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そちらも私には無縁なんですけどねσ(^◇^;)
そしてしつこく上げるのは、『春日若宮おん祭』だったりします。
毎年、意味もなく、これでもかと言うほどの写真を撮りまくって、ハードディスク内に死蔵しているのも何なので、もう少し出してみる事に致します。
神職の方々が手渡しで運んでいるのは、神様に差し上げるお食事(神饌)で、こちらのように米をカラフルに染めた物(染御供:そめごく)や、五穀を貼り付けたような物も見られます。
息がかかってはいけないと、御膳を目の高さくらいに保つのがかなり大変そうです。
大和士の方々が入って来て拝礼をし、参道では大名行列が軽快な掛け声と共に進んで来ます。
そして射手稚児らは、一の鳥居まで戻って流鏑馬の奉納を行います。
このように幾つかの行事が同時並行で行われるので、何年か通って、今年はこちらを、来年は出来る事ならあちらをと、毎年思うだけは思うのですが……(^_^;)
お渡り式の行列の芸能者たちも、先頭に御幣を立てて渡って行きますが、お旅所での芸能に先立って、その御幣を奉納します。
ちなみに、神様が入られているお借屋の前まで、芸能者は勿論、日使も進む事は出来ないので、御幣は神職に手渡されて御神前に奉げられます。
この後、巫女さんによる社伝神楽から始まる『神遊び』が、芝の舞台の上で行われるはずなのですが、こうも振ってしまいますと如何ともし難い、仮の場所での実施となりました。
その辺も画像だけは、滅多矢鱈にあるのですが、気が向きましたら……(--〆)しつこい(--〆)
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大阪中之島の中央公会堂です。
明日まで行われている『OSAKA光のルネッサンス』のライトアップの一つです。
ここでも何度か紹介している『3Dプロジェクション・マッピング』という手法で、建物をスクリーンとして映像を照射しています。
綺麗なのですが、チョッとまだ明るい時間でしたから、鮮やか感が中途半端(゜_゜)
22日の難波京の現説の後に、どうせだから少しだけ覗いてみるかと行って見たのですが、人の多さに辟易として、淀屋橋の周辺だけでリタイアして来ました。
何せ、こんなところを一人で歩いているのが、矢鱈に場違いな気がしたし、図書館のマッピングの方は90分待ちなんて出てる……そこまで根性ないしなぁ、イルミネーションに対して。
もしも来年に行く事があったら、平日に出かけようかなぁ……付き合ってくれる御仁はおらんようにも思えるが(^_^;)
今回は、京内と推定される域の最南端もしくは、更に南側で見つかった五棟以上の大型建物です。
前日の夜から朝方まで降り続いた雨のお陰で、あちらこちらに水溜りが見え、足元もぬかるんだ中での説明会ですが、天王寺駅から歩いて数分という街中、結構、人出はあったように見受けられます。
新聞の記事では、何となく後期難波宮時期の高官の屋敷と思いたい様子が伺えましたが、如何せん、遺物らしい遺物が出ていないので、時代すらも判然としないところがありますし、高位者の屋敷なのか役所関係なのかも分かっていません。
要するにメインとなる時代の包含層が殆どない・゚・(ノД`;)・゚・
奈良辺りじゃ滅多に見られない様相です。
この様な理由で遺物が殆ど出ません。
遺構は6×3間の四面に廂を回した建物を取り囲むように、柱列や中軸線をそろえた四棟の掘立柱建物が並んでいる事が確認されました。
何れも正方位に乗っているので、難波宮関連の時代の物と考えて間違いではないのですが、それが前期難波宮期なのか後期難波宮期なのかが分からない訳です。
それにしてもメインとなる建物の柱穴は巨大で、一辺が1mを超える規模もざらだし、柱根の径も30cmを計るので、かなりの格式の物だと推測されます。
可能性としては、道がもう少し北か南にずれる、もしくは更に南に道があって、ここは2町占有以上のエリアになるかというところでしょう。
難波宮に条坊を伴う京域がある可能性が高まったのは、この何年かの事ですし、現在の復元も他の都城を参考に行っているので、まだまだ確かな事は言えないようです。
今はすっかり市街に覆われてしまった上町台地に、都の有った7~8世紀の様子を偲ばせるものは、殆ど無いと言っても過言ではありません。
北の四天王寺ですらも、度々の火災に姿を変え、伽藍配置と地下遺構だけが往時を語っているというところでしょうか。
昨年も一昨年もぼやいた気がしますが、相変わらずの不勉強のうめぞーは、『頭屋児(とうやのちご)』の役割を理解しておりません。
中央辺りの白い衣被(きぬかずき)を着けた小さな子供が稚児で、小学生くらいの男の子が二人選ばれています。
パンフレットに載っている名前を拝見していると、もしかして春日大社関係の方の子供さん辺りから選ばれているような?
それはともかく、この子供達は神様に仕える神聖な存在なので、地面に足を下ろしてはいけないという訳で、退出する時にはお付きの大人たちに肩車をされて行きます。
こちら(記事は別の戯言)は昨年の様子。
かつては大和申楽四座が出仕していたそうですが、現在は奈良市に宗家のある『金春流』と、京都の狂言方の『大蔵流』が御奉仕されています。
こちらにも極めて不勉強なうめぞーでして、最初に一人で舞われる『開口』、そしてこの画像の三人舞の『弓矢立合』、更には次の画像、『三笠風流』の意味しているところを全く理解しておりませんσ(^◇^;)
ところで画像をパソコンに出していて、ようやく気付いたのですが、『三笠風流』を演じている方、茂山正邦さんですよねn(ー_ー?)ン?
こちらも松の下に整列して、幾つかの演目を披露してくれます。
『松の下式』はここまでで、その後は馬に乗った『馬長児(ばちょうのちご)』、『競馬』、流鏑馬の『揚児(あげのちご)』『射手児(いてのちご)』などが続き、自衛隊の若い人たちに担がれた『野太刀』などの巨大な刀や槍が人目を引きます。
更に直垂(ひたたれ)や素襖(すおう)を身に着けた『大和士(やまとざむらい)』の方々が、騎馬や徒歩で続き、最後は賑々しく『大名行列』がやって来て、次々とお旅所に向かいます。
お旅所祭は14時半くらいから。
同じ頃、一の鳥居まで戻った『射手児』らによる『流鏑馬』が参道の馬場で行われています。
そこで『南大門交名の儀』という儀式を執り行います。
ところが私は、これを一度も見たことがありません。
何故かと申せば、何とかの一つ覚えみたいに、一の鳥居を入った所にある『影向(ようごう)の松』の前で執り行われる『松の下式』を見ようと陣取ってしまうためですσ(^◇^;)
その後から、赤い装束を着け、梅の木の真っ直ぐな杖『梅白杖』と、白い『祝御幣』を持った二人を先頭に、『十列児(とおつらのちご)』、『日使(ひのつかい)』といった人達がやはり騎馬で続き、『松の下式』が行われます。
この『松の下式』が始まる頃、少し先の参道では『競馬』が行われ、この勝敗によって『お旅所祭』での走舞(わしりまい)の順序が決まるのは有名です。
画像が少々多いので、記事を分けまして次に続く……ってのか、眠い(p_-)
何せ奈良市は正倉院展や紅葉が終わるとおん祭ムードになだれ込み(?)、クリスマスはチョイトかすめて、除夜の鐘ついたら、一気に初詣?
なんて事をいうと、市民の方から怒られるかもしれませんが、奈良市の12月には絶対になくてはならないお祭だそうです。
先週までは天気が危ぶまれていましたが、当日は朝から良く晴れてくれました。
ところが夕方から雨……寒気が思いの他、早めに南下してきたのでしょうか?
ともあれ、『お渡り式』の間は良い天気に恵まれました。
今年は岩谷産業株式会社の牧野明次会長です。
そしてこの綺麗な女性は『奈良巫女(ならのみこ)』、奈良町にある御酒屋さんの御嬢さんだそうです。
被衣(かずき)をいただいた巫女姿の女性が六名ほど、騎馬でお渡りに加わっていますが、前の四名は『辰市巫女(たついちのみこ)』『八嶋巫女(やしまのみこ)』『郷巫女(ごうのみこ)』『奈良巫女(ならのみこ)』と呼ばれ、それぞれの春日神領だった地区から選ばれた未婚の若い女性で、後の二名が『拝殿八乙女(はいでんのやおとめ)』と呼ばれる春日大社の巫女(みかんこ)さんです。
この画像の騎馬の子供達も、流鏑馬(やぶさめ)に参加する『射手児(いてのちご)』です。
他にはお旅所祭で『東遊(あずまあそび)』を舞う『十列児(とおつらのちご)』、『馬長児(ばちょうのちご)』、『松の下式』に参加する『頭屋児(とうやのちご)』、そして『子供大名行列』という具合に、多くの子供たちが参加してくれます。
この具足、かなり重いのですが、重要な役のためか、いつも割合に年齢の行った方が勤められているような……これを半日着ているのは、かなり大変なのだそうです。
これらの芸能者たちは正午に県庁前辺りから出発し、登り大路をJR奈良駅まで下り、三条通を再び上がって、興福寺南大門の前で『交名の儀』を行った後に、一の鳥居より入って来ます。
そして『影向の松(ようごうのまつ)』に向かって、『松の下式』を行います。
この場に立ち会うのが『頭屋児』です。
では、次は『松の下式』の様子でも……m(__)m
こちらは東石室ですが、西石室と変わり映えのあるようなないような画像で申し訳ありませんm(__)m
東石室は6世紀の後半に造られたとされ、古墳の中軸線(ほぼ南北方向に向いています)に平行しています。
それに比べて西石室は、開口部がやや南東の方向に振れています。
この事からも、東石室が墳丘に伴って造られた事が分かるかと思われます。
双方を見比べてみて、如実に違うのは石棺の有無ですね。
東石室に残された刳り貫き式の家形石棺は、熊本県の宇土半島から産出する阿蘇溶結凝灰岩(通称、阿蘇のピンク石)でできています。
ピンク石は西石室で使用されている竜山石と並ぶ、凝灰岩のブランド品とされていて、これをわざわざ遠方から運んで来ているというだけでも、古墳の主がただ者ではない事が分かります。
そして刳り貫き式は、石棺の内でも最高のランクに位置しています。
2000年の調査の時、石棺内にはギッシリと土が詰まり、既にずらされていた蓋石は割れた状態で見つかりましたが、石棺の中に遺物は全く残されていなかったという事です。
上の方でU字型に開いている部分は、盗掘時に掘られたようです。
断面に排水溝の石が二列に見えていますが、右側の物は新たに作り直されているとの事です。
ところで西石室の閉塞土は二段階に分かれていて、古い方は東石室(こちらの方が西石室より古い)の閉塞土よりも先に盛られている事が、断面の様子で分かります。
そのような訳で、東石室が土で塞がれたのは、西石室が造られた後という事になります。
そして今現在も閉塞土が残っているという事は、もしもこの二つの石室の主が改葬されているのなら、墓室から主が去った後も、この墓所は留守のままで大切に保持されたという事になります。
何故このような事がされたのか、明確な答えは当然ながらありません……
この後、墳丘の上にはまた覆い屋が建てられ、公園として保存整備の作業が続けられます。
予定としては平成28年に公開される予定だそうです。
この植山古墳も、周囲の造成に伴って調査された後期古墳で、2000年に発表された二つ並んだ大規模な横穴式石室で一躍有名になり、2002年には史跡に指定されました。
この写真は西側にある見瀬丸山古墳から眺めた姿ですが、墳丘自体は右の方、ブルーシートがかかり、一際濃い茶色に見えている辺りです。
尾根の南向きの斜面を削りこんで平坦部を造って、更に墳丘を四角く盛っています。
今回の調査は、その開口部で行っているのですが、新聞などのニュースで発表されたとおり、本来あるべき閉塞石が見つからず、かなりの厚さの盛り土で塞がれていた事が判明しました。
こちらは西側の石室を墳丘の上から見たところです。
東西の石室とも、既に天井部の石は失われていて、このように上から眺める事が出来る状況です。
奥の方に見学者が写っていますが、この辺りは以前には民家が建っていたため削平されてしまっていて、古墳の南側の様子と、南北の長さは分かりません。
そういう訳で墳丘の大きさは、東西が40メートル、南北が27メートル以上という事になるようです。
石室の構造や出土した須恵器から、この西石室は7世紀の始めくらいに造られたと考えられています。
石室の平面プランはほぼ無袖の形(石室の構造は両袖です)で、羨道(写真では奥の方)と玄室の境の位置に、石で扉を設けていたようです。
閾石は兵庫県の揖保山で取れる竜山石という凝灰岩で出来ていて、上には観音開きになる二枚の扉石があったはずですが、既に運び出されていて、周辺にある神社の敷石に転用されている事が確認されています。
この画像は、石室側から入り口側を見た様子。
床面のはり土は除去されて、石で作られた排水溝が見えています。
その奥に残されている土の上の方が、今回確認された閉塞土です。
左下に見えている二つの石が排水溝で、そこよりもかなり上、羨道部の西壁の下で水平面が見えている所の右側に残っている、やや明るめに見える土が閉塞土です。
どうもこの写真では、色の違いも良く分からないのですが、あまり西石室では残りが良くない状況です。
真ん中辺りに玄室の奥石が見えていますが、本来ならばこの前に置かれていてしかるべき石棺はありません。
今までの調査で、阿蘇産のピンク石(凝灰岩)の破片が出ているので、置かれていた可能性はあるそうです。
今回の説明会で調査担当者は、被葬者について一切云々はしておられませんでしたが、世間的な認識では推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓だろうと言われています。
『日本書紀』や『古事記』には、女帝が先に亡くなった皇子の大野岡の墓所に追葬されたとあり、後に科長に造られた新たな御陵に移されたとありますので、ここは最初の大野岡の御陵と考えられている訳です。
東石室に比べて西石室の方が四半世紀程度新しいようなので、これらの推測によれば、西石室に推古女帝が葬られたと考えて良いようです。
では東石室の様子は、また記事を改めましてm(__)m
三枚の画像を繋ぎ合わせているのですが、変な角度が着いていて、かなり歪んでいます。
それはともかく、飛鳥苑池も最初の調査から既に十三年、既に第7次調査になりました。
当初は調査担当者の卜部氏の名前を冠して、一部では卜部池などと呼んでもいましたが、今もその通称で通っているのかな?( ・◇・)?(・◇・ )?
南池は、ややいびつな五角形で、ここに見えている東側の岸から奥の南の岸に向かっては、鈍角というよりはゆるいカーブを見せています。
そのカーブの辺りは、護岸の石積みが高さ3メートル近く残っていますが、池全体の水位は、中央に作られた集石の中島が水面に出る程度と考えると、50センチくらいだったと思われます。
この岸沿いには画像に見るように、低い段差が設けられ、更には丸く石の無い部分が真っ直ぐに並んでいます。
上部は切り取られているようで、どのような施設に付随する物かは分かりませんが、抜取り穴の列は東岸と、北側の中島の岸に沿うように真っ直ぐ並んでいるので、双方に何らかの建物か何かが建てられていた可能性が考えられます。
柱の残る位置は、東岸の一番南側、カーブする少し手前くらいになります。
南側護岸の少し低くなった部分に、大正時代に掘り出された平らで溝のある石(第三石)が置かれ、その手前の池の中に段になった石(第二石)が置かれ、更に少し先に一次調査で見つかった立ち石の石造物(第一石)が置かれていた事になります。
しかし、第一石の穴の高さよりも、第二石の溝の高さは低くなるそうで、二つの石の離れた部分に水を上げるための別の構造があった可能性もあるようです。
それにしても今回見つかった石組暗渠は、石造物に対しても少し高い位置にあるので、水を流す施設だった事は一目瞭然なのですが、この水がどこから来ていたかが現状では分かりません。
現在の飛鳥川はこの池の乗る段丘よりも更に下を流れているので、川の流れる位置が変わっている可能性もあります。
遺構の南側には川が溢れて小石や砂が堆積している様子が見られるので、川底がもっと浅かったのかもしれませんし、暗渠にひいていた水は、川とは別ルートから供給されていたとも考えられます。
苑池は2010年から保存整備活用事業が始まっていて、それに伴う調査はこれからも続けられ、何れは公園のように整備されるようで、更に広い範囲を見て行く事になると思われます。
さて、次にはどのような発見があるものでしょう、期待して見守りたいと思っております。
ちなみに本日は、明日香村にて橿原考古学研究所の現地説明会がございましたが、これはまた記事を改めまして。
この島状の墳丘が何処かと申しますと、堺市の百舌鳥古墳群に所属する『土師ニサンザイ古墳』です。
江戸時代には反正天皇陵と言われていたようですが、現在は三国ヶ丘にある『田出井山古墳』にその座を奪われまして、陵墓参考地になっています。
前方部側から見ての第一印象、後円部が見えないくらい前方部が広い、つまり大型前方後円墳としてはかなり新しい訳で、五世紀の末くらいになるのかも知れません。
そして横に回ってみると、前方部と後円部の高さが殆ど変わらないので、やはり新しい部類に入る事が良く分かります。
上の画像は北側に設けられた造出しで見つかった埴輪列の基底部分と、須恵器の大甕の破片です。
宮内庁の書陵部の調査によると、この調査区では小型丸底壷(普通のサイズよりかなり小さいです)やミニチュアの鏡形らしき土製品も出土しているそうです。
そしてこの画像は造出しの裾の様子、滑り落ちた拭き石や埴輪片が見られます。
こちらの画像は後円部の北側、一段目のテラス(平坦部)から二段目の斜面裾にかけて開けた調査区です。
手前には五本分の埴輪列、奥の斜面には拭き石が出ています。
この間隔で埴輪が並ぶとしたら、一段目のテラスだけで2800本は並ぶのだそうで、二段目や三段目、造出しにも並べられているとしたら、6000本は越えるだろうとの事でした。
参考までに申しますと、こちらは300メートル近い大型古墳ですので、前方部も後円部も三段に造られています。
これらの埴輪は既に窯で焼かれていて、中には須恵器化している物も見られますので、そこの面から見ても比較的新しい古墳である事が分かります。
写っているのは埴輪列と斜面の上部のみですが、濠内に開けたトレンチでは裾を検出しまして、従来推測されていた位置よりも5メートルは裾の位置が外になる事が分かりました。
前方部でも同様だとすると、290メートルとされた全長が10メートル程度伸びる事になりますので、300メートルを越える可能性も出てきます。
そして見るからに広い周濠が現在も見られますが、この外側にも堤を挟んでもう一重の周濠が調査で見つかっているので、東西は485メートル、南北は490メートルにもなるようです。
何せこの古墳、前方部がおっそろしく広い……昔の測量図では224メートルもあるそうですから。
この時代に古市古墳群ではなく百舌鳥古墳群に、これだけ大きな墳墓を築いたのは果たして誰なのか、基礎知識を忘れているのでイマイチ予測がつかないのが、何とも情けない状況ですが、久々に見る大王墓級の古墳にはやはり圧倒されるだけの物がありました。