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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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これは舎利殿です。2月の半ばから今日まで、法隆寺東院の『伝法堂』が公開されると言うので、何とか午前中に脱稿してしまって、大急ぎで行って来ました。

この建物がそうなのかって?
これは
今年の正月に見て来ました『舎利殿』ですね。
『伝法堂』はこの奥にあるので、赤い上着の方の前にある階段から入ってゆきます。
普段は七月二十四日の『地蔵会』の夕方にしか空けないので、今日が最終日という事もあって、結構人が来ていました。

この奥に見えているのが、御堂の入り口です。御堂の中には、三組の阿弥陀三尊像がおられまして、他にも弥勒如来、薬師如来、釈迦如来でしか、そして梵天と帝釈天がおられました。
いずれも奈良時代から平安時代の仏像のようです。
しかしこの堂の主役は、中央の前面に立っている室町時代生まれの地蔵菩薩だそうです。

実は私は仏像の方はあまり真剣に見ておりませんで、柱やら梁を眺めておりました。
多分思うに、仏様と同じくらい御堂も古いはずです。
法隆寺は一度全焼していて、和銅年間から再建が始まったと思われます。

『伝法堂』外観
そしてこの堂は奈良時代の後半に、聖武天皇の夫人(ぶにん)の橘古那可智(たちばなのこなかち)という方が、寄進した物だそうで、元々は邸宅の中の建物の一つだったと考えられています。
前身建物の復元図では、手前の二間は吹き抜けで、奥三間はいずれも観音開きの戸が付いている形になっていましたか。
いずれにしても、仏堂にするに当たって多少の改装はしていますが、奈良時代の家屋建築の貴重な資料として有名です。

古那可智という女性は、橘佐為の娘ですから諸兄の姪になります。
藤原是公の奥さんの真都我(まつが)は妹になるはずです。
天平宝字元年に、お騒がせな従兄弟の奈良麻呂が謀反騒ぎを起こした後、橘氏の名前を一時的に避けたようで、晩年は広岡朝臣を妹ともどもに名乗っていました。
この方はその三年後になくなるので広岡朝臣のままでしたが、妹は後に橘朝臣に戻ったようです。
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かつてはとても大きな寺でした。奈良時代の大安寺』は、南都四大寺の筆頭に上げられる国家寺院でした。
飛鳥・藤原京時代には『大官大寺』と呼ばれていました。
かつては左京六条七条の四坊を丸々閉めるほどの広さで、『東大寺』建立以前は、間違いなく平城京で一番大きな寺でした。

本日(既に昨日)一月二十三日は、こちらのお寺が最も賑わう『光仁会 癌封じ笹酒祭り』の日です。
私は始めて行ったのですが、今年は土曜日でしたので、特に人が多いのかなと思いきや、ご近所らしい方々が、夏にも癌封じの祭りをやるようになってから、以前よりは混雑しなくなったと言われていました。

竹の杯です(*^_^*)ご祈祷を受ける方以外は、拝観料(かな?)を払うと、こちらのような真竹(かな?)を切った杯をいただけます。
そして下の画像ように若くて綺麗な女性たちが、竹筒でお燗を付けた日本酒を注いでくれます。
これがちょうど良い具合のぬる燗でして"^_^"
おまけにおかわり自由?
何杯か頂いた後、少し境内をふらついて、また戻ってきて更に一献といわずσ(^◇^;)
いえ、こういう事をするのは私だけでなく、注いでもらったお酒を水筒などに移して持ち帰られる方もおられましたから……
私も、もしかしたら三合くらいあけてたか( ^^) _U~~

このようにお酒を注いでくれます。ところで何故、こちらの御寺で『光仁天皇会』を行うのかと言いますと、これは延暦元(782)年十二月二十三日に太上天皇(光仁天皇)の一周忌斎会を大安寺に設けたという『続日本紀』の内容によるためだそうです。

当時としては七十三歳での崩御はかなりの長寿です。
何に書かれているのか、白壁王(光仁天皇)は「林間酒を温める」という飲み方を好んだそうで、笹酒はその事や長寿にあやかって振舞われるのだとか。

ところで大安寺といえば、光仁天皇の第二親王である早良皇太子が出家時代に過ごした寺の一つとしても知られています。
宝物殿で護摩祈願を申し込んで、仏像を拝見しておりましたところ、係りの方が『崇道天皇と大安寺』という冊子を下さいました。
昭和60年(1985年)といいますから25年前、こちらでの崇道天皇1200年御忌の際に刊行された物のようです。
この御仁に関しては、まったくの不勉強が祟りまくってますので、これから目を通しまして少しは勉強せねば(~_~;)(^_^;)(@_@;)

天気はうす曇中門を入ると右に金堂、左に、門から伸びた回廊は金堂と塔の後の講堂につながる、この伽藍配置は『法隆寺式』です。
つまりここは、ズバリ、『法隆寺』です。
聖徳太子に疎まれている(と思い込みのある)うめぞーが、どうして法隆寺に行ったのかと申しますと、正月の三が日に行われる行事のためです。

そういう訳で法隆寺に行ったのは昨日の事で、今日(四日)は私、仕事始めでした(゜.゜)
一月一日から三日まで法隆寺で行われるのは『舎利講』という法要です。
厩戸皇子(むしろ聖徳太子)が二歳の春に、東を向いて「南無仏」と唱えた逸話は有名で、その像も多く作られていますが、この時に合わせた手の間から一粒の御舎利が零れ落ちたのだとか。
そしてその御舎利を正月の三日間のわずかな時間だけ、衆生にも拝見させてくれるのがこの儀式です。

「絵殿」「舎利殿」共に、「夢殿」の北側にあります。御舎利は普段は東院伽藍舎利殿に安置されています。
十三時より少し前に絵殿舎利殿が開けられて御僧侶方が御出でになり、粛々と法要が始まります。
そして最後に、厨子から赤い包みが取り出され、衆目の前におかれた台の上に置かれ、七重の袋が一枚ずつ開かれます。
袋の裏地の色は外側から、白、紫、薄黄色、黄色、薄茶色、縹色、薄紅色でしたが、緒の色はちゃんと見ておりませなんだ(~_~;)
そして最後に現れるのが、水晶で作られた五輪塔をかたどった舎利瓶です。

私はかなり良い場所に陣取りまして、結構間近に見ていたのですが、舎利瓶の内側が少し曇っていたせいか、御舎利があまりに小さいためなのか、全然見えませんでした(T_T)
周囲の方々も、全く分からなかったそうで……覗き込む訳にも行きませんしねぇ。

菊花紋が上下に並びました。法隆寺に行ったのは、実に六~七年ぶりでしょうか。
車で一時間程度の場所で、見るものも決して少なくない寺院ですが、足が遠のきがちなのは実は拝観料のせい?σ(^◇^;) ?

それはともかく、こちらに隣接して『中宮寺』があります。
こちらで御正月に見ることが出来るのは、この画像のような可愛い注連飾りです。
もう少し大きな画像にしたかったのですが、破風の菊の御紋と並べたかったため……なのに、上の御紋は殆ど分かりませんね(*_*;
この注連縄、十六弁の菊花を象っています。
何せ尼門跡寺ですから。
法華寺円照寺でも、同じような注連縄を飾られているのでしょうか。
今度確かめに行ってみたいです……って、来年の正月の話か(ーー;)

ほぼ等身大の大日如来です。柳生の少し手前、忍辱山町にある『忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)』といえば、この写真の大日如来坐像で有名でしょう。
写真ではかなり昔から御縁があるような気がしておりますが、実を申しますと私は先日の日曜日に初めて、こちらの御寺に伺い、この仏様にも御逢いしました(-_-)
再建された多宝塔の内陣に、このように座っておられました。

運慶の二十五歳の時の作で桧の寄木造り、制作にかかった期間はほぼ十一ヵ月だそうです。
父親の康慶が工房の主とはいえ、この若さでこれだけの像の制作に携わるとは、やはり後世に偉才の名を残すだけはありましょう。


これこそ最古の春日移し先の大日如来像も国宝ですが、ここにはもう一つ国宝に指定された建築物があります。
それがこちらの二つの社、『春日堂』と『白山堂』です。
頂いた拝観案内によりますと、安貞二(1228)年の春日大社式年造替に際し、当時の大社の神主だった藤原時定が古い社殿を寄進したのだそうです。
奈良市内にもいくつかの春日移しの社殿があり、こちらの戯言でも紹介致しましたが、殆どの物が江戸時代でも新しい方の御社で、ここまで古い鎌倉時代初期の物は残っていないそうです。
見慣れた社に比べるとやや小ぶりで、勾欄などのつくりも何となくシンプルに感じますし、縁の周囲の板(何という名前なのか分かりません、不勉強で(+_+))に描かれた御馴染みの模様も見られません。

こちらの寺院の庭園は名勝として指定された、優美に平安時代の面影を残す見事なものです。
標高が高いためか既に紅葉が始まっており、もう一月もしない内に見事な色合いに染まる事が予想できます。
もし機会があったら、今年の紅葉はこの辺りに見に来ましょうか(゜.゜)

コスモスの寺ですから思いっきりベタな写真で申し訳ありませんm(__)m
まさに寺の名前を冠した奈良市般若寺町にあります『般若寺』です。
コスモスが見に行きたかったのではなく、実は夕方から行われるライトアップの招待券を頂いたので出かけました。
何せ当日の再入場が可能だと言う事で(^^ゞ
そういう訳でこれは昼ごろに写した写真です。

今回こちらに行って一番良かったのは、花でも石塔でも石仏でも本尊の文殊菩薩でもなく、特別公開をしていた小さな金銅仏です。
白鳳時代に作られた阿弥陀如来なのですが、何でも昭和39年に境内の真ん中にある十三重石塔を解体修理した時に、その中から見つかったのだそうです。
そしてその白鳳仏の台座部分には更に納入品がありまして、これがまた10センチ内外しかないのに、これでもかと言うほど精緻に刻まれた大日如来坐像、地蔵菩薩立像、十一面観音立像の三体です。
こちらは鎌倉時代のもの、石塔の建立時に奉納された物なのでしょう。

弾き語りのライブもありました。ライトアップは17時から、如何せん時間があり過ぎると、向かいの『植村牧場』のレストランでちょいとリッチに昼食を取りまして、更に『奈良豆比古神社』にも足を伸ばし、それでも時間がまだあるのでと、出かけた先は柳生の入り口『忍辱山円成寺』です(^_^)
名勝と言われる庭がもう紅葉していまして、こいつはまた、気が向いたら紹介でも致します。

そして『般若寺』に戻って来た頃には日も暮れて、境内のあちらこちらに行灯が置かれて火が燈され、本堂の前では弾き語りのライブも行われていました。
昨夜とは違って寒くもなく暑くもない、ちょうど良い気候でしたので、ますます良かったですね。
ライトアップは今日までだという事で、こちらもちょうど良かったですわ(^_^.)
法要に向かう衆僧西国三十三ヶ所観音霊場の第九番目に当たるのが、興福寺の南円堂です。
こちらはいつも外から拝むのみ、堂内に入る事ができるのは一年に一度だけ、十月十七日(毎年同日)です。
そして今年は土曜日に当たっているのを幸い、久々に行って参りました。
ところが興福寺の境内に入った途端、このような御僧侶が御堂に向かっているのに出会いました……もしかして、これから法要?
拝見を待っている人の列に並んでいくらもしない内に係りの方が、これから法要を行いますので、一時間ほど御堂に入れませんのでご理解のほどをお願い致しますと……(*_*;

ところで今日の興福寺は雨模様なのに、チョッと混んでいます。
そして土曜日とは言え、南円堂の拝観日がこれほど混むのも珍しい状況のようです。
その理由は何かって?
今日から『
興福寺国宝特別公開2009-お堂で見る阿修羅-』が始まっているためのようです。
このイベントは11月23日まで行われるのですが、来週からの正倉院展の頃には滅茶苦茶混雑が予想されそうですし、終わる直前も恐らく長蛇の列が出来る事でしょう。
ところが今日はと申しますと……南円堂の前の列よりも遥かに空いていますわ、と言うか、列そのものが仮金堂の前に出来ていないんですよ。
そういう訳で、これから一時間の時間をただ待つのも芸が無い、九州から帰って来た八部衆十大弟子でも拝みに行きますかと、拝観権売り場のテントに向かうのでした。

仮金堂に入るのは何年ぶり?
いつぞに『慈恩会』に行った時以来ですわ。
こいつは消えちまったセカンドページに記事があったんですけどねぇ……困ったもんだね、まったく(--〆)
それはともかく、あの大きな江戸仏の釈迦如来の前に置かれた阿修羅像の姿が、何とも奇妙でした……というか微妙なのかな。
造られた時代が約1000年違うのですよね。
一瞬、合成映像を見ているような変な感覚すら覚えまして、これはこれでかなり面白いかなと私には思えましたわ(-_-)
仮金堂から出ようとしたら外は土砂降り、もう少し踏みとどまって、大きな本尊や鎌倉仏に囲まれた天平仏の一群をぼけ~っと眺めておりました。
乾漆仏の装飾は綺麗です、見慣れた鎌倉仏の切金とはまた違う優美さがありますからね。
それがこれだけ見事に残っているのは大したものですとは、沙羯羅や緊那羅を眺めつつの感想です。

南円堂を南から見上げて雨も小降りになったので南円堂に向かいますと、相変わらず長い列が出来ていまして、お陰で待つ事30分弱、ようやく御堂の中に入れました。
こちらの不空羂索観音に御逢いするのは一年ぶりでしょうか、相変わらず貫禄ありますわ。
仮金堂の四天王もそうなのですが、康慶の仏様は実に堂々としておられます。
つい、国宝館に並ぶ天平時代の仏様に目が行きがちですが、興福寺は鎌倉時代の代表彫刻の宝庫なんですよね(^・^)
北円堂の御本尊(弥勒如来)や無著・世親立像も然りですね。

ところでついでの与太言でも……(-_-;)
仮金堂の内では繰り返し八部衆などの説明をしてくれていました。
八部衆の作られたのは天平六年、西暦にすると734年の事となるそうです。
……ってぇと、うちのスメラミコトよりも年上になるな、三つほど。
もしかして、そうすると、蔵下麻呂と同じ年なんだ……(・・?
へぇ~ぇ、蔵下麻呂って阿修羅像と同い年ねぇ……いや、可笑しくもないし、どうでも良い事なのですけど、つい笑いがσ(^◇^;)
何もなさそうな窪地?相変わらず下手くそなパノラマ写真を載せて、何を見つけてみようなどとほざいているのやら?
空の色が途中から変わっておりますが、この場所は大仏殿の西側から戒壇院の方向に下がって行く窪地です。
取り立てて何があるという訳でもなく、鹿が草を食んでいる光景に出くわすようなだだっ広い場所です。
私の記憶が正しければ、右手方向の斜面の辺りに盧舎那仏鋳造のための遺構があるはずです。
そういうあいまいな記憶で、何を探せというのやら……

先日に『紫香楽宮跡(甲賀寺跡)』に行きまして、あの丘の上に立っていて考えていた事の一つが、この鋳造遺構の事なんです。
この場所から見ると、金堂(大仏殿)の場所は山裾の小高くなり始める辺りに位置します。
鋳造の技術者たちは、この斜面を利用して鋳造炉を設けて銅を鋳溶かす事を考えたのでしょう。
紫香楽でも、同じプロジェクトチームがその作業に当たろうとしていたはず、やはり金堂を丘の上に持って来て、裾部に炉を設け、斜面に吹き付ける風を利用して鋳造を行う計画を立てていたかも知れません。

見落としそうな小さな社です。まぁ、私はこういう技術的な分野にはかなり暗いので、具体的にどういう条件の場所に炉を設ければ効率的に作業が行われたかが、とっさには分からない状況です。
ともあれ、このような未曾有の鋳造作業に携わったのが、半島出身の人々だそうです。

大仏鋳造の長官は国中連公麻呂という人で、この人の祖父は天智二年に百済より渡って来た国骨富、まさに白村江、周留城の敗戦の後に国を失って渡って来た人です。
公麻呂はこの功績により、他の造寺にも携わったばかりではなく、造東大寺司次官にまでなっていますので、技術屋としても実務屋としても有能な人だったのでしょう。

大仏殿の東側斜面の石段を登ったところに、このような赤い鳥居が見えます。
この小さな神社は『辛国神社』もしくは『天狗社』とも呼ばれるそうで、すぐ近くの売店の御主人に伺ったところ、大仏造営に関わった渡来系の技術者を祭った神社だとの事でした。
気をつけていないと通り越してしまいがちで、訪れる人もあまりいない様子ですが、少しばかり心引かれる場所である事は間違いありません。
これは石灯籠終戦の日というよりも御盆ですか、八月十五日は。
ともあれ十六日の奈良市は、めっきり観光客も少なくなり、峠は越えたかなという感じだそうです。
次の週は『地蔵盆』、更に次の週は『バサラ祭り』、これにて奈良市の夏はフィニッシュだそうです。

人に言わせれば『なら燈花会』よりも人を集めるのはこちら、『春日大社中元万燈篭』だそうです。
この何年か私は、二の鳥居をくぐった辺りで引き返してしまいます。
本殿回廊内に入ろうと思ったら、若宮社の方まで伸びた行列の後ろに並ばにゃならん、これが鬱陶しいε-( ̄ヘ ̄)┌

火の数は百八つそして二十時点火の高円山の大文字送り火……京都五山よりも私にとってはかなり身近な夏の行事なのですが、如何せん歴史は足元にも及ばぬのと、この少々下手くそにも見える文字の形のせいか、地元以外では、あまり知名度もないかもしれませんね。

久々に飛火野で点火の瞬間を見ていたのですが、背後の方で自衛隊か警察の音楽隊が演奏を始めた辺りで退散致しました。
何か、ブラスバンドという気分じゃないんですわね、ここ最近は。
こちらの会場で販売している『大文字』の団扇、大昔(いつじゃ?)には先着で無料配布だったんですよね。
それがある時から300円になって、今は400円と500円の二種類があります。
こいつも夏の間なら、観光案内所で売ってるのね。
JR奈良駅の旧駅舎が、最近、観光案内所になりまして、ここには間違いなく置いてあります(^^ゞ

大仏さんの顔の前の窓が開くのは、御正月と御盆です。
やっぱり行くべきはこちら、『東大寺万燈供養会』です。
火が入る七時から十時までは開いてますし、何と言いましても回廊の中門が開いて、大仏さんの正面の窓が開くのもこの時と正月と、特別の法要の時くらいです。
おまけに拝観料も無料(^_^;)
そして、多少時間が遅いくらいの方が、人も少なくなって良いです。

この燈篭なのですが、1000円くらいで受け付けてくれるらしいので、来年は機会があったら奉納しようかしら(゜.゜)
この方は一体何方?このお方は、さて……一見、十一面観音に見えなくもないのですが、腕が四本あります。
姿を窺うに、決して古い物ではありません、と申しますか、明らかに現代の彫刻です。
おまけに露座?
このお方も東大寺に居られるのかと申しますと、確かに境内の一角に居られます。
良く分かりませんが、派手で綺麗な御方です(^_^;)

以前に紹介しました二月堂の手水の横に、登って行く石段があります。
ここを登りますと、手向山の中腹の道に出ます。
この道を更に南東の方向に歩いて行きますと、道の左手にこのお方が座っておられました。
もう少し行くと御堂がありまして、確か不動明王を御祭していたように記憶しているのですが、よく覚えておりません(-_-;)
また近い内に見に行ってみますかσ(^◇^;)

こんな可愛い御方も居られます。こちらの小さな仏様はと申しますと、先ほどの座像よりも手前、石段を登った辺りに居られます。
陶芸家の方の作品にも思えるのですが、このように水などをお供えしてあったので、やはり信仰の対象としておかれているのだと思います。

私もごく時たま、気が向きますとこちらの方にも上がって行くのですが、一般の観光客に出会う事は滅多にありません。
夕刻の観音堂もうとっくに昨日ですね。
三月十四日、東大寺修二会のおたいまつの最終は、十本が一辺に欄干に並ぶので有名です。
この日は十二日の晩の籠松明に次いで、多くの人出があり、他の日とは違って十八時半より点火されます。
混む事は予想していたのですが、一時間前に東大寺の参道に向うと、いずれも北に向う人々、鏡池の手前の脇道を入って、手向山八幡宮、法華堂、観音堂の方向に人の列は続いています。

観音堂というのが通称二月堂、十一面観音を本尊とし、修二会の法要を行う事からこのように呼ばれています。
お堂に向う広場は既に人だかり、堂の下の火の粉のかかる様な場所には既に入場制限が出ていました。
それでも、遠くても堂全体が見渡せる場所がまだ空いていたので、そこに陣取って約四十五分……午前中までの雨で寒いの何の(*_*;

金堂の大屋根と生駒山、そして奈良市街実はこの尻つきの松明、私は初めて見ました。
何せ土日に当たるのは滅多にありませんからねぇ。
それで画像は?
ずっと動画で撮っていたので、静止画像がないんですわσ(^◇^;)
最初の松明が階段に姿を現してから、十本全部が並び、一斉に振り回されて、火の粉の瀧に堂が浮かび上がり、十本目が堂脇に消えて行くまで八分程度ですから、いつもの三分の一程度の時間で終わってしまいます。

そして御堂まで上がるのにも、帰る人向う人の流れの制限が敷かれていて、しばらく待たされました。
堂内に入るにも混雑している様子でしたので、さっさと引き上げてまいりました。
まぁ、外陣で味わう事のできる法要の様子なら、もっと空いている日に行った方が良いのかもしれません。
修二会の本業は二週間、今年も明日の朝で終了します。
お水取りが終われば奈良も春、境内は既に梅が終わりかけ、椿や馬酔木が見頃を迎えようとしています。
氷室神社の大枝垂れ桜の蕾も色着いて、来週には開き始めるかもしれません。
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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