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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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これでもかと切り合う三つの柱穴珍しく柱根が検出ここ何年かの平城宮跡の調査は、東院地区か朱雀門の前でしたが、今回も例に漏れず東院地区です。

東院地区は『続日本紀』によると『東宮』『東院』『楊梅宮』と呼ばれた施設があったと考えられています。
そして今までの調査によると、六期間にわたっての建て替えが行われていた事が分かっています。
そのような訳で、ここで出て来る遺構はひたすらに切り合った柱穴となります。
毎度思うのですが、切り合いや穴の大きさや深さを比較して、どれがどれと対応し、時期の順はどうなっているのかを調べるだけで目が回ってきます……(@_@;)

時代別の建物模式図6期の回廊状遺構の説明中ここに上げましたカラフルな図は、各時期を色分けして主な建物を図示した物です。
この何年かで継続的に調査をして判明したそうですが、この辺りはまだ東院地区の中心部からは少し外れているとの事です。
この図でも分かるように、中心部は現在の『宇奈多理神社』の境内にかかっているようです。

今回の調査区で着目されたのは第6期の遺構で、南側で直角に折れ曲がる二条の柱列です。
第6期は光仁天皇の楊梅宮が作られた時期で、その中心部の回廊の北西端を検出したと考えられています。
単式回廊のようですが、幅は6メートルを測り、以前の調査で南側に更に伸びて54mに達する事が分かっています。

3期の基壇状遺構基壇状遺構の模式図その外には例を見ない遺構として、第3期の『基壇状遺構』があります。
最初に幅の広い浅い溝を掘って区画をつくり、その内側に低く盛り土をして、周囲を平瓦で囲うような形を取っています。
今までに知られている瓦積み基壇とは構造も違い、低い上に基壇上に柱の跡も無いようなので、実のところ建物が建っていたかも不明です。
第3期は天平勝宝年間、孝謙天皇の頃と考えられています。
今回の調査区では、この時期の遺構はかなり希薄で、この遺構の性格は分からないようです。

この地区の北側と東側はまだ調査されていないので、来年度以降も東院地区の調査は継続するそうです。
東院地区でもっとも有名な施設は、もっとも南端にある、復元されている庭園ですが、ここの池に通じる水の流れなども分かっていないそうで、これからも少しずつ色々な事が判明する事を個人的にも期待している次第です。
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二階部分では正倉内部を見る事が出来ます。このところ、ホントに更新も何もしておりませんね……書くネタが無い訳ではなく、時間の使い方の要領がとても悪い事が原因だと思われます(~_~;)

さてこちらは既に一週間前の三月十六日の事、正倉院の整備工事の一般公開に行って来ました。
第二回には行っていないのですが、今回で何が変わったかと申しますと、内部は明治時代に置かれたガラス入りのケースが完全に取り払われていた事です。

P3163322.jpgそして更には、補強のために両側から添え柱をしている様子が見て取れます。
木材の色が新しいので、良く分かるかと思います。
ちなみに手前の柱の、少し古い色の添え木は大正時代の物だそうです。
屋根の小屋組みの補強部分柱以上に補強の必要なのは、下がり始めていた屋根の軒で、過去に補強のために入れた小屋組みに鋼材を渡して、更に強度を強めようという工事が行われたそうです。

瓦をすっかり下ろした屋根さて、三階部分に上ってみますと、屋根瓦はすっかり取り払われ、更に一部の土居葺(どいぶき)、野地板、裏板などを外して、垂木の間から、屋根のトラスなどが見えるようになっていたのですが、これが案外見えにくくて……(^_^;)
1/10の模型が展示されていたので、そちらと見比べて感心しておりました。
やはり瓦を外し補強も済ませたためか、第1回に見た時のように軒のラインの湾曲は解消しているように見えます。

創建期と思われる丸瓦この後に瓦を葺いて行くようですが、以前に見たように瓦ですら暦年風化の激しい状況で、かなりの枚数を新たな物に変える事になるようです。
この画像の物は天平時代の丸瓦です。
平瓦にもこの時代の物が残っていて、四枚程度を一気に作る桶巻き作りの物と、一枚ずつ型に押し付けてる来る物とが見られるそうです。
軒丸瓦も軒平瓦も一番古くて鎌倉時代なので、創建期の天平時代の物は残っていません。
どの瓦でも一番多いのは、やはり大正時代のようです。
このデザイン、軒丸は良いのですが、軒平は何となく違う時期の瓦のような……
今回は奈良時代の東大寺式の軒丸、軒平瓦を参考にして補足するそうです。
御幣物の奉奠と空の櫃昨夜は異様なほど眠かったので、早々に沈没してしまいましたが、取り敢えずは一昨日の続きを。

神職らが神殿に神饌を奉った後は、勅使らが天皇陛下より預かられた『御幣物』を奉ります。
勅使が林檎の庭の座に着き、その前に白木の机を二つ並べ、それぞれに二つずつの御幣物の入った箱を置いて行きます。
そして進み出た宮司らがそれぞれを神前に運びます。
その間に、空になった御幣物を運んで来た櫃が回廊の外に運び出されます。

御馬牽廻を待つ武官達この後に勅使は幣殿に入ってしまうので、まったく様子は分かりません。
確かここで御祭文を奏上するのだと思うのですが……(゜_゜>)
その御祭文を宮司が受け取って、再び神前に運びます。
勅使らが直会殿の方に入ってしまうと、左右の馬寮の官人が回廊から出て来て、外に繋がれていた二頭の白い馬も『牽廻』のスタンバイをします。
この間、回廊内では招待者代表が玉串奉納か何かをしているようなのですが、そっちはほぼ見ていませんでしたσ(^◇^;)

和舞馬寮官人らは馬を引いて回廊に入り、神前を三度巡って外に出てきます。

そして楽の音が聞こえてきますと、程なく楽人らが現れ、続いて『和舞(やまとまい)』の舞人が登場し、まずは神主舞の前歌、更には諸司舞が二曲舞われます。
この時、勅使らは直会殿で『直会の儀』が行われているのだと思うのですが……何せそちらはまったく見えないもので(^_^;)

本殿回廊を出る人々この後は一同の退場となるのですが、今年の御勅使も昨年に同様、慶賀門から退出し、藤の鳥居をくぐって剣先道からお帰りになったようです。
御勅使もこちらから退出されると、たいそう絵になるのですが(~_~)
この朱色の束帯の方は外記だと思います。

何年か拝見していますと、何となく神事の次第は分かってくるのですが、相変わらずの不勉強で、それぞれの意味するところや正確な流れが分かりません。
そのような訳で大した報告も出来まま、今年も無事に御祭に参加したつもりになって帰って参りました。

この13日、午前中はこれらの画像のように晴れていたのですが、午後からは徐々に曇り始め、13時過ぎには雨がポツリポツリとして来まして、夕方からは本降りとなりました。
夜には東大寺の修二会のお松明を見に行ったのですが、その時には暴風雨……なかなかに変化のある日でした。
御勅使参向今年も春日大社の最も重要なお祭である『春日祭』に行って参りました。

3月13日、夜には荒天となったこの日ですが、午前中は大変良い天気で、風もなく暖かい勅使参向となりました。
今年の御勅使堤公長 宮内庁掌典職です。
掌典職は厳密に言うと宮内庁職員ではなく、宮中の祭祀を専門に担当する、別組織の職員になるのだそうです。
定員は12人、全員が神職の資格を有しているのだとか。

祓戸神社の前の勅使と辧二の鳥居をくぐった勅使一行は祓戸神社(はらいどじんじゃ)の前の座に着き、『祓戸の儀』が行われます。
ここでは、権宮司の奉仕で勅使
御身を清めて頂き、権宮司が祓の祝詞を読むこの時点では、招待された方以外は二の鳥居の内には入れませんので、イマイチ何をしているのやら見渡せません(-_-;)

祓戸を出た一行は更に参道を進み、着到殿(ちゃくとうでん)に入られて『着到の儀』を行います。
これこそ鳥居の手前ではまったく様子が分かりませんσ(^◇^;)
着到殿は御本殿回廊の手前にある吹き抜けの建物ですが、正式に使用されるのは『春日祭』のこの時だけです。

慶賀門に向かう勅使着到殿を出た後、今年は行列が二手に分かれました。
これは、藤原氏の子孫の方とそれ以外の方では、回廊内に入る門が違うためだそうで、前者は剣先道を通って慶賀門(けいがもん・西回廊の一番南側にある門)より入り、後者は正面の南門から入ります。
今年の勅使は再び二の鳥居の方に向かって来られ、剣先道から入って行かれたので、藤原氏の出身だったようです。
ちなみに昨年の勅使も同様でした。

御棚神饌を御本殿に奉る勅使と辨御祭の参勤者らが本殿に入られると、ようやく見学の人たちも御本殿近くまで進む事が出来ますが、回廊の中には入れないため南門から見せて頂く形になります。

この後、春日の四座の神殿神饌を奉るのですが、神饌は殆ど加工していない木の枝で作られた御棚の上に置かれ、かなり安定が悪いそうなのでので、二人がかりで御棚を掲げて石段を登るのがとても難しいと聞いています。
第一の御棚は勅使と辨が第一殿の前に、第二の御棚以降は宮司を初めとした神職の方々が運びます。
ここから暫らくは、本殿前での御奉仕となるので、回廊内の招待者にも見る事が出来ないようです。

そういう訳で、ひとまずは続く……(^_^;)
 
薩摩遺跡出土の土器群昨日から17日まで、高取町の歴史研修センターで行われている展示です。
高市郡高取町といえば、今も見事な石垣を残す『高取城』や『土佐街道』沿いの町並みといった江戸時代の史跡のみならず、日本書紀や続日本紀に見えるよう、古代には東漢(やまとのあや)の本拠地としても知られています。
今までにも朝鮮半島の影響を多分に受けたオンドル式の床暖房を施した大壁建物の跡や、渡来系氏族の墓所と考えられる数々の古墳が見つかっています。

大壁建物(5~6世紀)は『薩摩遺跡』からも見つかっていますが、この土師器群はそれより古い時代の3世紀後半の建物や井戸から見つかったものだそうです。
ここからは、最近ニュースでも取り上げられた鏡を模した小さな土製品も見つかっています。

市尾墓山古墳の鳥形木製品市尾墓山古墳出土の石見型木製品こちらは国の史跡にも指定されている『市尾墓山古墳』の周濠から発見された木製の埴輪(?)です。
この前方後円墳は墳丘や外堤の残りも良く、近鉄の市尾駅からも近くて綺麗に整備もされているので、見学する価値が充分にあります。
6世紀の古墳としては結構大型で、石室も大きく、玄室の高さは5.9メートルを誇るそうで、この辺りに勢力を構えていた巨勢氏の首長が葬られたと推測されています。
ここ以外にも高取町には、石舞台古墳にも匹敵するほどの大きな石室を持つ古墳が幾つか存在しています。
与楽鑵子塚古墳』や『与楽カンジョ古墳』は、東漢氏の墓所と思われます。

藤井イノヲク16号墳出土の円頭大刀と複製品同じ後期古墳でも群集墳になりますと、かなり様相は違います。
丘陵部の尾根筋に多く作られている古墳の大部分は小規模の円墳で、この大刀の出土した『藤井イノヲク16号墳』もその一つです。
ここは石や粘土で棺を納める郭を作らない、いわゆる木棺直葬墓ですが、棺を置く台にするために墓壙に六つの石を並べています。
大刀のほかにも鉄鏃や玉類が出土しているので、小さな割には有力な人の墓ではないかと考えられます。

向山1号墳出土の方格規矩鏡尾根部に造られた群衆墳中には古墳前期にさかのぼるものも散見されるようで、この鏡を出土した『向山1号墳』も四世紀末と考えられています。
こちらも木直墓で墳丘も小規模ですが、埋葬品のクオリティは結構高いようで、二面の鏡、鉄鏃、大刀、刀子などの鉄製品、玉類としっかり三種が揃っています。
このように高取町は、800基にも及ぶ古墳の存在が知られています。
この後も、興味深い発見があるのではと注目に値する地域といっても過言ではないと思われます。

ところで今回の展示に際し、昨日と今日、こちらの鏡のレプリカを作ってみようというイベントも行われました。
1/2サイズのレプリカ鏡実物は10cm程度の直径があるのですが、造るサイズは1/2で、小学生でも出来る程度のレベルだと聞いたので、今日の午前中に行って参りました。

石膏で模りをするのかと思いきや、ビスマスと錫の合金を耐熱性のゴムの型に流し込むという、一寸本格的な手法で、出来上がりもかなり見事な物となりました。
ビスマスにしても錫にしても、ハンダの素材ですので、融点は200度程度でしょうか、電熱器に行平鍋で溶かしていました。
そして失敗しても大丈夫、もう一度溶かしてやり直しが利くという優れものです。
ただし、モノがハンダだけに柔らかいし熱に弱い……金具をロウ付けしようかと考えたのですが、こりゃ、本体の方が解けますわσ(^◇^;)
鈕に穴を開けるのは難しそうだし、さて、どのように致しましょうか、思案のしどころです。
二基並んだ家型石棺橿原市菖蒲町の『菖蒲池古墳』といえば、史跡指定こそは昭和の始めに行われ、開口した横穴式石室に二基の家型石棺が並んでいる主体部で有名です。
しかし史跡指定されているのは、石室と羨道部に当たる辺りだけで、つい最近まで古墳の範囲どころか墳丘の形すら不明でした。

橿原市教育委員会が周辺の調査を始めたのは、平成21年からだそうで、これまでの調査によって東西長が約30mの二段に構築された方墳だという事が分かりました。
古墳の南側は、後世の地滑りや開発で破壊されていて残りは悪いようですが、東西と北側のラインでは基底部に並んだ石や、その外側に広がる石敷きが確認されています。

今年度は墳丘の東の外側と、北東角と考えられる位置に調査区を儲け、正確な墳丘の大きさを確認する調査となっていました。

北東角の検出と掘割掘割の埋土の様子

菖蒲池古墳もこの時代の横穴式石室の常、南向きの斜面に南を向いて開口しています。
斜面を切り出す形で墳丘の東西のラインを決めて掘割を作ります。
この掘割が、開口部の南側では4m近い幅を持って石も敷かれていたそうですが、一番奥(北東)の角ではそこの幅が30センチ程度にまで狭まっています。
しかしこの部分はとても保存状況が良く、綺麗に直角に据えられた基底石が残っているのが確認されています。

断面写真の右側が墳丘なのですが、斜面がカラフルなモザイク上に見えるのは、色の違う土をわざわざ貼り付けているためだそうです。
掘割も後の時代に人為的に埋められているようで、断面を確認してみると埋土の単位までが分かる箇所もあって、かなり奇妙の様相を呈しています。

外堤上の柱穴跡と石敷き一方、墳丘の東側では、掘割から出た土を盛り上げてつき固め(版築)て堤状の平坦部を造っています。
こちらの画像が東側の調査区で、調査員の背後に見えるのが、新聞などでも報道されていた新たに見つかった石敷きです。
本来ならば外提で古墳の範囲は終了という形になるのですが、その外に石を敷いたテラスを造っているので、更に外側も意識している事になります。

ところで調査員の足元には、掘方が1m近い柱穴が並んでいます。
これは石敷きや掘割が埋められた跡に掘られていて、東西に三つ、南北に三つがT字状に並んでいるので、掘立柱の建物が建てられていたと考えられます。
同じ建物のものと思われる柱穴は掘割の脇でも検出されていて、東西四間以上はあり、柱の芯々間は3mもあるので、相当な規模の建物のようですが、伴う土器などの出土がないようなので具体的な事は不明です。

今年度の調査は、あと二週間程度で終了との事ですが、行く行くは墳丘周辺も市有地(県かな)として公園整備する予定だそうです。
 
『忍者ブログ』でエディターを変更してくださいと再三言っているので、何度目かのトライアルをしてみたのですが、改善したとされている項目すらも直っていないので、またもあきらめてHTMLに戻しました。
何せ、文字サイズすら変えられないって、一寸、エディターとして致命的でないの(・_・;)

7c1ddd14.jpeg藤野清麻呂が藤原式家の連中と面つき合わせて、白壁中納言家の噂話をしているシーンを書いていたのですが、ここでふと妙なというか、今更な事を考え始めました。
考え始めたのは私であって、清麻呂君ではありません、念のため?( ・◇・)?(・◇・ )?

何を考え始めたかと申しますと、白壁王の三男(次男という向きもあられましょうが、うちでは三男です)の出家の理由です。
三男(次男か)って誰?早良王という人です。
史料によれば、直接名前は出て来ませんが、この人は十一歳で出家したと考えられます。
この時、父親の白壁王は既に従三位、非参議ながら皇族官人としてはかなりの上臈という位置にいます。
一般的認識において何もしていない皇族に対して、三位を与えるほど、当時の官界は形骸化してはいないでしょうから、この階位には何かの意味があると考えてもおかしくはないと、私は常々思っております。

時は天平宝字四年ですから大炊天皇が高御座に就き、皇家の主流は舎人親王家に変わるかと思われていたはずです。
元年の政変で北宮家(高市皇子家)も新田部親王家も排除され、長親王家の上臈らは、それ以前に文室朝臣を賜姓されて皇統からリタイアしています。
況してや壬申の乱から既に九十年が経過している頃、ここまで皇嗣問題が逼迫していて、近江系(天智天皇系)を蚊帳の外に押しやっている余裕というか理由が、いつまで続くものなのでしょう。
志貴親王家は舎人親王家と並ぶ、皇嗣候補と見られていた可能性を果たして否定できるものなのか、常々疑問に思っています。

こういう状況で、ここからは私の勝手な設定下における戯言?(゚_。)?(。_゚)?
長男は三年前に出家して、今は唐律招提の台所になくてはならない人となり、次男は内舎人として任官し、時の為政者に目を付けられて娘婿になっているという状況。
次男と同母の三男、異母の四男はまだ十代前半とはいえ、藤原南家や北家を始めとした諸氏らから、どういう対象として見られていたのか……
更に言えば、この家の正妃は先帝の内親王で、七つになる女王がいる。
成人した図太い二人の息子は大丈夫と思えても、これら年若い諸王らは太政官入りを目前とする父親には、かなり気がかりな存在だったのかも……
まだ五男坊は生まれていないので、皇統に関わって来るのは内親王腹の娘という事になるか。
十一歳の三男と七歳の次女、この二人の何に父親は悩んでいたのだろうか

(゜_゜>)、どうもすっきりとまとまらない。
ともあれ、この先、うちの清麻呂君が巻き込まれるのは、三男坊の事ではなくて次男と五男の事。
もしかして、この人につき物(?)の猪とは、実は白壁王家の次男の事かn(ー_ー?)ン?
あの御仁は偶蹄目というよりも、夜行性肉食系のような気もするんだが(・・?
石敷と砂利敷の部分に分かれます。ニュースでは『日本書紀』に書かれた“西の槻の樹の広場”ではないかとされる『飛鳥寺西方遺跡』の現地見学会に行って来ました。
ここ最近、明日香村教育委員会は現地では見学会に留め、後日に報告会の形で詳しい説明をしてくれるという念入りな方法で、調査結果を紹介してくれています。
今回も九日に中央公民館で調査報告会をするそうですが、私は生憎と用事がありまして遠出をしなければなりません(/_;)

さて、現場はこのように石ばかりです。
よく見ますと大きめの石を敷いた所と、ごく細かい砂利を敷き詰めた所に分かれています。
発掘場所は飛鳥寺西門跡の西側40メートル地点、蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔の目の前にあります。

石敷の部分に掘られた土壙調査区の北半分に広がっている大き目の石敷きの真ん中に、直径2メートル程度の石を取り除いた部分がありまして、そこには直径1.5メートルの穴が掘られていた事が分かりました。
ところがこの穴の深さは0.4メートルと、大きさの割には浅いとの事です。

ここが饗宴の場に使われていたとしたら、穴の部分に何らか石造物などが置かれていたのではと、推測はあるようですが、今のところはこれという決定的な事を言える状況ではないようです。

その東側(画像では左側)の首塚の近くでは、半分以上が調査区の外にはなりますが、更に大きな3メートルはある穴が見つかりました。
こちらは深さにして1.7メートルはあるようですが、いつ掘られた物かの特定はできていないそうです。

いずれにしても今回は現地見学会で大まかな状況説明をして頂いただけなので、遺物展示などもしていない状況ですし、来週の報告会での発表を待った方が良いのかもしれません、と言っても私は行けないのですがσ(^◇^;)
調査はこの後も周辺で続くという事なので、更に大きな発見がある事を期待しましょう。
 
何はなくとも、俺はナタキャパシティーがどうしたかって、オーバーらしいです、Twitterとやらの……
どこの何方のページに行っても『Twitter is Over Capacity』なんだそうで、そりゃ大変ですなと私は他人事です。
このところ、一日おきにどうでも良い事しかぼやいてないし。

ところで、明日が映画の日だからレイトショーにでも行こうと思っていたのですが、天気が悪くて夜には確実に雨というので、唐突に本日に行って参りました。
何せ見に行こうとしていた作品が、明日までの上映だったので、選択肢がほぼないという状況です。
どこに何を見に行ったかと申しますと、西大和ワーナー・マイカル・シネマに『ホビット 思いがけない冒険』を見に行って参りました。
御主、昨日に見たんじゃないかと、思う向きもおられましょうが(いないか(-_-;))、昨日は字幕で、本日(既に昨日)が吹替えの3Dですね……我ながら、結構、阿呆です。
そして帰って来たのが、日付の変わる少し前……シマコもナタも怒ってコタツから出てきてくれやしません、ごはんを食べた後はσ(^◇^;)

やっぱりこの類のエンターテイメント作品は、映画館の大きなスクリーンで見るに限りますね。
しかし、人間の王様もドワーフの王様も、誰よりも強くて人望もあって男前で苦労も人一倍なのですが、性格は全然違うんですねぇ……どういう感想だ?それにしても、ガンダルフ、最強(・_・;)強すぎる(ーー;)
そして原作を読んだのが高校生の頃なので、ストーリーを全然覚えておりませなんだ。

昨日から気になっているんですが、13人のドワーフって、元のネタはどこにあるんだ?
『13th Warrior』じゃないですよね、こっちの元ネタは『ベオウルフ』だと聞いているけど。
大昔に読んだ本に、『古エッダ』のどこかに、13人のドワーフが名前までしっかり書かれて出て来ると書いてあったような気がするのですが、何とも記憶が曖昧、この辺、ここ何年も調べた事ないからなぁ。
まぁ、『LotR』自体がワーグナーの楽劇に同様、エッダやベオウルフ辺りからの着想が大きいのでしょうから、当たらずとも遠からじなのかなぁ?
シグルド伝説か?……やっぱりよく覚えてませんわ(*_*;
 
蟇目の儀このところ、毎年見学に行く行事というのが、一部定例化しているような気が致しますが、こちら橿原神宮の『百々手式』もその一つなのでしょうか。
何せ場所が歩いて行ける距離なので、時間が許せば行かぬ手はないと、案外気軽に足を運んでしまいます。
その割には、他の行事は『昭和祭』と『新嘗祭』くらいしか行っておりませんが(^_^;)
あ、ちなみに『百々手式』読み方は“ももてしき”です。
自慢じゃありませんが、私は最初、読めませんでしたσ(^◇^;)

5fff80f5.jpeg弟は高校生の頃から弓道をやっているので、この方面の知識はあるはずですが、私は大昔に刀を振り回していた方なので、相変わらず不勉強のままで見学して喜んでいるだけです。
まあ、うちの事はどうでも良いのですが、いつもながらに武道の類は見惚れる要素が結構ありまして、気分の切り替えになるので好きです。

8301c189.jpegところがこれが居合道になりますと、なまじ中途半端な知識があるだけに、見なくても良いところが目に付いてしまいまして、無用なフラストレーションを溜めていけません。
要するに私自身が大昔に、矢鱈と注視されまくったようなところですね……鞘尻をいちいち上げるな!とか、左手の引きが遅い!!とか、お前の相手は何十メートル先にいるんだ?!ってな類です(--〆)

4f90b677.jpeg私的、かつ、お馬鹿な話はいい加減に致しまして。
今年は27日(日曜日)に行われました。
朝方は冷え込んだのですが、前日に比べれば風邪も弱く、日差しがあったので割合に暖かい日でした。
御参りに来た人たちも、鎌倉時代よりの伝統を引き継ぐ、勇壮でいて雅やかさも醸しだす古儀に足を止めて見入っている様子でした。

今年は良い天気に恵まれましたね~と、ホクホクとして帰ってきたのですが、午後からは雲が広がり気温も下がって、日が傾く頃には雪も舞い始め、夜半には積雪……奉納者の誰かに晴れ男(女)がおられたのやら??
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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