですので、融点は200度程度でしょうか、電熱器に行平鍋で溶かしていました。
そして失敗しても大丈夫、もう一度溶かしてやり直しが利くという優れものです。
ただし、モノがハンダだけに柔らかいし熱に弱い……金具をロウ付けしようかと考えたのですが、こりゃ、本体の方が解けますわσ(^◇^;)
鈕に穴を開けるのは難しそうだし、さて、どのように致しましょうか、思案のしどころです。
しかし史跡指定されているのは、石室と羨道部に当たる辺りだけで、つい最近まで古墳の範囲どころか墳丘の形すら不明でした。
橿原市教育委員会が周辺の調査を始めたのは、平成21年からだそうで、これまでの調査によって東西長が約30mの二段に構築された方墳だという事が分かりました。
古墳の南側は、後世の地滑りや開発で破壊されていて残りは悪いようですが、東西と北側のラインでは基底部に並んだ石や、その外側に広がる石敷きが確認されています。
今年度は墳丘の東の外側と、北東角と考えられる位置に調査区を儲け、正確な墳丘の大きさを確認する調査となっていました。
菖蒲池古墳もこの時代の横穴式石室の常、南向きの斜面に南を向いて開口しています。
斜面を切り出す形で墳丘の東西のラインを決めて掘割を作ります。
この掘割が、開口部の南側では4m近い幅を持って石も敷かれていたそうですが、一番奥(北東)の角ではそこの幅が30センチ程度にまで狭まっています。
しかしこの部分はとても保存状況が良く、綺麗に直角に据えられた基底石が残っているのが確認されています。
断面写真の右側が墳丘なのですが、斜面がカラフルなモザイク上に見えるのは、色の違う土をわざわざ貼り付けているためだそうです。
掘割も後の時代に人為的に埋められているようで、断面を確認してみると埋土の単位までが分かる箇所もあって、かなり奇妙の様相を呈しています。
こちらの画像が東側の調査区で、調査員の背後に見えるのが、新聞などでも報道されていた新たに見つかった石敷きです。
本来ならば外提で古墳の範囲は終了という形になるのですが、その外に石を敷いたテラスを造っているので、更に外側も意識している事になります。
ところで調査員の足元には、掘方が1m近い柱穴が並んでいます。
これは石敷きや掘割が埋められた跡に掘られていて、東西に三つ、南北に三つがT字状に並んでいるので、掘立柱の建物が建てられていたと考えられます。
同じ建物のものと思われる柱穴は掘割の脇でも検出されていて、東西四間以上はあり、柱の芯々間は3mもあるので、相当な規模の建物のようですが、伴う土器などの出土がないようなので具体的な事は不明です。
今年度の調査は、あと二週間程度で終了との事ですが、行く行くは墳丘周辺も市有地(県かな)として公園整備する予定だそうです。
『忍者ブログ』でエディターを変更してくださいと再三言っているので、何度目かのトライアルをしてみたのですが、改善したとされている項目すらも直っていないので、またもあきらめてHTMLに戻しました。
何せ、文字サイズすら変えられないって、一寸、エディターとして致命的でないの(・_・;)
藤野清麻呂が藤原式家の連中と面つき合わせて、白壁中納言家の噂話をしているシーンを書いていたのですが、ここでふと妙なというか、今更な事を考え始めました。
考え始めたのは私であって、清麻呂君ではありません、念のため?( ・◇・)?(・◇・ )?
何を考え始めたかと申しますと、白壁王の三男(次男という向きもあられましょうが、うちでは三男です)の出家の理由です。
三男(次男か)って誰?早良王という人です。
史料によれば、直接名前は出て来ませんが、この人は十一歳で出家したと考えられます。
この時、父親の白壁王は既に従三位、非参議ながら皇族官人としてはかなりの上臈という位置にいます。
一般的認識において何もしていない皇族に対して、三位を与えるほど、当時の官界は形骸化してはいないでしょうから、この階位には何かの意味があると考えてもおかしくはないと、私は常々思っております。
時は天平宝字四年ですから大炊天皇が高御座に就き、皇家の主流は舎人親王家に変わるかと思われていたはずです。
元年の政変で北宮家(高市皇子家)も新田部親王家も排除され、長親王家の上臈らは、それ以前に文室朝臣を賜姓されて皇統からリタイアしています。
況してや壬申の乱から既に九十年が経過している頃、ここまで皇嗣問題が逼迫していて、近江系(天智天皇系)を蚊帳の外に押しやっている余裕というか理由が、いつまで続くものなのでしょう。
志貴親王家は舎人親王家と並ぶ、皇嗣候補と見られていた可能性を果たして否定できるものなのか、常々疑問に思っています。
こういう状況で、ここからは私の勝手な設定下における戯言?(゚_。)?(。_゚)?
長男は三年前に出家して、今は唐律招提の台所になくてはならない人となり、次男は内舎人として任官し、時の為政者に目を付けられて娘婿になっているという状況。
次男と同母の三男、異母の四男はまだ十代前半とはいえ、藤原南家や北家を始めとした諸氏らから、どういう対象として見られていたのか……
更に言えば、この家の正妃は先帝の内親王で、七つになる女王がいる。
成人した図太い二人の息子は大丈夫と思えても、これら年若い諸王らは太政官入りを目前とする父親には、かなり気がかりな存在だったのかも……
まだ五男坊は生まれていないので、皇統に関わって来るのは内親王腹の娘という事になるか。
十一歳の三男と七歳の次女、この二人の何に父親は悩んでいたのだろうか
(゜_゜>)、どうもすっきりとまとまらない。
ともあれ、この先、うちの清麻呂君が巻き込まれるのは、三男坊の事ではなくて次男と五男の事。
もしかして、この人につき物(?)の猪とは、実は白壁王家の次男の事かn(ー_ー?)ン?
あの御仁は偶蹄目というよりも、夜行性肉食系のような気もするんだが(・・?
何せ、文字サイズすら変えられないって、一寸、エディターとして致命的でないの(・_・;)
考え始めたのは私であって、清麻呂君ではありません、念のため?( ・◇・)?(・◇・ )?
何を考え始めたかと申しますと、白壁王の三男(次男という向きもあられましょうが、うちでは三男です)の出家の理由です。
三男(次男か)って誰?早良王という人です。
史料によれば、直接名前は出て来ませんが、この人は十一歳で出家したと考えられます。
この時、父親の白壁王は既に従三位、非参議ながら皇族官人としてはかなりの上臈という位置にいます。
一般的認識において何もしていない皇族に対して、三位を与えるほど、当時の官界は形骸化してはいないでしょうから、この階位には何かの意味があると考えてもおかしくはないと、私は常々思っております。
時は天平宝字四年ですから大炊天皇が高御座に就き、皇家の主流は舎人親王家に変わるかと思われていたはずです。
元年の政変で北宮家(高市皇子家)も新田部親王家も排除され、長親王家の上臈らは、それ以前に文室朝臣を賜姓されて皇統からリタイアしています。
況してや壬申の乱から既に九十年が経過している頃、ここまで皇嗣問題が逼迫していて、近江系(天智天皇系)を蚊帳の外に押しやっている余裕というか理由が、いつまで続くものなのでしょう。
志貴親王家は舎人親王家と並ぶ、皇嗣候補と見られていた可能性を果たして否定できるものなのか、常々疑問に思っています。
こういう状況で、ここからは私の勝手な設定下における戯言?(゚_。)?(。_゚)?
長男は三年前に出家して、今は唐律招提の台所になくてはならない人となり、次男は内舎人として任官し、時の為政者に目を付けられて娘婿になっているという状況。
次男と同母の三男、異母の四男はまだ十代前半とはいえ、藤原南家や北家を始めとした諸氏らから、どういう対象として見られていたのか……
更に言えば、この家の正妃は先帝の内親王で、七つになる女王がいる。
成人した図太い二人の息子は大丈夫と思えても、これら年若い諸王らは太政官入りを目前とする父親には、かなり気がかりな存在だったのかも……
まだ五男坊は生まれていないので、皇統に関わって来るのは内親王腹の娘という事になるか。
十一歳の三男と七歳の次女、この二人の何に父親は悩んでいたのだろうか
(゜_゜>)、どうもすっきりとまとまらない。
ともあれ、この先、うちの清麻呂君が巻き込まれるのは、三男坊の事ではなくて次男と五男の事。
もしかして、この人につき物(?)の猪とは、実は白壁王家の次男の事かn(ー_ー?)ン?
あの御仁は偶蹄目というよりも、夜行性肉食系のような気もするんだが(・・?
ここ最近、明日香村教育委員会は現地では見学会に留め、後日に報告会の形で詳しい説明をしてくれるという念入りな方法で、調査結果を紹介してくれています。
今回も九日に中央公民館で調査報告会をするそうですが、私は生憎と用事がありまして遠出をしなければなりません(/_;)
さて、現場はこのように石ばかりです。
よく見ますと大きめの石を敷いた所と、ごく細かい砂利を敷き詰めた所に分かれています。
発掘場所は飛鳥寺の西門跡の西側40メートル地点、蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔の目の前にあります。
ところがこの穴の深さは0.4メートルと、大きさの割には浅いとの事です。
ここが饗宴の場に使われていたとしたら、穴の部分に何らか石造物などが置かれていたのではと、推測はあるようですが、今のところはこれという決定的な事を言える状況ではないようです。
その東側(画像では左側)の首塚の近くでは、半分以上が調査区の外にはなりますが、更に大きな3メートルはある穴が見つかりました。
こちらは深さにして1.7メートルはあるようですが、いつ掘られた物かの特定はできていないそうです。
いずれにしても今回は現地見学会で大まかな状況説明をして頂いただけなので、遺物展示などもしていない状況ですし、来週の報告会での発表を待った方が良いのかもしれません、と言っても私は行けないのですがσ(^◇^;)
調査はこの後も周辺で続くという事なので、更に大きな発見がある事を期待しましょう。
どこの何方のページに行っても『Twitter is Over Capacity』なんだそうで、そりゃ大変ですなと私は他人事です。
このところ、一日おきにどうでも良い事しかぼやいてないし。
ところで、明日が映画の日だからレイトショーにでも行こうと思っていたのですが、天気が悪くて夜には確実に雨というので、唐突に本日に行って参りました。
何せ見に行こうとしていた作品が、明日までの上映だったので、選択肢がほぼないという状況です。
どこに何を見に行ったかと申しますと、西大和ワーナー・マイカル・シネマに『ホビット 思いがけない冒険』を見に行って参りました。
御主、昨日に見たんじゃないかと、思う向きもおられましょうが(いないか(-_-;))、昨日は字幕で、本日(既に昨日)が吹替えの3Dですね……我ながら、結構、阿呆です。
そして帰って来たのが、日付の変わる少し前……シマコもナタも怒ってコタツから出てきてくれやしません、ごはんを食べた後はσ(^◇^;)
やっぱりこの類のエンターテイメント作品は、映画館の大きなスクリーンで見るに限りますね。
しかし、人間の王様もドワーフの王様も、誰よりも強くて人望もあって男前で苦労も人一倍なのですが、性格は全然違うんですねぇ……どういう感想だ?それにしても、ガンダルフ、最強(・_・;)強すぎる(ーー;)
そして原作を読んだのが高校生の頃なので、ストーリーを全然覚えておりませなんだ。
昨日から気になっているんですが、13人のドワーフって、元のネタはどこにあるんだ?
『13th Warrior』じゃないですよね、こっちの元ネタは『ベオウルフ』だと聞いているけど。
大昔に読んだ本に、『古エッダ』のどこかに、13人のドワーフが名前までしっかり書かれて出て来ると書いてあったような気がするのですが、何とも記憶が曖昧、この辺、ここ何年も調べた事ないからなぁ。
まぁ、『LotR』自体がワーグナーの楽劇に同様、エッダやベオウルフ辺りからの着想が大きいのでしょうから、当たらずとも遠からじなのかなぁ?
シグルド伝説か?……やっぱりよく覚えてませんわ(*_*;
何せ場所が歩いて行ける距離なので、時間が許せば行かぬ手はないと、案外気軽に足を運んでしまいます。
その割には、他の行事は『昭和祭』と『新嘗祭』くらいしか行っておりませんが(^_^;)
あ、ちなみに『百々手式』読み方は“ももてしき”です。
自慢じゃありませんが、私は最初、読めませんでしたσ(^◇^;)
まあ、うちの事はどうでも良いのですが、いつもながらに武道の類は見惚れる要素が結構ありまして、気分の切り替えになるので好きです。
要するに私自身が大昔に、矢鱈と注視されまくったようなところですね……鞘尻をいちいち上げるな!とか、左手の引きが遅い!!とか、お前の相手は何十メートル先にいるんだ?!ってな類です(--〆)
今年は27日(日曜日)に行われました。
朝方は冷え込んだのですが、前日に比べれば風邪も弱く、日差しがあったので割合に暖かい日でした。
御参りに来た人たちも、鎌倉時代よりの伝統を引き継ぐ、勇壮でいて雅やかさも醸しだす古儀に足を止めて見入っている様子でした。
今年は良い天気に恵まれましたね~と、ホクホクとして帰ってきたのですが、午後からは雲が広がり気温も下がって、日が傾く頃には雪も舞い始め、夜半には積雪……奉納者の誰かに晴れ男(女)がおられたのやら??